五枚の花冠 #青ブラ文学部
冷たい強い風が吹いている。もうすぐ桜が咲こうとしているというのに。土砂降りの雨の中、段ボール箱へゴミのように捨てられた子猫に、さらに水たまりの汚泥をあびせるぐらいの冷たさだ。この冷たい風は、アロルディス・チャップマンが投げた剛速球で開けられた君の心の穴を通り抜けていく。僕が君の前にキャッチャーミットを持ってすぐにでも駆け付けたいところだけど、それはできない。今は。
火傷するぐらい熱いコーヒーを飲む勇気は、僕にはまだ持ち合わせていないんだ。
『April is the cruellest month, breeding. 四月は残酷極まる月だ』T・S・エリオットの詩『荒地』の冒頭文を思い出している。四月になれば君は自由になる。『Lilacs out of the dead land, mixing. Memory and desire, stirring Dull roots with spring rain. 死の大地からライラックを育て上げ、追憶と欲望をかき混ぜ、春の雨で生気のない根を奮い立たせる』
今まさに、僕は暗々裏と朧々に思いを広げているんだ。四月になれば小さな鉢の中でライラックが花をつける。窓際に置かれた鉢の中で、人知れず初恋の香りが漂う。
「誰もが嘘をつくのよね。結婚は素晴らしいものだって」
秋風に乗って届いた君の声は、少し枯れていた。
「いいものだから、人は結婚するんじゃないのかい?」
四十間際の独身男が言うのにはピッタリの言葉だ。
「あなたにはいいものじゃないって、わかっていたんでしょ」
「僕は、ただ臆病なだけだよ」
スマホの奥から吐息がもれた。
「そういう人を選べばよかったわ。女の足元ばかり追ってる男なんかより」
「臆病な男は、君を選べない」
「そうなの?」
ビデオ通話でもないのに、君が微笑んでいるように僕には感じた。
電話を切ったあと、僕は小さなケトルでお湯を沸かした。二杯目のコーヒーはブラックにするつもりだ。しかも、火傷するほどに熱く淹れたコーヒーを怖がらずに口にする。
今年の冬は暖かい日が多かった。四月になる前にライラックが薄紫色の花をつけた。鉢の中で可愛らしい四枚の花弁を広げている。
その中に、ひとつだけ五枚の冠をつけた花を見つけた。
「ねえ、知ってる? このライラックで五枚の花びらのものを見つけたら、誰にも言わず黙って飲み込んじゃうと、幸せが訪れるんですって」
君はデート先の公園で見つけたライラックの花壇へかけよった。あの時は、みんな四枚の冠しかつけていなかった。
「今日は、みつけることができたよ」
僕はライラックに“ゴメンね”と言って、五枚の冠をつけた花を摘んだ。そして、誰にも知られることなく静かに飲み込んだ。
了