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会津旅行記、照姫とスペンサー銃とお茶の味

1月も15日を経過して、2025年も同じ様にのろのろと運転していきたいと思っている。
ここ数年、新年には東北をはじめとした北の地方へと旅行する事にしている。今回は福島県会津若松を目的とした旅行に出かけた。日程は2泊の短い旅。伊丹空港からANAの朝早い便で福島空港を目指す。伊丹空港の清掃作業員だった時分に、飛行機に搭乗する人々を羨望していた。現在老人の私は別人としてタラップを歩む。1時間15分後、飛行機は山林の中の空港に着陸した。リムジンバスで郡山まで又1時間15分経過した。福島県で郡山が最も栄えているとのことであったが、どことなく地方都市特有の翳りを感じる街並みであった。

会津若松駅から宿泊先のホテルまで幾分距離があるのでバスを利用しようと試みるも、適当なバスが見つからず、歩いて7日町までスーツケースをころがす。途中正月休みを謳っているシャッターを閉じた店舗も多数見受けられる。結局、初見で吉野家でカレーライスを食べてホテルにチェックインした。駅へ向かう途中で戊辰戦争で亡くなった西軍の墓地があった。毛利、島津の見慣れた家紋が墓地の鉄門に配置されていた。墓地のすぐ横には、道路を挟んで託児所があり、若い母親が子供を預けていた。 

一日目は喜多方へ行く事にした。一般に蔵の街と言うと岡山県の倉敷が有名であるが、喜多方は金田実という地元の写真家が、素朴な生活に密着した喜多方にある蔵の写真を取り続け、やがて観光客が訪れる様になったという。有形文化財の甲斐本家蔵座敷を写真に収めて立ち去ろうとした後、小さな通りで小祠が目についた。中に手のひら程の小さな赤い鳥居があった。極小の稲荷神社であった。

極小稲荷の謎は、後日に鶴ヶ城を尋ねた際に謎は解けたのではあるが、正直に初見では民家の庭や通りに稲荷神社が配置されていることが奇異に映った。信州で見かける道祖神や済州島のトルハルバンのように、その土地で長年わたり熟成されたフォークロアによるものかとおもったが、実際は、会津戦争の渦中の人物、松平照を祀った照姫稲荷神社であった。

松平照は1833年に飯野藩主の保科正丕と側室の佐々木民との間に誕生するが、10歳の時に会津藩主・松平容敬の養女として迎えられる、その後、豊前中津藩主・奥平昌服のもとへ嫁ぐのち1854年に離縁して会津藩邸(江戸)に戻る。その後、戊辰戦争が勃発、大河ドラマ八重の桜の新島八重は、スペンサー銃を手にして新政府軍に対峙するが、で松平照は籠城戦の折、介護後方支援のなどで城下の人々(女性も含む)を支えた。

稲荷信仰は江戸時代から神仏習合を経て、その土地ごとの屋敷神となりやがては赤い鳥居がビルの屋上にまで造設されている。この会津の土地では松平照が稲荷神と変化しすっかりフォークロアとして定着していることに衝撃を受けた。

喜多方を離れて二日目、交通の便が悪い大内宿を巡ることを諦めて徒歩で飯盛山と栄螺堂から鶴ヶ城、七日町と足を運んだ。iponeに残る写真を見返してみても、蒲生氏郷の五輪塔、阿弥陀寺の御三階、鶴ヶ城の鐘撞堂、日新館天文台跡とこの歳にしては歩きすぎのきらいもある。


散策の途中で常光寺にある、めぐりあい観音にたどり着いた。その昔京都・宇治で茶問屋を営む傅右衛門と傅七という親子が暮らしていたが、長男の傅七が出奔してしまう。父親の傅右衛門は六十六部に姿を変えて観音菩薩を携えて諸国修業に出掛け遠い会津の地であるとき、お茶を勧められる。
一口のみ、味の記憶が甦り、住職に「このお茶を淹れてくれた人は」とたずねると、「当寺の若い修行僧が淹れ」との返答であった。その若い層は傅七であり。傅右衛門は同行した観音菩薩を安置し此処を建てた・・・

今回、宇治から遠く縁もゆかりも無い会津にきて常光寺でこの案内を発見して、縁というのは様々な表面下で繋がっていることを感じた。

それにしても、松平照はどうして離縁して会津へ戻ったのであろうか・・・
そして、どんな理由で傅七は宇治から出奔して僧になったのであろうか・・・
そんなことを考えている。

  


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