自分の中の本当のところに気が付けていないから、何か書こうとしても表面的なことばかり繰り返すことになる

書くことが、毎回表面的でつまらない。

どうして同じようなところを堂々巡りするのか。そう考えた時、自分の心の深淵に気づいていないのではないかと思い始めた。

表面的な所。水辺でちゃぷちゃぷしているだけで、自分の中の残酷さ、冷たさを見ようとしていない。だからいつも、波が行ったり来たりしていますというような文章しか書けないのではないか。
 
では私の心の深淵はどうやって探ればいいのか。

上司に対する不満。私を下に見てくる連中へのいら立ち。今精一杯考えてみても、私の中にあるいら立ちはそんなものだ。

もちろん、日本政府に対する腹立たしさや、アメリカや、中国に対する不満はある。でもせいぜいそんなもので、私の心の深淵は見えてこない。

奥の方が暗すぎて、良く見えないということもある。もう一つは、その奥の気持ち悪いものを掬い上げたところで、それに意味があるのかという気もする。
 
深い池の水を一生懸命抜いたところで、中にあるのは、ビニールの袋。古タイヤ。自転車。傘。大量の空き缶。中に不発弾でもあれば大騒ぎだろうか、せいぜいそんなものだ。

私の心は、今のところ正常すぎる。心理学の研究は、少し異常をきたした人を観察することで進んできた。そういう人を治療しようとする中で、心の変わったところを見つめてきた。

健康的な心を持っていることは、毎日をまっすぐに生きていくには快適で、ありがたいこと。でも心の形を知ろうとするには、どこからどう見たらいいかわからない。何のヒントも転がっていない。
 
結局、心の深淵を知るためには、毎日表面的な部分を眺める。そこに浮かんでくるゴミや、魚や、波の形を書き留めるしかない。

心の海に、船に乗って乗り出す方法や、潜水する方法を今のところ私は知らない。だから毎日表面的なものを見ている。見ていることしかできないのだとしたら、目を凝らしていけば、さらにいろいろなことに気が付ける可能性はある。

小さなことを言えば、昨日と同じ海はない。光の刺す角度が違うし、時間帯によって、潮の満ち引きの状態も違う。そういうところに気が付いていけば、岸から海を見ているだけでも、飽きることなく海の様子を書いていくことはできるというものだ。
 
物事の解像度を上げてみる。見ているのは海なのか、湖なのか。砂地なのか、コンクリートで固められているのか。岸壁なのか、磯なのか。海に潜れないという不満ばかりを感じるのではなくて、解像度を上げて、心を見つめてみる。
 
私という人間が、本当はどこに行きたいのか。何をしていけば、嬉しいと感じ、満足できるのか。何を悲しいと感じ、何をずるいと感じるのか。なりたくない自分はどんな自分なのか。そのあたりは、解像度を上げていけばわかってくる気がする。

それをどんなふうに文章化したら、それが見えてくるのか。
心の混沌から、理解可能な形で、どうやって言葉を釣り上げてくればいいのか。
確かなことは何もわからない。

うまくいったような気がする時がある。
絶望的な気持ちになる時がある。
そんな毎日なのだ。

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