HITOSHI NAGASAWA|ロマン的魂と夢《1》|シュルレアリスムという「時代の気分」
「ロマン的魂と夢」とはアルベール・ベガンのロマン派研究の書物に由来するものですが、ここではロマン派そのものではなく、そこからいくつも派生していくであろう、いろいろな美学について書いていきます。ロマン派気質の人の琴線に触れるような、遠い過去も...現在も...
第1回目は、21世紀に入ってからのシュルレアリスム気分とは何なのか? を優れた女性アーティストの紹介も含めて。
「奇想のモード ─ 装うことへの狂気、またはシュルレアリスム」と題された展覧会が東京都庭園美術館で開催された。この展覧会に寄せて、ということで〈Fashion Studies〉が主催するトーク・イベントに出る機会があった。
モードとシュルレアリスム。
リチャード・マーティンが1988年に刊行した画期的な視点の書物のタイトルが『ファッションとシュルレアリスム』だった。しかもこのところシュルレアリスム的なものの再流行を強く感じていたので、このトーク・イベントの企画はタイムリーだった。シュルレアリスムとモードについて話したかったのだ。
「モードとシュルレアリスム」というテーマは若い観客を強く吸引したようで、他の展覧会よりも若い客層が多かったという。僕が観たときの実感もそうだった。
シュルレアリスム的な気分というのは、ここ数年自分の嗜好がそちらに向かったというのもあるし、人々の感性がそちらに向かっていると感じてきたというのもある。
個人的なことを言うと美大生のときに〈シュルレアリスム研究会〉というのをつくって、ずいぶんとハマったが、のちにシュルレアリスム批判に転じたという経緯がある。
正直、いまでもシュルレアリスムに批判的な立場は変わらないのだが、それでもシュルレアリスムそのものよりも「シュルレアリスム的なもの」に強く惹かれてしまう部分がある。
一種の「時代の気分」かもしれない。
ウニカ・チュルンをご存じだろうか? 特異な人形を制作したシュルレアリスト、ハンス・ベルメールの恋人となり、彼の影響のもと、詩や自動画(automatic drawing)を残した女性アーティストだ。
彼女は晩年、統合失調症に苦しめられ住まいの6階のテラスから飛び降りて亡くなった。
病状がよくないときにチュルンは自分の作品を破棄したりしたので、油彩画9枚と200枚程度のスケッチしか残されていないという。
そのチュルンの画集を古書店でみつけた。高価だったので買わずに帰ったが、それでも1ヶ月ほど逡巡したあげく買いに行った。すでに売り切れていた。
このとき「シュルレアリスム的なもの」に強く惹かれている自分に気がついた。
もうひとり、マックス・エルンストの4番目の妻でもあった画家ドロテア・タニング。彼女の貴重な画集を20代のときパリで購入して持っていたが、運営している古書店〈mondo modern〉で売ってしまった。
シュルレアリスムに興味が戻ることはないと思っていたのに、手元から離れるとタニングの画集がどうしても欲しくなった。
チュルンほどではないものの、こちらも出ている画集は少なく、ちょっと高めだったが今度は迷わずに買った。
シュルレアリスムのどの画家でも面白いわけではない。だが、このふたりの女性アーティストは21世紀のいまになっても、もっともっと評価されても良いと思う。
ちなみに〈mondo modern〉でドロテア・タニング画集を購入したのは、女性のコラージュ作家だった。数年前に知り合い彼女の作品も観ている。
コラージュ人気も、このところのシュルレアリスム気分の大きな要素だと思う。コラージュ・アーティストも増えているし(ほとんどが女性だ)、SNSで自分のコラージュ作品を投稿する人を何人も知っている。
そうした作品の多くは、マックス・エルンストが始めたコラージュの系統に属していると思う。
ヨーロッパの古い絵はがき写真や銅版画などを素材に切り貼りして、現実にあるものを異化して非現実化していく。
1960年代のポップアート期には、エルンスト的なものとはまったく違うコラージュも多くうまれたが、昨今のは60年代的なものは感じられない。やはりそれ以前のシュルレアリスム的なものなのだ。
象徴する出来事がある。2019年、東京都庭園美術館で岡上淑子の回顧展が開催された。
1950年代にモード的なコラージュを制作した岡上は、シュルレアリスト瀧口修造と交流があり、その作品は海外の美術館も含めてコレクションされているものの、一般的には長い間忘れ去られた存在だった。
女性のドレス姿などに異質なものを切り合わせていく。フィギュア/ボディがまず存在し、それを異化していくという点では、岡上もエルンストに連なるコラージュの作風だったように思う。
じつはこの展覧会、先日の「奇想のモード」展を企画した学芸員、神保京子さんによる企画だった。岡上淑子の作品は若い人の注目するところとなり、回顧展は盛況のうちに終えた。
近年のこのふたつのシュルレアリスム系の展覧会の成功から見えることは、やはり時代の気分が、そしてとくに若い人たちがシュルレアリスム的なものに惹かれているということだ。
シュルレアリスム云々ということ以上に、たんに新鮮に思えているだけかもしれない。そうだとしてもそれはここ数十年、シュルレアリスム的なものが下火だった状況があったからこそだ。
そこに至るにはもうひとつ、人々が「抽象的」な造形に向かわず、「具象」を軸にするようになったことが大きな要因としてあるような気がする。
現在、抽象絵画はあまり人気がない。それは〈mondo modern〉で売れる本を見ていてもじつに顕著なので、肌で感じることでもある。もちろん抽象絵画好きはたくさんいるし、廃れたわけではないが、やはり人々の心理は「具象」に向かっている。
2000年代からの絵画の動向を見てもそれは一目瞭然だろう。村上隆以降の、具象的なものが描かれ、平面化され(フラットイズム)、退行的世界も垣間見える、とても個人的な絵画の一群は美術評論家の松井みどりが「マイクロポップの時代」と名付けた。
なぜ抽象ではなく具象か? これはまたそれなりの字数を要する話になってしまうので別の機会に。
「幻想」、「身体」、「古典主義」、「ファシズム」、「退行性」などといったキーワードが「具象」的現象に連なっていくものだと考えている。
それは甘美だが、危険な兆候だ。それはすでに欧州の危機的状況で現前している。
ぼくたちはそんな時代に生きている。
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