あみだくじ恋愛論:宗教に関与してはいけない
あみだくじ風人生を貫けるコツ。
それは、「思い通りに行かせない壁」に突き当たっても、突き当たっても、それに惑わされずに漂流し続ける「こだわりの少ない鈍感力」を持つことである。
そしてどこかで見つかるであろう人や環境に巡り合うと、そこで直観力を働かせて触手を伸ばしてしがみつくことである。
(どこに流されてゆくのだろう)とか(行き先不明だ)などと一喜一憂してもがき、あがいても仕方がない。それで答えや宝が得られるわけではないからだ。
「陽炎のような運」がいいとか悪いとかに喜んだり、落ち込んだりしても意味がない。運などはどうせ消え去る一時的な現象にすぎないからだ。「捨てる神があれば拾う神もいる」。本体が魂である以上、神は常に寄り添ってくれている。
宗教などを信じていなくても神は実在している。
あなたを見守ってくれている神以外の神に頼る宗教は最悪の存在だと気づくべきだ。
宗教に入信することは絆で結ばれたあなたの神を見捨てて、何処の馬の骨とも分からない赤の他人に身を委ねるのと同じだから、それで救われると考えること自体が愚の骨頂であることを知っておかねばならない。
それは人との出会いにおいても同じだ。
本人に都合のよい内容ばかりである、いわゆる虫のよい話には乗せられてはいけない。虫の良い話に乗せられるのは、そこに欲があるからだ。早く楽になりたいと思う怠慢があるからだ。だからこそ、何も期待しないゆきあたりばったりの漂流がお勧めになる。
魂を汚さない限り神はあなたを見捨てない。
そのようなシステムになっている。
だから何の不安も何の心配もいらない。
人生とはそのようになっている。
この世とは何か。
それは様々な経験を通して清濁を吸収し、酸いも甘いも飲み込んで魂の肥やしにするための冒険的体験の世界だということである。
この世で成功した?失敗した?何の関係もない。
なぜなら、必ずあの世に帰ってゆく身だからだ。
そして、あの世に帰れば、この世より厳しい雲上三界を登ってゆかねばならない身の上になる。
神界、菩薩界、如来界、そして実名は記せないが最高天界。
そうであれば、生物界に等しい不完全なこの世如きであえいでいる場合ではない。魂の道のりは肉のそれより遥かに、圧倒的に遥かに長いからである。
さぁ、あみだくじを引いてみよう。
様々な壁に突き当たりつつ転がってみよう、流されてみよう。
あっちの壁、こっちの壁、ころころ転がる生々流転。
きっと何かに出会える、きっと何処かに辿り着ける。人生とはそういうものなので、一過性の人生に勝ったも負けたもない。どうせ、肉体の寿命が尽きれば、誰もが例外なく、土に帰り、塵に帰し、消えて無くなってしまうのだから。
ただ、癒しのある空間を手に入れ、癒し合える人と結ばれれば至高であるというにすぎない。さぁ、転がってみようか、流されてみようか。
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