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ベンゾジアゼピアンの誘惑

  どこで、人生の答え合わせを見誤ってしまったんだ。
 『どうして?』『なぜ?』
 そんな疑問詞しか浮かんでこない。
 何が間違っていたんだ。
 
「先生、私眠むりたいの。眠り薬をちょうだい」
 中学2年生の娘を持つ母親とは思えないほど、早希子は若く妖艶な女性だ。
「ここで処方箋を書けとでも言うのか?」
「病院に戻れば、出せる?」
「酒を飲んでいる状態で服用するのは危険だ。日を改めた方がいい」
「今日は飲まないから、何錠か出してよ。ねぇ、先生」

    早希子は、数年前から不眠を訴えて大学病院に通院している僕の妻だ。
「夜中に私が起き出しているのを、知らなかったでしょ」
「すまない。クリニックの開業にかまけて、君の苦痛に気づけなかった」
「ベンゾジアゼピアン系の眠り薬が欲しいわ」
「いきなりそんなに強い薬は危険だよ」
「大丈夫よ。医師ではないけど、一応知識はあるもの」
 早希子は大学の後輩で、4年生の時に予期せぬ妊娠により大学を中退し、家庭に入った。
 僕は大学病院勤務医として多忙を極めていて、若い妻を労わってやることができなかった。早希子は慣れない育児と孤独感の中で、次第に壊れていった。
「この子が、私を苦しめるの。ママ、寝ちゃダメよって」
「美亜の夜泣きは仕方がないことだよ。今日は僕が交代するから横になればいい」
「あなたには大切な仕事があるでしょ? 明日も、明後日も、ずっと。私の仕事は、この子を育てることだけですもの。いいの」
 早希子はそう言うと、すすり泣きながら搾乳し始める。
「眠れないのは、好都合だわ。この子がいつ泣いても気づいてあげられるもの。インソムニアでよかったわ」
 いつも最後は、同じ言葉で締めくくられる。
「眠れないのなら、入眠剤を服用するかい?」
 ある夜、僕は早希子に提案した。まさか、こんな事態になるとは思いもせずに。

「美亜、この数値は何? これで〇〇大学に入れると思う?」
「私は別に行きたくない。何でママが敷いた道を歩かなきゃいけないの?」
「あなたには、ママのようになって欲しくないからよ」
「何それ、そうやって自分を悲劇のヒロインにするんだ」
「美亜」
「自分の不満を娘にぶつけるのはやめてよね。ぶつける相手は、私じゃなくて、パパでしょ」
 早希子には、美亜しかなかった。美亜だけが自分が生きてる証だった。

「あなた、美亜が、いってしまった」
 電話の向こうから聞こえる早希子の声は、抑揚なく、ただの報告のように聞こえた。
 当直の晩、早希子から緊急の連絡が入った。
「いってしまったって、どこへだよ」
「いってしまったの、私が、いかせてしまったの」
「いかせたって、どこへ。こんな夜中にどこへいかせたと言うんだ」
「もうすぐ、あなたのとこへ行くわよ」
「俺のところに? どうして」
 電話口から嗚咽する声が聞こえる。
「なぜ、泣いている。何があったんだ」
「美亜が、眠れないっていうから、ずっと、ずっと、私の入眠剤を飲ませてたの」
「なんてことを」
「美亜が、あの子が少しでも楽になればいいと思って」
 聞き間違いだろうか、一瞬だが早希子の笑う声が聞こえた。
「楽になりたかったのは、私の方だったのかも」
「どういう意味だ?」
「美亜を自由にして、私も自由になりたかったのよ」

 救命救急室に、ベンゾジアゼピアン系入眠剤を過剰摂取した14歳の少女が運ばれてきた。
 付き添ってきた母親は、待合室の長椅子で夫を待っている。
「早希子、君は何てことをしたんだ」
 僕は怒りのあまり妻を罵倒した。
「私は、娘の苦痛を取り除いたの。医師としてやれなかったことを、母としてやってあげたの。人生の答え合わせを見誤らないように」
 
                                 了




今週も山根あきらさんの企画に参加させていただきます。
答えが見つからない暗い話になってしまいました。
お目汚しになったら、すみません。
                
#青ブラ文芸部 #答え合わせ #眠り薬


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緋海書房/ヤバ猫
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