不条理で理不尽な愛のカタチ<偏愛的コレクター>
今、世間では、実に不条理で理不尽で、かつ狂暴な犯罪が横行している。
それらは、対岸の火事ではない。この自己中心的な犯罪に巻き込まれないよう常に注意を払っていることが必要なのかもしれない。実に嘆かわしい世の中になってしまったものだ。
不条理で理不尽、そんな非論理的な状況下に置かれてしまった時、どのような心理状態になるのだろう。
昔観た映画「コレクター」という作品が、当てはまると思う。
原作は「フランス軍中尉の女」などで有名なイギリスの作家、ジョン・ファウルズのデビュー作である。
1963年に刊行され、2年後の1965年に映画化された。デビュー作がわずか2年で映画化されるとは、それほどまでに衝撃的な内容だった。原作本はもう廃版になってしまっているようなので、もう読むことはできないかもしれないが、映画の方はDVDが出ているので観ることは可能だと思う。
主人公は、蝶の標本収集が唯一の趣味である大人しい青年フレディ。彼は通勤バスの中でひと目惚れした美術大学に通う美しい女学生ミランダに対して、自己中心的な妄想を膨らませる。
原作で描かれている悍ましいまでの身勝手なフレディの夢を「ローマの休日」で乙女チックな王女と新聞記者の儚い恋を作り上げたウィリアム・ワイラーが、まるで毛色の違う作品を撮ったので、同じ人が本当に監督したのかと疑いたくなるぐらいだ。
原作が書かれた時代は、今よりもさらに階級や貧困格差が大きかったと思う。早くに両親を亡くし、偏屈な伯母に育てられたフレディは内気で孤独な青年だ。職場では同僚から馬鹿にされ常に一人で、唯一の趣味である美しい蝶を標本にして眺めること。そんなフレディがサッカーくじで大金を当て、地下室のある家を手に入れる。そこから、彼の新たなる美の採集が動き出してしまう。
監督のウィリアム・ワイラーは、原作の不気味さを壊すことなく深い心理描写でジワジワと観る者を恐怖へと陥れる。
大学教授の娘で美大の学生である上流階級のミランダと、孤独な下層階級の青年フレディが相容れることは不可能なのだ。どんなにフレディが紳士的に振舞っても、育ってきた環境や思想、まして趣味・志向などは立ちどころに一致できるものではない。自分と同じような感性を持ち合わせていなければ、どんなに時間をかけようと理解し合うことは難しいのだ。
それを、フレディは理解できなかった。
心が疲れている時に観る作品ではないかもしれない。
しかし、こんなにも自己中心的な考えでしか行動できない人間もいるのだという教訓になる作品ではないだろうか。
原作者のジョン・ファウルズも、監督したウィリアム・ワイラーも訴えたかったのは何処なのだろうと、ずっと考えていた。被害者のミランダと歳が近かった頃に観た時と、年老いた現在観た時と感じ方が変化してる。
この不条理で理不尽な世界を、どう自分の中で消化していくか。
少し後味が悪いけれど、観る価値は多いにある。