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海外と「忘れえぬ人々」

 国木田独歩に『忘れえぬ人々』という小説がある(面白いので未読の方は是非ご一読ください)。ある晩、宿で出会った無名の文学者・大津が無名の画家・秋山と意気投合し語り合う中で、大津がもっていた「忘れ得ぬ人々」という原稿用紙が話題となる。

『忘れ得ぬ人は必ずしも忘れてかなうまじき人にあらず、見たまえ僕のこの原稿の劈頭(へきとう)第一に書いてあるのはこの句である。』
 大津はちょっと秋山の前にその原稿を差しいだした。
『ね。それで僕はまずこの句の説明をしようと思う。そうすればおのずからこの文の題意がわかるだろうから。しかし君には大概わかっていると思うけれど。』
『そんなことを言わないで、ずんずんやりたまえよ。僕は世間の読者のつもりで聴いているから。失敬、横になって聴くよ。』
 秋山は煙草をくわえて横になった。右の手で頭を支ささえて大津の顔を見ながら目元に微笑をたたえている。
『親とか子とかまたは朋友(ほうゆう)知己そのほか自分の世話になった教師先輩のごときは、つまり単に忘れ得ぬ人とのみはいえない。忘れてかなうまじき人といわなければならない、そこでここに恩愛の契りもなければ義理もない、ほんの赤の他人であって、本来をいうと忘れてしまったところで人情をも義理をも欠かないで、しかもついに忘れてしまうことのできない人がある。世間一般の者にそういう人があるとは言わないが少なくとも僕にはある。恐らくは君にもあるだろう。』

国木田独歩「忘れえぬ人々」(青空文庫)

 大津の言う忘れえぬ人々とは、友達でも知人などではなく、あるとき偶然に風景の中にいた人である。例えば次のような。

『するとすぐ僕の耳に入ったのは琵琶(びわ)の音(ね)であった。そこの店先に一人の琵琶僧が立っていた。歳としのころ四十を五ツ六ツも越えたらしく、幅の広い四角な顔の丈たけの低い肥えた漢子(おとこ)であった。その顔の色、その目の光はちょうど悲しげな琵琶の音にふさわしく、あの咽(むせ)ぶような糸の音につれて謡(うた)う声が沈んで濁って淀(よど)んでいた。巷(ちまた)の人は一人もこの僧を顧みない、家々の者はたれもこの琵琶に耳を傾けるふうも見せない。朝日は輝く浮世はせわしい。
『しかし僕はじっとこの琵琶僧をながめて、その琵琶の音に耳を傾けた。この道幅の狭い軒端のきばのそろわない、しかもせわしそうな巷ちまたの光景がこの琵琶僧とこの琵琶の音とに調和しないようでしかもどこかに深い約束があるように感じられた。あの嗚咽(おえつ)する琵琶の音が巷の軒から軒へと漂うて勇ましげな売り声や、かしましい鉄砧(かなしき)の音と雑まざって、別に一道(どう)の清泉が濁波(だくは)の間を潜(くぐ)って流れるようなのを聞いていると、うれしそうな、浮き浮きした、おもしろそうな、忙しそうな顔つきをしている巷の人々の心の底の糸が自然の調べをかなでているように思われた、「忘れえぬ人々」の一人はすなわちこの琵琶僧である。』

同上

 思想家の柄谷行人はこの小説に近代日本文学における「風景の発見」を見出している。(手元にいまないので再読できなかった。)

 私は上海に来てからしばらくして、この小説を時折読み返している。日本国内で旅行をしている時はそんなことはなかったのだが、こっちで生活をしていると人も風景も妙に頭に残るからだ。おそらくそれは、私がまだ生活に慣れておらず、それらを日常的なものとして捉えていないからだと思う。こういうのが見知らぬ場所に旅行したり、住んでみたりすることの一つの楽しさだと思う。
 国木田の美しい描写の後で私の出会ったそれらを拙く描写するのは差し控えるが、きっと数年後もいくつかの出来事は「忘れえぬ」のだろうと思う。帰国したとき時折思い出す「懐かしさ」の質は、おそらくここに源泉になるだろう。
(一つだけ例を上げれば、郊外の高級集合住宅に行った時に見かけた、住民たちに届いた荷物を仕分けている40くらいの係員。都心から車で1時間ほど離れた新興のマンション群だった。そこでは住民に届いた荷物は一度集められ、それから個々の住宅に配られるようになっている。午後の暑い時間、文字通り山積みになったダンボールを、彼は淡々と仕分けていた。その間にも次々と荷物は外から集まってきていた)

 ところで、大津は「忘れえぬ」と言いつつ、それを原稿用紙に記録をしている。もちろん、忘れないためにということもあるだろうが、それと同時に、やはり書くということは「忘れたくない」ということ、しかも、それは「私が忘れたくない」ということなのだと思う。現代であれば、写真や映像でも記録することは可能だが、書くことはより個人性がやどる。神秘的な話ではなく、原稿用紙に書かれたものと、写真・映像とでは記録者の身体性が異なるからだ。記憶の楽しみ方は人それぞれだが、私はあまり明確に記録しようとは思わない(できない)。不意に、何かのきっかけで、幽霊のように思い出されることを楽しみたいと思う。

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