迷い犬(短編小説)
1
住宅街の道路に犬がいた。遠くにいたから輪郭がぼんやりしていたが、猫やいたちではなく、犬だと思った。それはこちらを見てじっとしていた。茶色のかたまりに、舌のような赤いものがちらちら微妙に揺れていた。
ぼくは野良犬を見たことがなかった。だから野良犬がいる、とは思わずに、どこかの家から逃げ出したのだと思った。ぼくは立ち止まっていたが、犬をびっくりさせないように、ゆっくり歩き始めた。
犬の方に向かって歩いていくのがアパートまでの最短距離だった。ぼくが動き出すと犬も動き、すぐに家の陰に隠れた。噛まれたりすることもなくやりすごすことができて、安心した。
「家の近くに犬がいたよ」
アパートのドアを開けて、姿の見えない妻にそう言った。妻はキッチンから顔を出して、おかえり、と言った。
「犬探しのチラシかなんか、最近あったっけ?」
「見てないなあ。犬ね。飼い主のとこに戻れるといいけど」
そうだね、と小さく言った。
テレビをつけ、冷蔵庫から缶ビールを取り出して、ソファに座った。テレビでは今日のニュースをやっていた。交通事故があったらしい。事故の詳細が伝えられている。車同士の衝突で、片方の車の信号無視が原因とのことだった。運転する身として、恐怖を感じた。
そのあとにはまた別のニュースが流れた。近くの街に、新しいショッピングモールができる。さっきの恐怖感はすぐに消えて、妻と服でも買いに行こうかなと思った。
それから一ヵ月が経った。
一ヵ月のうちに、家の近くを歩いていると、犬を散歩させている人に注意が行くようになった。リードに繋がれた犬たちは、素早く首を動かして、地面の匂いを嗅いだり、通りかかるぼくのことを見たりした。そうした犬たちの種類はいろいろあって、小さいものも大きいものも見かけた。ぼくが見かけた迷い犬は、たぶん中型くらいの大きさだろうな、と思った。
仕事帰りのバスはいつも通り、スーツの人たちで混んでいた。ぼくは後ろの方の席に座って、バスの車内をぼんやり眺めていた。フロントガラスから、薄暗くなった道が迫ってくるのが目に入った。
いま誰かがバスの前に飛び込んできたら、その人は大けがをするだろうな、と思った。死ぬところまでいくのかどうかはわからなかった。飛び込んでくるものが人じゃなかったらどうだろう?乗用車だったら、どれくらいぺしゃんこになるだろう。そんな想像をしていると、最寄りのバス停に着いた。
バスを降りていつもの帰り道を歩いていると、野球帽を被った男に話しかけられた。
「あのー、このあたりで犬を見ませんでしたか?」
無意識に、ぼくは彼から一歩身を引いた。こんな住宅街でいきなり話しかけられて警戒した。少し遅れて、犬を探しているのか、と思った。
「はあ、まあ。一か月くらい前ですけど」
「どんな犬でした?」
「遠目だったんで、ぼんやりとしか見てないですよ。中型犬くらいの大きさで、毛の色はたぶん薄い茶色でしたかね」
「なるほど、その二点は私の探している犬の特徴に当てはまります」
「飼い主さんですか?」
「そうではないんですが、探しているんです。ここでさえ、もと居た場所からかなり離れているんです。しかし一ヵ月となると……」
彼はそう言って顎に手を当てた。
ぼくは思い出したように犬が心配になった。彼に協力したかったが、提供できる情報が少なすぎた。適当に切り上げて、ぼくは再び帰り道に戻った。
家に帰ると、キッチンからカレーの匂いがした。ただいま、と声をかけた。野菜サラダがすでに食卓に置いてあったから、食べ始めた。コールスロードレッシングの酸味がおいしかった。
「今日、迷い犬を見たよ。あなたが見たのと同じのかな。近づいたら逃げていった」
妻が言った。
「一ヵ月もたってまだこの辺にいるんだろうか」
「居心地がいいのかも。近くに林があるから、虫とか食べてるんじゃない」
生きているのはよかったが、何かの病気にかかって、それを移されでもしないだろうか、と不安になった。保健所なんかに連絡すれば捕まえてくれるのだろうか?いや、機会があれば犬を探していたあの帽子の男に伝えるぐらいで構わないだろう。ぼくと妻で合計二回しか目撃していない、逃げていくような犬だ。面倒だった。
2
その週の土曜日に、友人と会った。彼もぼくと同じく会社員だった。彼には十歳になる子どもがいた。だからあまり家を空けないように、午前中に会って、昼めしを食べて解散しようと決めていた。彼とそういうスケジュールで遊びに行くことが、この数年で増えた。
友人もぼくも行きやすい、大きな駅で待ち合わせた。改札がたくさんある。そのうちのひとつを出ると、駅と大きなビルがつながっていた。
ベンチが空いていたので、座って彼を待った。他に空いていた席もすぐに埋まって、立って誰かを待つ人たちがベンチを囲んだ。その中の誰かが、自分のいる場所を電話で説明している。人々が立てるそんな音のざわめきが、まとまりになって感じられた。
友人はすぐに来た。
「お待たせ。△△ビルは……」
そう言って彼は、立ち上がったぼくの前できょろきょろした。
「こっちか」
彼は歩き出し、ぼくは黙ってついていった。
△△ビルは、十年くらい前にできた。できた当時は大きな注目を浴びた。社会人になってすぐだったぼくも、給料から少し多めの小遣いを持って買い物に行った。そのとき買ったのは、どこでも買えそうな薄黄色のTシャツだった。いまも実家の押し入れに入っているはずだ。
そんな連想を働かせていると、ビルに着いた。エスカレーターでフロアを二つ上がると、友人が目当ての店を見つけ、入っていった。その店には服とリュックがたくさん置いてあった。ビジネスで使えそうな黒いリュックの棚の前で、彼は立ち止まった。彼は今日リュックを買うつもりだと話していた。
その間に、ぼくは服を適当に見て回った。Tシャツやシャツが置いてあった。無地や縞模様といったスタンダードな柄が多かった。その中に、動物をプリントしたTシャツのシリーズがあった。豚、猫、馬、犬と、なんとなく身近に感じられる動物たちだった。
馬の柄が気になって、手に取って広げてみた。走っている馬の全身を、横から描いた絵だった。馬は走るものだ、と思った。競馬が思い浮かんだ。しかし、車がなかった時代に、人が馬に乗って移動していたということには実感が持てなかった。
馬のことを考えていると、犬のことも気になってきた。畳まれたTシャツから、耳の垂れた犬の顔が見えていた。犬と暮らすことを想像した。散歩に行って、エサをやる。トイレの後始末をする。触ると毛がふわふわしていて、テレビを見ているとそのふわふわが足元にやってくる。玉ねぎを食べさせてはいけないということを思い出した。テレビで聞きかじった知識だ。自分が犬と一緒に暮らしたときに抱く感情を、あまり想像できなかった。そこまで先取りしてシミュレーションしなくてもいいか、とも思った。
「もう一軒見てもいい?」
リュックを見終えた友人が言った。もちろん、と言ってぼくはまた友人のあとについて△△ビルの中を移動した。
次の店は、スポーツブランドも多くそろえていた。ビジネス用のリュックは小さなコーナーになっていた。
「うーん。これなら前のとこの方が……」
そう言ったものの、友人はひとつリュックを手に取った。彼はその重さを確認したり、どこにポケットがあるかを見たりした。
「これにする」
友人はすたすたとレジに歩いていった。ぼくは店の外に出て待つことにした。
十一時を回ったころ、ぼくと友人は、予約していたステーキ屋で座っていた。ソファは光沢のある革のように見えた。店の柱の木目が内装に生かされた山小屋風の店だった。牛肉の焼ける匂いが店に充ちていて、食欲がそそられた。
注文したステーキが運ばれてくるまで、時間があった。
「野犬って見たことある?」
ぼくは友人に聞いた。
「ない。野良の動物なんて……。カラスとかならたまに見るけど」
「だよな。迷い犬は?人に飼われてたけど逃げ出したとかの」
「うーん。ないなあ。やっぱみんな気をつけてんじゃないか。家族の一員なわけだし」
「うちの近くにそういう感じの犬がいるみたいなんだよ」
「じゃあ○○が保護しちゃえばいいよ。捕まえて警察とか動物病院とかに相談してさ」
ぼくはお冷を飲んだ。
「そういうわけにもいかない。大家と妻がどう言うかわからないし」
「そうだな」
友人もお冷を飲んだ。
ステーキが運ばれてきて、ぼくたちは別の話題に移った。
3
週末の夕方、ぼくは近くのコンビニに甘いものを買いに、歩いていた。ちょっとしたぜいたくで、夕食後に妻と一緒に食べる。昼間の暑さが和らいで、歩きやすい気温になっていた。
家を出てすぐのところに、まっすぐな長い坂があった。行きは下りで楽なのだが、帰りは上ることになり、少し息が切れる。その坂を下っていると、下の方から、四人組が上ってくるのが見えた。みなそろいの緑色のポロシャツを着ていた。何かあるのか、と怪しく思った。工事か、何かの調査か。ぼくが下り、四人組が上ってくると、先頭の男が、野球帽を被っているのが見えてきた。後ろにいる三人のうち一人が、ごみ捨て場で使うような大きな網を持っているのも見えた。彼らの向かう方向には、林がある。
野球帽の男の顔がだんだんはっきり見えてきた。彼は、以前ぼくに犬のことで話しかけてきた男だった。犬を捕まえるのかな、と思った。ついに捕まるのであれば、いいことだ。噛まれたり病気を移される心配をしなくてよくなる。だが、捕まったあとにあの犬はどうなるのだろう、とも思った。元の飼い主や、新しく飼う人が見つかればいいけれど。殺処分されてしまう可能性があるという話をどこかで聞いた。
すれ違うときに、野球帽の男がぼくに挨拶した
「どうも」
「ああ、どうも。犬を捕まえるんですか?」
「そうです。居場所がだいたい把握できたので」
「捕まえたら、誰かのところで飼われるんですかね?」
「まあ、探してる人のところに連れていきますね。たぶんまた飼われるんだと思います」
ぼくは安心したような、寂しいような気持になった。あの犬の存在に、怖さと同時に、どこか親しみも感じていたらしい。野球帽の男の後ろにいる三人は、特に何の感情も抱いていないような様子で、うつむいたり時計を見たりしていた。
「それじゃ、時間がありますんで」
野球帽の男が言った。
ぼくは四人を見送ったが、大きな網が気になった。あんな網で捕獲して、犬は怖がらないだろうか。もやもやした気持ちを抱えながら、コンビニに向かって歩きだした。
コンビニに入ると、冷房が寒いくらいだった。スイーツコーナーを見ると、妻から頼まれたモンブランも、ぼくが食べたかったどら焼きもなかった。運悪く売り切れたらしく、値札だけがぽつんと置かれていた。何か代わりになるものを探して、ぼくは三つ入りのドーナツを買った。せっかく歩いてきたのに、何もなしというのは寂しかった。
帰り道、夕日が住宅街をオレンジ色にしていた。そろそろ捕まったかな、と思った。犬が暴れて、乱暴に扱われたりしていないだろうか。逆に、四人組が怪我をしたりしていないだろうか。そんなことが心配になった。友人が適当に言った、ぼくがあの犬を飼うという選択肢が頭にちらついた。穴埋めとして選ばれたドーナツと、穴埋めとしての犬の飼い主になれなかった自分をなんとなく比べてみた。その比較には意味がない、と打ち消してみても、皮肉を感じていた。ぼくはあの犬を飼いたかったのか。
視線を上げると、三つ目の曲がり角に、小さな茶色のかたまりが見えた。それがあの犬だと気づくまでに、一瞬の間があった。それはこちらを見ていた。大きく呼吸をしているようで、かたまりが若干大きくなったり小さくなったりしていた。ぼくがなおも犬の方向に歩いていくと、それは顔を反対側に向けたような動きをした。そして犬は駆け出した。
犬はすぐに曲がり角を曲がって、見えなくなった。三十秒くらいすると、緑色のポロシャツの男が二人、さっき犬がいたところに躍り出た。慌てたような動きをして、二手に分かれた。ぼくの方に来た男が、息を切らしながら話しかけてきた。
「犬を、はあ、見ませんでしたか」
「あっちに行きましたよ。どっかの角で曲がりました」
そう言って、ぼくは確かに犬が走って行った方向を教えた。ポロシャツの男は礼を言い、ぼくが言った方に走って行った。
あの犬は捕まるのだろうか。捕獲にてこずっている四人組に同情を感じたが、同時に、走り去っていった犬の後姿は、爽やかささえ感じさせた。