16時48分の私。
歩くたびに変わっていく街並みと、時間が進むたびに移ろう空の色の組み合わせが、混ざって、滲んで、感情を溢れさせていく。
大人になりたくて背伸びをしたり、大人になりたくなくて誰かに頼ったり、大人にならなきゃいけなくて考えたり。
今年は"エモい"がインスタを埋め尽くした1年だったように思う。突如として流行り始めたこの3文字。たった3文字にあてがうようにカメラで夕焼けを切り取ったり、なにかにつけて汎用性の高い便利な言葉のように扱ったり。次から次へとアップされる投稿には、リレーのように連なる"エモい"の3文字。ひょっとしたらSNSに写真を載せる言い訳なのかもしれない。
世の中を簡単に分けると、"エモい"を使っている人と、"エモ"への飽きを感じようとしている人、2つに分かれるような気がしている。
私は後者だ。"エモい"を使う人のことを俯瞰した気で眺め、「自分はそうじゃない。もうとっくに"エモい"の流行は自分の中で終わって次に進んでいる。」
勝手にそう感じて最先端にいる気で、周りの同世代の人より多くのことを考えている気でいる。
でも私以外にも、"自分は周りの同世代の人より多くのことに触れ思考を深めている"と感じてる人はたくさんいるんだ。きっと。
それに"エモい"を多用する前者の人は、後者の私たちの俯瞰してる風の視線なんて気にもしていないんだろう。気にし出したとしたら、それはもうその人が前者から後者へ移ろう時で、今度は後者側から、残っている前者を眺めてわたしと同じようなことを感じるんだろう。
私たちはみんな、自分1人が勝手に大人になって周りを上から眺めている気でいるけれど、みんな同じように上から眺めるから結局目線は同じ。そうなんだと思う。
まだまだ、周りを勝手に比べることでしか自分が大人になれているのか計れない子どもの考えだから。人の考えていることなんて可視化できるはずもないのに、見えた気になって勝手に周りを使って安心してる。そして同じように誰かの安心の材料となってることにも気づかないんだ。そのくらいまだまだ子ども。
みんなより洗練された思考を持ちたいと心のどこかで感じる私の毎日。きっとみんな私と同じことを考えているんだろうな 。これだって可視化できないけどね。
必死ではないけれど毎日漠然と何かを探して、美しい言葉や写真に心惹かれる自分が、みんなより少し先を歩いてるんじゃないかと思ってた昨日。でも周りも同じようにみんなより洗練されていると思いながら歩いているのも実感した今日。
そんなことを考えながら、16時48分の夕焼けを眺める。パレスホテルを右手に皇居を眺める、大人びた気でいる私がそこにいた。