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【桐島聡容疑者の最後】

 半世紀に渡り指名手配され、昨年1月に入院先の病院で死亡した。桐島聡容疑者。
 その最後の状況が始めて明らかになりました。
1947年 過激派の東アジア反日武装戦線による、三菱工業爆破事件で8人が
死亡、380人が重軽傷を負った。
 この事件のあとに相次いだ爆破事件の一部に関わったとして指名手配されていたのが当時、大学生であった桐島容疑者です。

 内田洋という偽名を使って逃亡を続けた末、死の間際になって本名を名乗った桐島容疑者。
 病院関係者が始めてんNHKの取材に応じた。

小林修三院長
「自分の名前が実は桐島なんだということを警察に伝えてくれ」と

おおよそ50年 偽名を使い続けた桐島容疑者が死亡する直前、病院の書類に自ら書いた名前(文字は震えていた)

 昨年、1月14日の夕方、神奈川県の路上で倒れていた桐島容疑者が鎌倉市内の病院に運ばれた
 当初、内田洋と名乗り入院申込書にも偽名を書いていた。
 入院中、固形物を食べることができず嘔吐を繰り返していた。末期の胃癌であった。
 入院から11日後の朝9時、昨年1月25日病室からナースコールがなる。
 対応にあたった看護師に桐島容疑者が語りました。

看護師
 出勤し、ナースコールがあって、内田さんのところに行ったら
「警察を読んでくれ」「自分の名前は、内田洋ではなくて、指名手配犯の桐島聡なんだ」と言う。


対応にあたった看護師
 看護師は、事件当時生まれておらず、事件のことおや桐島容疑者のことを詳しく知りませんでした。その場で、スマートフォンで調べながら話を聞いた。

看護師
 「どういう事件で、指名手配されていたの」
 「反日武装戦線のやつで」
 「爆破事件のやつだよ」と言っていた。
 「調べてみるとそのようなものが確かにネットに書いてあった」

看護師から報告を受けて、病院の院長

院長
70歳になっていた桐島容疑者と同年代の院長は、ことの重大性に驚きを
隠せなかったと言います。
「これは、大変なことなのだ」
「50年たって本人だと名乗っている事の重大性を考えると…」
「重要な事件だという認識は持っていましたので、この話を聞いた時は、非常に驚いたとともにショックでした」

事件の背景から死に至るまで
1974年~1975年
連続企業爆破事件
海外進出する企業を「経済侵略」と批判する「東アジア武装戦線」による爆弾闘争
社会変革の理想を抱き加わっていた、当時大学生の桐島容疑者。一連の事件のうち東京銀座にあった研究所の爆破に関わったとして指名手配された。
メンバーが一斉に逮捕される中「死ぬまで逃げる」と語り、直後から偽名を使って逃亡生活をはじめ、それからおおよそ50年。
70歳になり、入院した病院で自ら名前を明かした桐島容疑者。
苦しみの中、看護師に「アイスを食べたい」と求めたと。
警視庁の事情聴取を受ける中、本名を名乗って4日後に死亡した。

院長
 私はあの世に行きます。君らは50年間、俺を見つける事ができなかったと言っているつもりなのか。申し訳なかったという事を暗に言おうとしているのかよく分かりません。
いまだに真相、本当の彼の気持ちは分かりません。

おわりに
 50年間、偽名を使って生きてきた桐島容疑者。
最後の最後に自らの名を名乗った。いったい何を伝えたかったのか。
とても興味深いニュースでした。
2月24日の特集後にnote記事書かせていただきます。
ありがとうございます。


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