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掌の中の僕 #青ブラ文芸部

 手のひらの中で、転がされていた。
今思えばだけれど。あんなに人を愛したのも、はじめてだった。
生きていくだけで必死だった中で出会った恋。
 
 人は恋を語るとき、みな詩人になる。
誰か心を寄せる人がいるのかと問われたとして、それはだた「好きだ」という感情なのか、その人を見かけるだけでときめきを感じ「惹かれる」のかの違いがある。
 恋心を抱き始め、バラバラだった二つの心が寄り添い始める。それは、大正ロマンにあるような相思相愛「諸恋もろごい」なのか、ロシア文学にあるような切ない「片恋かたこい」だったのだろうか。僕の場合は、後者の「片恋」だったのだと思う。小説のヒロインのような情熱的で積極的な女性だった。はじめは、その幼稚さがうっとうしいかった。
逢瀬のたびに
「ねえ、今度はいつ会える?」 
 と、訊いてくる。
「わからない。今、手がけている作品を描き終えてからだね」
 僕は僕で、同じ答えを返す。
「また、私を描いて」
「今度ね」
 逢うたびに、変わらない会話が繰り返された。
 お嬢様育ちで『苦悩』という二文字を知らずに育った人だと、僕はかってに思い込んでいた。彼女も小説のヒロインのような非嫡出子だった。
「また男か」
 正妻に投げられたのは、ねぎらいの言葉ではなかった。その反面、はじめての女児として彼女は歓迎された。しかし、それは『苦悩』の序章だったのだと君を失ってはじめて知る。
「ねえ、一緒に逃げよう」
「逃げるって、どこへ」
 この時はまだ、大人になりきれない女性の戯言だと思っていた。
「どっか、遠く」
「どうして逃げるんだい?」
 僕が問いかけると、君は妖艶な笑みを浮かべた。
「恋したから、あなたに」
「恋することは、いけないこと?」
 君は僕の瞳をじっと見つめたまま、自分の左薬指をゆっくりと口に含んだ。そして、じっくりと味わうように舐めた。彼女の口元から赤子のように乳を吸う音がもれた。君は僕の左腕を取ると、手のひらを自分の前に持っていった。それから舐めていた薬指を口から静かに出し、僕の手のひらにのせた。
「私を好きにして」
 そう言って君は、微笑んだ。
 僕は、君の気迫に怖気づいてしまった。

 作品制作に没頭していた僕は、君への連絡を怠っていた。僕に恋焦がれている君は、待ちきれなくて連絡してくるだろうと変な自信があった。反対に僕の方が、思い焦がれていたんだ。鳴らない電話を待ちきれなくて、連絡してみる。
「もしもし」
 その声音は低く響き渡り、僕の鼓膜を刺激した。
「あの、こちらは一条麻美あさみさんの携帯では?」
「佐々山くん?」
 声音の主は、君の異母兄の慎一郎さんだった。
「麻美は、この家にはいない」
 低く響く慎一郎さんの声には覇気が感じられなかった。
「どちらへ?」
「わからない」
 慎一郎さんの話では、部屋にある荷物も唯一の連絡手段である携帯も置いて、小さな旅行鞄ひとつ持って出ていってしまったという。
「僕は、てっきり君と一緒だと思っていたんだよ」
 僕は何と答えればいいのか、無言になるしかなかった。
「でも、麻美のことだから一人ではないと思うけどね。君には悪いけど」
「そうだといいんですが」
「麻美は、手のひらの恋をこぼしたくなかったのかもな」
「どういう意味ですか?」
 君の兄、慎一郎さんは答えを熟慮しているのだろう。ほんの数秒の沈黙が僕にはとても長く感じられた。
「麻美は、佐々山くんとの危なっかしい恋を失いたくなかったんだよ」
「でも、黙っていかなくても」
 また沈黙が続いた。
「それは、君へのやさしさだろ」
 慎一郎さんは、君が『心移り』したのではないと言ってくれた。そして、君を堂々と迎えに行けるように、もう一度君を描けるように大きく羽ばたけと付け加えた。
「それまでは、麻美の恋衣こいごろもを身にまとったままでいろよ」
 僕はまだ、君の手のひらの恋の中にいるんだよね。すべり落ちないようにもう少し踏ん張っているよ。

                                 了




 


 

 


#青ブラ文学部 #手のひらの恋
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緋海書房/ヤバ猫
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