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Secret Room|短編小説#シロクマ文芸部
✢前篇
―――
その日は、午後から秋雨が降った。
太陽の欠片さえ感じない陰気な夕間暮れの街。
僕は大学の帰りに、傘を差してバーのアルバイトへ向かった。
モンクストラップの革靴が雨の泥はねで汚れないように、歩く場所を選びながら進んだ。
(今日は・・・誰も客が来ないな)
ただでさえ客の少ない店。まして、こんなじめじめした雨の日に、高台の店まで来る奇特な人間は、滅多にいないと高を括っていた。
彼女が来なくなってから季節は進み、銀杏並木が、金色の鳥のかたちの葉を落とす時期になっていた。
彼女がどうしているか時々は気になるけれど、忘れるようにしていた。
もういつもの白いシャツだけでは肌寒くて無理で、ジャケットを羽織る頃合いになった。
ダークグレイのテーラードジャケットに白いシャツ、黒の革の細身のパンツ。
どれも僕の皮膚のように、熟れて馴染んでいる。
バッグは持たない主義だった。
ーーー
傘の水滴を振り払い、古びた鍵で店を開ける。
カフェとしての昼の営業は、このところの流行り病のせいで人が入らず、夜からの営業になっていた。
フローリングの床にモップをかけたり、テーブルを拭いたりしたあと、前日に残されたグラスやカクテルシェイカーなどを片付けたら、何もすることが無くなった。
そう言えば、家に読めていない小説がたくさん積み上がっている。自分の絵のためのリソースの本。
写真集やDVDだって、観る暇もなく結構溜まっている。
(ーー―文庫本でも、持ってくれば良かったな)
やむを得ず眉をひそめ、一人で出来ることはないかと、口元に拳を当てて考えた。
どちらかと言えば、時間があるなら何か身になることがしたいほうなのだ。
予てから作りたかった、球体の氷を作ることに決める。
バーと言えば丸氷だろう。
角氷から、アイスピックで丸く削り出すのは、集中しないと出来ることじゃない。
こんな日なら、恰好のチャンスじゃないか・・・?
レコードはModern Jazz Quartetのものを選んで回す。
ビブラフォンの音色は雨の日にちょうど良いし、氷を削るときのリズムにも合っていると思った。
袖を捲り、綺麗な丸氷になるよう、シンクの前で角度を変えながらピックを動かして苦心していた。
そのとき、不意に思いがけない音が聞こえた。
カラン、と小さく鳴るドアチャイム。
「いらっしゃいませ」と言って、僕はやや屈んだまま止まった。
ずっと顔を見せなかったあの女が、傘を閉じながら入ってきた。
✢✢✢
3ヶ月振りの訪問だった。僕は呆けたように、ピックを持ったまま体を起こした。
もう一度、意味もなく言った。
「―――いらっしゃいませ」
先刻まで黙っていたせいか、不格好に声が上ずってしまう。
「こんばんは」
記憶どおりの穏やかなアルトの声で、彼女はベージュのレインコートをゆっくりと肩から脱いだ。
ーーー
いつもの自然な動作で、カウンターのスツールに彼女は座った。
ややかっちりとした印象の、紫がかったパールグレイのワンピースを着ていた。
彼女は流行の服を着ない。
いつも上品な感じだが、服装の印象はあまり残らない。
イメージで残るのは、眼差しの深さと流れる黒い髪。口元に淡く漂う微笑みだった。
「・・・ボンベイ・サファイアですか?」
ぎこちなさを見せたくなくて、彼女の好きなジンの名前を挙げる。
「・・・ええ。いつもどおりに」
ボンベイ・サファイアの美しいブルーのボトルは、棚の端ではなく取りやすい位置に変わっていた。
―――
「お久しぶり、ね」
ボンベイ・サファイアのジントニックのロンググラスを、カウンターに滑らせたとき、カシスリキュールのような色の唇の端を上げて、彼女は微笑みかけた。
その微笑みは、以前にはないものだと思った。
此処で会うよりずっと前から、どこかで知っていたような懐かしさのある空気が流れ、
僕は彼女との親密さの濃度が濃くなった気がして、少し焦った。
―――会わない間に変わってしまったのは、僕のほうかもしれない・・・。
そんなことを感じながら、レコードの棚を見た。カウンターの横には、表から見えない形で、何段もぎっしりとレコードが入っている。
次のレコードを入れ替えるタイミングだった。
いつもは気分に合わせて決めているレコードが、直ぐに選べなかった。
ライブペインティングのように頭の中が奇妙に混ぜ返されていた。
「演出」の文字がちらついては消えた。
―――よせ、何を考えてる?
それより・・・
―――僕は何か忘れものをしている。
彼女に対してだ。
「リクエストしても良い?」
僕の心を見透かしたようなタイミングで、彼女は言った。
「あなたが前に話してくれた、
“青に生まれついて”の映画の、主人公の曲…」
その言葉に、こちらを見る彼女とあらためて目を合わせた。
“『青に生まれついて』
チェット・ベイカー・・・”
彼女にたくさん話してきたなかで、その映画のエピソードを覚えていたとは意外だった。
「いいですよ」
彼女と会話した夜を思い出しながら、僕は言った。
―――
ハスキーで囁くようなチェットのヴォーカルが流れた。
レコードの音はまるで、本当にそこで歌っているかのようにリアルだった。
ピアノは、心を慰撫するように、空気を震わせながら奏でられた。
僕と彼女はふたりきりで、静かに、その音たちを受け止めた。
雨で閉ざされた高台の夜の街で、灯りの点された場所が此処だけのような錯覚を覚えた。
何かが以前とは違っていた。
彼女も僕に言いたいことがあるように思えた。
何しろ、3ヶ月、音沙汰がなかったのだ。
曲が終わりかけた時。
「―――どうしていたんですか?」
堪らなくなって、口火を切ったのは僕のほうだった。
✢✢✢
彼女は、少し目を見開くように僕を見た。
そして躊躇うような沈黙のあと、間をもたせるように言った。
「このおかわりを、作ってもらっても
いいかしら・・・?」
残り少なくなったジントニックのグラスを持ち上げた。
そうして―――
次のグラスを傾けて飲んでから、
冷静に、言葉を探すように
時間をかけて話したのはこうだった。
残念ながら、パートナーに女性の影が在るのを見つけたこと。
色々パートナーとは話し合ったけれど、もう修復は不可能と悟ったこと。
整理がついたら、生まれた家に再び帰ろうとしていること。
「―――相手を好きになっちゃったんだもの、
しょうがないわよね」
泣き笑いのような顔で、彼女は髪をそっとかき上げた。薬指から指輪が消えていた。
僕は返す適当な言葉が見つからず、黙って彼女の話を聞くしか出来なかった。
「―――だから、今日は挨拶に来たの。
あなたと色々話が出来て、私は随分救われたの。
多分家にひとりきりで居たら、今頃潰れていたわ」
それを聞いても、まだ何も言えなかった。彼女が無理をしているように見えた。
僕は話の途中から、いつの間にかカウンターの中で煙草を吸っていた。店で煙草を吸うことは無かったのに、無意識にポケットから煙草を出していた。
「ごめんなさいね。…こんな話まで。
言うつもりは無かったんだけど・・・」
俯向きながら、落ち着いた様子で帰り支度を始めた。
「―――じゃ・・・本当に有難う」
彼女は滑るようにスツールから下りた。
僕は無様な形で通例どおりに支払いのレジを開けた。
彼女はヒールを静かに鳴らして、レインコートを取りに行き、それを羽織った。
(これでいいのか?)
自問しているうちに、彼女はドアチャイムを揺らして、店を出た。
彼女の姿が消えた途端、猛烈な欠落感が心を刺した。
(駄目だ、このまま帰したら)
―――でも何がいけない?
ぐるぐると高速で思考が巡っていたとき、ふと彼女の忘れたハンカチが目に入った。
刹那、ハンカチを持って彼女を追いかけていた。
ドアを開けると階段があり、彼女は通路から外へ上がろうとしていた。後ろ姿が、目線より上にあった。
「これを・・・」
僕は彼女に声を掛けた。
振り返るそのとき―――。彼女は僕を見つめた。慈しむような眼差しをたたえ、ゆっくり降りて来た。
ハンカチを渡そうと手を伸ばすと、彼女の身体が躓いたように揺らいだ。
支えようとして、気付いたら、僕は彼女を抱きしめていた。
✢✢✢
彼女の身体は、僕の胸に思いがけないほど自然に収まった。
カウンター越しでは分からないほど、華奢で小さな身体だった。
突然、彼女の目から、涙が零れた。きらめきながら・・・ひとつずつ、頬を流れていった。
また僕は言葉を失い、背中を宥めるように、ゆっくりとさすり続けた。
「大人で居たかったのに、だめね・・・」
しばらくして、聞き取れないほどの声で、彼女は言った。
僕は腕の中にいる彼女の目の、きらきらこぼれ落ちるかなしみを、丁寧に吸い取った。
そして、ずっとうまく言えなかったあわれみのようなものを、唇に注ぎ込んだ。
彼女は逆らわなかった。今まで、僕の話をすべて受け入れてくれたように。
僕は彼女の手を引いた。
ジャケットのポケットに、店の鍵の重みを感じた。
彼女の背中を押して、また店の中に入って行った。
―――そのとき、僕のいた店は、
秘密の部屋になった。
【fin】
✢✢✢
お読み頂き有難うございました!
このお話の中の、チェット・ベイカーの曲はこちらになります。
静かな場所で聴くと、彼のヴォーカルが心を震わすのを感じて頂けると思います。
✢Chet Baker/You Don't Know What Love Is
小牧幸助様のシロクマ文芸部の課題よりインスパイアされて創りました。
小牧幸助様、よろしくお願いいたします。
長めの小説で冒険しましたので、より拙くなっているかもしれませんが、ご笑納下さいませ。
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また、次の記事でお会いしましょう!
🌟I am little noter.🌟
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