私の喪失
「私、会う人に変えて自分演じてるんだ。」
こう言うと大抵の人がびっくりする。でもこれが私の本音。というか本当にそう思ってる。
実際に、中高の友達に会うときは、淀みなくひたすら面白おかしく喋り続ける私がいて、
大学の友達といるときは、淡々と言葉を丁寧に切り取って色をつけて作品として言葉を残そうとしてる自分がいる。
バイト先では、年上の先輩たちに甘やかされて、ふわふわとマイペース。かと思いきや、たまにどーんと直球ストレートで先輩たちに愛を伝える私。
そしてここでは全部の私をぐるっと見渡して、客観的に自分の日々を見ようと試みる私もいる。
どれが本当の私?って聞かれるけれど、全部私が演じてる本当の私。その証拠じゃないけど、どの場面でも私は本音しか言わない。本当に思ってるから口に出して言ってる。
普通のことだと思っていたけど、この話をすると大抵驚かれるから少し考えてみた。
会う人によって自分を演じ分けてるって変なのかなあ。
私が私を演じ分けているのはもちろん私の意思。私が居心地良く過ごせる環境にしたくて、私が演じている。自分がその人といて1番居心地良く過ごせるような私を演じている。そこに窮屈さや閉塞感などは一切ないのだ。
私が演じる理由を考えてみたときに、自分の中で一貫して持っているポリシーみたいなものがあるのに気づいた。
「心で思ったことを、言葉で惜しみなく伝える。」
もともと表情豊かではない私は、言葉で感情を伝えたいと思っているのだろう。お世辞は言わず、本音を伝えたい。今関わっている全ての人に本音を伝える方法を考えたときに、私は無意識のうちに"演じる"というアプローチをとったのだと思う。
例えを出すとわかりやすいかもしれない。私は中高一貫の女子校に通っていた。女子校出身の方には伝わると思うけれど、6年間で磨かれた距離感が私たちには存在する。私の無表情に慣れた友達には淡々と感情を述べたところで、ああそうなのね。と簡単に受け取ってもらえるのである。
しかし、好きな人の前ではどうか。好きな人の前で、「好き。」「もっと話したい。」などと無表情で淡々と言ったとしたら、きっと向こうは驚くだろう。でも私は本音を惜しみなく伝えたい。だから演じて言葉に装飾をする。「とっても大好きです」「もうちょっと2人でいたいです」言葉に甘い色をのせて、好きのサインを込めた表情で。
いま書いていて思ったけれど、私が私を"本当の私"だと感じるポイントは、「本音が伝えられているかどうか」が境界線なのだと思う。態度が変わったとしても、本音が伝えられるのならそれは"本当の私"なんだと私は感じている。
この私の考え方で見ると、「演じる」というのは結局、その人その人で接し方を変えて本音を伝えているということなんだろうなあと思う。
それが、「全部演じているけれど、全部が本当の私」だと思わせる理由なんだろう。だから私は今日も演じる。大好きな人には心と言葉を惜しみなく伝えたいんだ。
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