蛸(短編小説)

 空は曇っていた。太陽が隠れてはいたが、まだ暑かった。ライフジャケットに熱がこもっているのを感じた。何年も前、たしか冬に一度使ったきりのものを押し入れから引っ張り出してきたのだ。これからも夏に釣りをするのなら、もっと通気性に優れたものを買うべきだな、と思った。
 堤防にはぼくと友人しかいなかった。平日の昼間だから、そんなものだろう。
 イスの近くに置いていたスポーツドリンクを手に取って、飲み干した。甘味が口の中をべたつかせた。帽子を被りなおし、イスから立ち上がって、クーラーボックスまで歩いた。そこにはちょうど同じタイミングで、友人も飲み物を取りに来ていた。首に巻いたタオルで顔の汗をぬぐいながら、彼は言った。
「釣れんなあ」
「朝の方が食いつきがよかったね」
「まあ、夕方まで粘ろうか」
 ぼくは炭酸飲料、友人はビールを手に取って、それぞれのイスに戻った。冷えたペットボトルの感触が手に心地よかった。
 イスに座って、何かが釣れるのを待っていた。深い緑色の海には、似たような波が繰り返し現れるのが見えた。その波のはざまに、釣竿から伸びた釣り糸が吸い込まれ、その点で浮きが揺れている。磯の匂いがして、海に来ていることを感じさせた。

 日が暮れてきた。イスの近くに置いたバケツの中には、アジが四匹と、名前を知らない赤い魚が一匹入っていた。すべてまだ生きている。友人も何匹か釣り上げていた。ぼくはバケツを持って、友人のところまで歩いて行った。
「なんとか釣れたね。そろそろ帰ろうか」
「おう。よかったよかった。ちょっとあれ見てくれ」
 友人が指さした先に視線を移すと、蛸が水面近くを泳いでいるのが見えた。
「蛸だ。こんなとこにいるもんなのか」
「珍しいんかな。あれ釣りてえ」
 友人はそう言って、蛸の近くにエサのついた針を落とした。蛸はそれに近づいた。ぼくは食いつけ、と思った。しかし蛸はすぐに興味をなくし、たくさんある足を伸び縮みさせて、ゆらゆらと水中を泳いだ。
「エサがあかんのかな」
 友人がつぶやいた。
 足音が聞こえて、ぼくは振り返った。夕焼けのオレンジ色の中を、キャップを被ったおじいさんが、歩いてきていた。鼻に煙たい匂いがした。おじいさんは、火のついたタバコを持っていた。
「蛸がおるなあ」
 おじいさんが言った。
「そうなんですよ、釣りたいですけどねえ」
 ぼくが言うと、おじいさんはタバコを吸った。そして灰を堤防の上に落とした。
「蛸はうまいな。ぶつ切りにして醤油で食うとええ。その前に釣らんといかんか」
 ぼくと友人は笑った。
「でももう帰ります。夜になりますし」
「そうか、そうか。ほなわしが釣った蛸をやろう」
 おじいさんはぼくたちに背を向けて歩いて行った。ほとんど日が暮れて、あたりは暗くなってきていた。一日釣りをしていた疲れが頭を重くしていた。波の音が響くなか、いつまで待てばいいのだろうかと考えた。
 やがておじいさんはぼくたちのところに戻ってきた。手に持った網の中には、蛸が一匹入っていた。
「ほい。わしのおすすめはたこ焼きや」
「いいんですか、こんなに大きいの」
「ええ、ええ。気つけて帰り」
 おじいさんは友人のバケツに蛸を入れると、立ち去った。暗くなった堤防の上を、タバコの火がしばらく動いていった。
 ぼくは友人と顔を見合わせた。
「帰るか」
 友人が言って、ぼくたちは広げていた釣り用具を片付けた。手元が見づらくて、スマホのライトを照らした。イスやクーラーボックスを抱えて、堤防を後にした。
 車に乗り込んで、帰るころにはもう夜の闇が広がっていた。

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