必見!日本はイエスそっくりの国だった(続編)
武士道精神とは
武士道と言えば、新渡戸稲造の「武士道」が有名でありますが、ここでは
「葉隠」(はがくれ)を取り上げたいと思います。
『葉隠』は、江戸時代中期の武士道書です。佐賀藩士・山本常朝(1659~
1719)の言葉を、同藩士の田代陣基(1678~1748)が聞き書きし、約7年か
けて書物にまとめたものであります。武士のあるべき姿を説いた武士道書で
あり、「武士道というは、死ぬ事と見付けたり」との名句は、誰でも一度は
聞いたことがあるのではないでしょうか。
また1970年11月25日、民兵組織「楯の会」隊員とともに自衛隊市ヶ谷
駐屯地に突入し、自衛隊の決起を促す演説をした直後に割腹自決したことで
有名な三島由紀夫が『葉隠』の説く「死」というものに深く心を寄せていた
ことでも知られています。
「武士道というは、死ぬ事と見付けたり」との名句は、『葉隠』の記述の中
で特に有名な一節でありますが、『葉隠』の全体を理解せず、
ただとある目的のためには死を厭わないとすることを武士道精神と解釈され
てしまっている事が多いですが、そのような解釈は全くの見当違いです。
「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」で始まる一節は、以下のようなもの
であります。
現代語訳:どちらにしようかという場面では、早く死ぬ方を選ぶしかない。
何も考えず、腹を据えて進み出るのだ。(中略)そのような場で、図に当た
るように行動することは難しいことだ。私も含めて人間は、生きる方が好き
だ。おそらく好きな方に理由がつくだろう。(しかし)図にはずれて生き延
びたら腰抜けである。この境界が危ないのだ。図にはずれて死んでも、それ
は気違だというだけで、恥にはならない。これが武道の根幹である。毎朝毎
夕、いつも死ぬつもりで行動し、いつも死身になっていれば、武道に自由を
得、一生落度なく家職をまっとうすることができるのである。
『葉隠』 は人の「生きる理由」に着目していて「死ぬよりも生きることを優
先する」という人間大多数の原則には必ず何らかの理由があると
説いています。
しかし常にその理由を意識し続けているわけではなく、一度でも忘れてしま
えば腰抜けに生きるようになり、人生そのものが台無しになって
しまいます。
そこで死の覚悟を不断に持することによって、自らの生きる理由を見つめ直
し「職分を落ち度なく全うする」べきであると説いています。
武士として恥をかかず、また人間として有意義に生きるために、死ぬ覚悟が
不可欠と主張しているのです。
それでは今度はイエスの教えに着目してみましょう。
イエスの教え
マタイによる福音書 7:13
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこ
からはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、
それを見いだす者が少ない。
マタイによる福音書 16:24
それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと
思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者
は、それを見いだすであろう。」
私たち人間は、すぐに楽な道を行こうとし、また死ぬことよりも生きること
を優先してしまいます。
イエスは楽な道を選択する者は多いが、その者たちは地獄に行き、困難な道
を選択する者は少ないが、その者たちは天国に入ると教えておられます。
またイエスは決して「私のために死になさい」と言っておられるのではな
く、十字架で死ぬことがわかっておられたイエスが、私の代わりに十字架で
死ぬ覚悟を持たなければ、私と共に歩むことはできない。
またその覚悟のある者だけが天国に入ることができると教えておられます。
日本人は国を挙げて、イエスの教え通りを行ってきた国であったと言えま
す。しかし、現在はこの崇高なイエスの教えや、武士道精神が日本人の中か
ら失われつつあるように思えます。
それは戦後の日本人が大義を失い、拝金主義や学歴社会や権力主義が社会に
蔓延し、本来持つべき生きる目的や人生の価値を見失ってきた結果ではない
でしょうか。
ですから古来より日本人が培ってきた武士道精神や助け合い精神を取り戻し
たいものですね。
記事を読んでくださって有難うございます。
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