頑張ったなって言っておくね
お世話になっております。M2の林亮佑です。
11/30-12/1に行われました、日体大記録会について書きます。
6年間やってきた大学・大学院陸上の引退試合が終わりました。結果は上記の通り。3年間出せなかったPBを更新できました。1秒半とちょびっとの更新ですが、よく頑張ったと思います。当時(B3)と今(M2)では自分を取り巻く環境が違いますから。
B3時の5000m PBは出て当たり前の状況下で出たものでした。チームの層が厚いだけでなく、北大として出雲駅伝の出場が決まっていたため、皆が平時に増して力に磨きをかけていました。出雲こそ不発に終わりましたが、当時の日体大記録会の結果を振り返ると、15名中10名がPB。PBを出せなかった人の中でも1名はペースメーカーでの出場、1名は社会員1年目でほぼジョグしかしてないOB(某カモさん それでも15分ちょいで走る)ですから、その2名除くと10/13がPBだったわけで、驚異的なPB率だなと改めて思います。また私達の代、当時のB3が6名PBを出しています。今M2である各員は、当時を振り返って色々なことを思うのでしょうが、私としては陸上が楽しく、投下する時間も十分にあって、良い時期だったな〜などと思います。
M2の今はというと、よっぽど頑張ってやっとPBを出せるという感じでした。こうなっている要因は、「M2だから」というより、自分が陸上をやりづらい方向に舵を切っていったという側面が強いです。B3で陸上を十分に楽しんだ気分になった私は、陸上以外もなんかやってみたいと思うようになっていました。大学生っぽいことしてみたい、と安直に考えました。今思うと、だいぶ妙な大学生観を持っていたものだと思いますが、やったことについてちょっと書かせてもらいます。
バ畜になりました。某ハンバーガー屋とコンビニのバイトを掛け持ちし、B4の3月から安定して10万円稼ぐようになりました。ひどい時は週に3時間しか余暇がない…と嘆きながら、バイトの心的な疲れを同期の奥村と過ごして休める、と言ったことをしていました。労働基準法が怖いので詳しいことは書けませんが、陸上をする時間なんてほぼありませんでした。また、勢い余って今話題の103万の壁を突破し、親に迷惑をかけました。
厳しめの研究室に入りました。「陸上をやりたいから比較的楽と噂の研究室に行く」と行った話をちょいちょい聞きます。が、「大学生でしょ?研究頑張ろうぜ」と思っていた私は楽とかガン無視で研究室を選びました。ちなみに選んだ理由の方は「授業でメールから質問した際に、その研究室の先生から想像の10倍の量の丁寧な返信が来た」ことだったりします。いい指導が受けられそうだ!とそんなところが今いる研究室を選んだ理由です。で、研究室でも後々、割と膨大な量のタスクを抱えることとなります。
幅を広げることでシナジーが生まれ、陸上もみるみるタイムが伸びる…なんてことはありませんでした。時間の投下量ってやはり、大事です。単純に練習時間を取れず、力は落ちました。B4はB3までの貯金や、自分の好きな七大戦があったのでそこに向けて練習したりで、そこそこやることができたのですが、M1、M2は酷いものでした。前のnoteで書いたかもですが、M2の東北大戦で野呂くんに「昔の速かった林さんはいない」と言われました。まあ妥当な発言でした。
M1、M2の時期で陸上部から足が遠のくところを、留めていたのは同期でした。同期の皆が陸上を続けていて、頑張っている。その熱に当てられたいというか、もっとみんなと頑張って喜びあいたいという、未練がましいような気持ちが、陸上を続けさせていました。とはいえどこか二の足を踏んでいたところで、覚悟を決めてもう一度頑張ろうと思えたのは、今年8月の駅伝で涙を流す人を見た時だったように思います。泣けるほど頑張れたか?こんな状態で陸上を終えていいのか?と。駅伝でその瞬間頑張ろうと決めたというよりは、練習をする中で駅伝がフラッシュバックして、更に頑張ろうと後押しされ続けた、ということが正しいかも。
そこからは改めて練習に力を入れました。9、10月は非常にいい感じに練習を積むことができ、タイムを伸ばすことができました。このままいけばPBは確実だろうというところまで見えました。しかし、鬼門は11月でした。学会発表と修士の中間発表、その他諸々(バイトも結構忙しかったり…)が控えており、ポイント練習は週1できたらいい方という状態でした。最後の1ヶ月をどう過ごすかは相当大事です。気の緩みでタイムを落とす行動に走ることのないよう、自分が達成できる範囲で、なすべきことを書き出しておいて、それを毎日確認するようにしていました。こういうの、本来ずっとやるべきなんでしょうけどね。1ヶ月の中で岡山で走ったり登別で走ったり稚内で走ったりと、あっち行ったりこっち行ったりで予定の合間を塗って走って補強してと、書き出しておいたことを達成できるよう頑張りました。
日体大前最後のポイント練習を終えた時、日体を走る前にすでに「終わったな、頑張ったな」という感がありました。奥村と「俺たち頑張ったよな」と言い合いました。こうして書くと恥ずかしいですが、まあお互い、そう言いたくなる心情でした。M2って忙しいんです。PBを出すレベルまでやるのって相当きついんですよね。でもなんとか、やり切れた。駅伝でのやり切れなかった気持ちは試合前すでに報われていました。
結局、涙は出ませんでした。M2の3人、宮瀬・奥村・林で申請タイムを同じにし、同じ組で日体大を走りました。申請タイムは14分25秒、このタイムで出せるまで一緒に頑張った 2人に感謝しながら、スタートラインに立ちました。走り終えて、日体前のポイント練を超える感動はありませんでした。PBを出せたことは正直、ああそうか、ぐらいにしか思いませんでした。
陸上は自分にとってどちらかというと苦行でした。ジョグも補強も、出来ればしたくない。しないで映画を観たり本を読んだり旅行してドライブをしたり、バイトをする方が楽しい。走ること自体はそこまで好きではありませんでした。だから陸上から一時遠ざかりました。自分にとって陸上のモチベーションとなるのは、ポイント練習・試合でお互い力を出し合うこと、「頑張ったよな」とお互いを称え合うことでした。陸上をするのは他人ありきでした。
中、高、大、院と陸上を続けていますが、思い返せば、どの時代においても仲間に恵まれていなければ陸上を辞めていました。これは、それぞれの時期で私と過ごした仲間の皆様は、何度も頷くところでしょう。恵まれた陸上人生を送ってきました。改めてこの幸せに感謝したいと思います。
そんな私なので、来年以降、陸上を続けているかは相当怪しい。ですが、多分細々とやっているでしょう。ここまで支えてくれた同期が博士に進学し、陸上を続けます。日体大でまた勝負しよう、と思っています。
最後に、ここまで陸上部で一緒に活動してくださった皆様、ありがとうございました。また、学部1年から修士になるまで支えてくれた同期の奥村、宮瀬、秋野、猪又、吉雄、我々頑張ったな。これまでありがとう、今後もどうぞよろしくお願いします。