うまれてきた子ども〜不登校のまえ|#エッセイ
息子の、真面目な話を綴ってみようと思う。息子は小学4年生から不登校になり、現在中学3年生。その間、ほぼ教室のみならず、学校そのものへも行けていない。
振り返ってみると・・・
息子を出産して、産院から遠方に住む夫の実家へ連絡したときのこと。
「男の子が無事生まれました」と義父に告げると、
「でかした!」と喜びの声をかけられた。
義父は兄をふたり亡くして長男になった人なので、「家を受け継いでいく」ことに強い想いを抱いているのだ。
今の時代ではあまり見かけない事柄かもしれないが、私はその瞬間から
「大事な嫡男を育て上げる責任」
を感じることとなった。
―――
息子は天真爛漫に育っていった。
私と同じベッドで寝るときに、読んで欲しい絵本を毎晩選んで、抱えながら持って来た。
読み聞かせをしたり、「ミッケ!」という探しものをする写真絵本をふたりで楽しんだりして、親密な関係を築けていたと思う。
その頃住んでいた2階建てのハイツの前は、長い長い私道(200mくらい?)が延びていて、息子は近所の子どもたちや、その日集まったクラスメイトたちと日暮れまで遊んでいた。
鬼ごっこをしたり、かけっこをしたり。夏には、プールを出したり、花火大会をしたり。それはそれは、楽しそうだった。
家の中にも、毎日おやつや休憩がてら子どもたちが入って来て、学童のような様相になっていた。
誰かが怪我をすると、息子だけでなく友だちでも私を呼んで、「〇〇が転けたから、消毒してバンドエイド貼って!」と玄関先で指示した。
「息子は皆と順調に育っている」と私は心から信じていた。が、時々驚くことがあった。
持ち帰った自由帳の絵が、何とも言えず暗く寂しそうに見えたこと。
私が働き始めて、学校の学童に行っているとき、連絡帳がどうしても見当たらないと思っていたら、リビングの絨毯の下から見付かったこと・・・。
また、3〜4年生にかけて(1学期まで同じ学校だった)。
学校で気の強い女の子たちに蹴るなどの乱暴をされたとか、
女の担任の先生が、内気な女の子を授業中酷い言葉で断罪したとか、私に何とか改善してほしい旨伝えるよう頼んでくることがあった。
今思うと、息子は自分の気持ちがうまく人に伝えられず、だんだん「生きづらさ」を覚えてきたのだろう。
そんな頃、隣町へ引越し、息子は学校へ行けなくなった。私はパワハラや引越しや息子の不登校など、何もかもの心労が重なり、メンタルが崩壊して家族のことが一切見られなくなった。
その心労の中には、「私が悪い親だから、大事な息子の人生を狂わせたのでは・・」という申し訳無さも含まれていた。
結局私は入院し、息子はそれでまた荒れた。家族で底なしの世界に嵌まってしまっていた。退院してからも、親子の意思疎通が出来ず、もがけばもがくほど悪化する状況だった。
息子がいちばん辛そうなとき、両手全部の爪を噛みすぎて深爪になっていた。余りにも痛々しくて私は涙した。
(あの明るい子が・・・
何故、こんなことになってしまったんだろう・・・)
その後のことは、過去の記事にある。
(〜中学1年の頃まで)
悩みから抜け出すきっかけの話だ。
↓ ↓ ↓
苦しいからと言って、
親子ともに悩んでいちゃいけない。
悩みを切り離して、
親は親のペース、
子は子のペースで
心の傷を癒すしかない。
「家庭」が
心の傷を保護する
バンドエイドになり得るなら、
親と子、
それぞれにバンドエイドを貼って
もとの状態になるまで
そっと時を待つほうがいい。
ね?
そうだよね・・・
中学のカウンセラーの先生との出会いで、私の固定概念が変わり、さらに劇的に息子との関係が改善されていった。将来のイメージも次第に見えてきたような気がする。
この続き、中学1年から3年になる現在の話は、また別の機会に綴ろうと思う。
🌿参考図書🌿
母と子の愛を気付かせてくれる絵本。
お読み頂き有難うございました!!
スキ、フォロー、コメント、シェアなどが励みになります。
また、次の記事でお会いしましょう!
🌟Iam a little noter.🌟
🤍
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?