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ロベルト・ムジール「黒つぐみ」感想 闇バイトとリアリズムの消失

今週いっぱい、肉体労働が立て続けて予定されていて、眠くて身体が痛くて
調子に乗り切れない。加齢というものは、こういうものであろうか?
午前中に京都アンティークフェアに出掛けて商品を購入した後、時間があったので、宇治市の図書館でなんとなく手に取ったロベルトムジールの短編小説「黒つぐみ」を読んだので、感想を書いておきたい。

登場するのはA1とA2という再会した男性が3つの出来事を順番に語る構成になっている。話者はA1。初めのエピソードでは二人は反キリスト教的な振る舞いをしていた幼馴染であるが、青年期を迎えて互いに別の方向性を持った人物になっている。冒頭に幼年のころから衰えた中年を迎えても人は果たして同一人物であるのか? という問いかけがなされる。

2つ目のエピソードではA1は社会的に成功して妻がいる。しかし、その妻は愛していた頃の人物ではなく、どうしても他人であり心が変化している事に驚愕する。自分自身の心は本当に同一人物であろうか?寝室のベットには別人が就寝していて、夜啼き鳥(ナイチンゲール)の声を認めるもそれは、夜啼き鳥ではなく、物まねをする黒つぐみであった。

3つ目のエピソードは、A1は軍隊にいて、戦場にいるそこで、象徴的な出来事がA1に起こる。空から降って来る銃針(今、手元に岩波文庫の翻訳本がないので、記憶で一旦書いています)がA1にだけ空から降って来るのが分かる。リアルに降って来るのだが、他の兵士は気がつかない。A1には自分だけが認知する、幻覚であると自覚してその場をやり過ごそうとするが、
つい、声をあげそうになる。その時にあろうことか、別の兵士が声をあげる。そうして、銃針は地面に突き刺さる。

その後、いくらか時間が過ぎて、妻と暮らして来た時の、黒つぐみが現れる様になる。黒つぐみは今度は、人間の言葉を話す。
「私はお前を常に、心配して見守っていたよ」A1は黒つぐみが、自分母親であることを理解する。
以上が、宇治市の図書館で一通り読んだ簡単なあらすじである。

ここからが、感想であるが、リアリズム文学に反して、小説を書くことでしか現れて来ないリアリズムを作ろうとしている、そういった小説。昨年、2023年に亡くなった、ミラン・クンデラにもその辺り共通している。
小説にでてくる、黒つぐみはA1自身でもありおしなべて、自身のオルターエゴでもある。黒つぐみが言語(人類が獲得した)と置き換えて、人類/自分(意識)との関係で結べば、幾分、難渋な作品であるが、簡潔に理解できるであろう。ほとんど、登場しないA2は構造上読者のことかもしれない。

ここ最近、関東地方で頻発している闇バイトの犯罪で、気になるのがテレビの画面に映る犯人のリアリズムの無い顔である。犯罪とどうしても犯人の顔が一致しない。彼らも又、物まね鳥、黒つぐみではなかろうか?
本当の自我さえ失われて、オルターエゴが暴走する世界観が始まっている。
リアリズムのない時代にそんなことを考えたりした。


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