もう一度行きたいけどもう行けない場所:祖父母の家の写真と記憶
昨年の春ごろだった。父から、秋田にある祖父母の家を取り壊した、という連絡を受けた。祖父は十年以上前に、祖母は三年前に亡くなり、すでに誰も住んでいなかった。更地にして売るという話は以前から聞かされていた。
二〇一八年の初夏、私は当時住んでいた長野から、新潟を経由して祖母に会いに行った。祖母と最後に直接会って話したのは、このときが最後だ。
父も私も、それぞれ比較的遅く生まれた子供であった。このため、私が物心ついたときには祖父はすでに退職をして、この家に祖母と二人で暮らしていた。
古い集合住宅で暮らしてた私には、一軒家で二階も庭もあるこの家はとても広く感じられた。ただ、祖母と最後に会ったときに祖母はこの家は小さいと言っていた。祖母は横手の大きな家の出だった。
私は中学の時、父親の転勤した転校が理由で二年間不登校だった。その二年間、夏休みよりも長い時間をこの家で過ごした。
二階の二間で寝起きをし、ご飯と、気が向いたときにだけ一階に降りてぼんやりと過ごしていた。祖父も祖母も、不登校については何も言わなかった。
大抵の時間は、本を読むか、家ではほとんど見られないドラマやバラエティー番組を見ていた。たまに祖父が上がってきて、とりとめのない話をしたりもした。
小さい頃、弟たちと庭で水鉄砲で遊んだり、花火をしたこともあった。枯山水のある立派な庭だった。
祖父は亡くなる一年ほど前に倒れ、それから亡くなるまでは寝たきりだった。病院には行かず、祖母が介護をしていた。私はその間、ここを訪れることはなかった。
祖父は将棋が好きだった。たまに指すこともあったが、一度も勝った記憶がない。負け続けて嫌になって、いつの間にかそれもなくなっていた。
十年ほど前から、祖母が亡くなる数年前まで、私は毎週祖母にはがきを書いていた。特に理由はなかったが、いつの間にか習慣になっていた。
はがきが届くと、祖母は土曜日か日曜日に電話をくれた。いつも同じように、天気の話や体調の話、私の仕事の話などをした。
コロナ禍に、郵便物をあまり受け取りたくないと遠回しに言われたので、それからは週末の電話の習慣だけが残った。
祖母が亡くなる二ヶ月ほど前、電話をかけると叔母が出て、祖母が入院したことを知った。祖母と最後に会話をしたのは、その前週の電話でが最後になった。
二〇一九年の秋、私は長野から東京に転居した。このとき、祖母に会いに行こうかと思った。ただ、いずれまた行けるだろうと思って行かなかった。
祖母と最後に会ったときのこと。二泊三日の予定で、一日目は弟と三人で駅前の居酒屋にいった。二日目は弟が帰ったので家で二人で飲んだ。
祖母は、祖父との生活のこと、父のこと、私が幼い頃に名古屋から一人で飛行機にのって遊びに来たときのことなどを話していた。初めて聞く話が多かった。
祖父は警察官だった。官舎での生活は祖母にとって苦労が耐えないものだったという。
私にとって祖母は最初から祖母だった。でも、それは私にとってでしかない。
私はあまりにも祖父のことも祖母の事も知らないし、すでに多くのことを忘れてしまっている。
残っているのは少しの記憶と、その記憶にも満たないごく僅かな写真だけ。
ある正月、いつのだかはもう忘れてしまった。祖父と二人で近くの神社に初詣に行った。雪が積もっていた。神社ではお神酒を飲ませてもらった。
秋田の冬は寒く、寝るときには布団と毛布、さらに電気毛布を用意してくれていた。
風呂はタイルで冬は足が冷たく、湯船は金属で触ると熱かった。
私が暇を持て余して素振り用に買ったバットは、いつの間にか傘立てにいれられていた。泥棒が入ったらこれで叩くと、祖母は笑っていた。
庭の松は立派だった。冬囲いを近所の植木屋さんに頼んでいたが、引退したので最後の数年は遠くから来てもらっていたらしい。
祖母は達筆だったが、いつも自分の字が汚いと言っていた。私の曽祖父にずっとそう言われていたらしい。
最後にもらった手紙の字はかなり震えのあるものだったが、それでも私よりは全然綺麗な字だった。
祖父が亡くなったあとも、ずっと介護用ベットが残っていた。潔癖症の祖母が、レンタルを嫌ったので新品を購入したためだった。
祖母の葬式には行けなかった。私の両親と、叔母夫婦だけが参列した。
そういえば、私が祖母に送っていたはがきはどうなったのだろうか。今更父に聞くきもないし、読み返したいわけでもないが。
祖母は野良猫が好きではなかった。庭に来たら水をかけて追い出すと言っていた。でもそんなところは一度も見たことがなかった。
祖父が昔タバコを吸っていたので、居間の砂壁はかなり色が変わっていた。
祖父母がまだ元気な頃、一度札幌に遊びに来たことがあった。タクシーで市内の観光名所を一緒に回った。時計台と羊ケ丘展望台に行ったことは覚えているが、あとどこに行ったのかは忘れてしまった。
小学生の頃、もらったお年玉は親が大半を回収することになっていた。ただ、小銭は回収しないというルールがあって、祖父母は数千円分を小銭でくれていた。
祖父母の家に行くときは、たいてい空港か駅からタクシーだった。祖母は大体の時間を見計らって、門の前で待っていた。祖父は居間から外を眺めて待っていた。
二階の本棚には父と叔母が若い頃に読んでいた本が並べられていた。日当たりがいいせいで、どれもよくやけていた。
車で十分ほどのところにサティがあった。ジャスコに名前が変わってからも、祖母はずっとサティと呼んでいた。
居間の棚には、誰も飲まない洋酒の瓶と、だれも使わないグラスがたくさん並んでいた。
祖父母はもういない。ここももうない。
(写真は全て2018年のもの)