Super Fine Weather ―超快晴―
悲しいほどに晴れ渡った空に白い鳥が線を引くのを、僕は今日も一人で眺めています。昨日はひどい嵐だったというのに、まるでそれが嘘のような青空です。僕は僕にしかなれないのだから、誰かをうらやむこともさげずむことも結局は逃げでしかないのでしょうかと、そんなつまらないことを窓の外の水たまりに投げかけます。水たまりは何も答えず、ただ青い空を溶かすのみです。僕も溶けてみたいと青い空を眺めても、もう鳥はどこにもいませんでした。
ここに来てすぐはどこかへ行きたいのだと扉を叩いてみましたけれど、叶わない夢を見るのにはもう疲れてしまいました。叩けば開かれると誰かが言ったような気もしましたけれど、そもそもこの扉が開いたとして僕はどこに行きたいのでしょうか。
「ここで死んでしまうのは嫌なんだ」
それならどこなら肯んじて眠れるのでしょう、どうすれば笑って溶けていけるのですか。
ドアノブに触れている指からは白い汁が垂れました。もうすぐ終わり。僕に残された時間はもうほとんどないようです。
「それとも死んだら楽になれますか」
やっぱり答えはなくて、僕にももう訳が分かりません。死んじゃうのも溶けてなくなってしまうのも怖くて仕方がないくせに、生きているのも嫌だなんて随分と結構な身分じゃありませんか。
空気のあるところでは僕は僕でいられないのです。
「結局生きられやしないんじゃないか」
僕でなければ存在出来る、嘘でいいなら生きてける。でもそれは、生きていると形容していいのかと。足元には白い水が溜まっています。僕に青い空に溶けることなんて出来ないのです。そんな綺麗な色はしていないのだから。何色にもなれない僕はどこにも交わらずに、ひとりぼっちで死ぬのです。
昔は僕にも友達がいました。自分は特異なのではないかという不安に捕われていた僕にとって、彼は救いでした。Kという彼はあらゆる点において僕と似通っていました。彼もまた空気の中では生きていけず、かといって水の中では誰かを傷つけずにはいられないのでした。加えて彼は常に僕より下位に居続けるということも、僕の自尊心をくすぐりました。僕たちの居場所は常に変わらず、Kが僕より上に位置することはありえないのでした。Kはそんな僕の心の内を知っていたのでしょうか、いつも笑顔を絶やしませんでした。それからしばらくは、幸せな時間が続いたのです。けれども僕は知ってしまいました。Kは僕以上の能力を持っているのだと。大抵のことにおいてKは僕の代わりになることが出来ましたが、僕にKの真似事はなし得ないのでした。
「お前は僕を馬鹿にしているんだろう」
そう言った僕に、彼は相も変わらず笑顔を浮かべたままでした。いつもなら安らぎであるその笑顔はしかし、僕の神経を逆撫でしただけでした。「お前とはもう絶交だ」
それだけ言って背を向けた僕の後ろで、Kはからからと笑いました。それはとても気持ちの悪いものでした。Kは具体的な言葉は何も発しませんでしたが、僕には彼の言いたいことが手に取るように分かりました。
――絶交?今まで散々俺を利用してきたお前にそんなことが言えるのか?
それきり僕とKとが言葉を交わすことはありませんでした。そして僕は一人きりになったのです。
Kが孤高であるとするならば、僕は孤独でした。きっと彼は自らが溶けることも他を溶かすことも、全てを受け入れて笑顔でいるに決まっています。そんな彼は己が孤独であることも受け入れました。だからKは孤高でありうるのです。
今日はとても良く晴れて乾燥した日ですから、僕が溶けるのも遅々としているのです。青い空は僕には眩しすぎるので、木の床に座り込んで膝を抱えます。べとべとに溶けた膝と手とはいつの間にやら一緒になってしまい、腕を挙げると手とも脚ともいえない白が糸を引きました。僕は弱い存在ですから、変わっていくことが怖いのです。自分が自分以外の何者かになってしまうなど、とても耐えられません。僕であるために残されている道は唯一つ、窓を開けて水たまりに飛び込むことでしかありません。そうすれば僕は変移せずにすみます。けれどその代わり、今度は僕が誰かを傷つけずにはいられなくなるのです。僕が入った水に触ったものは、触れた先から溶かされてしまうのですから。誰かを痛めてまで守るような自我など、生憎僕は持ち合わせていないのでした。だから僕は溶けることを、死んでいくことを甘んじて受け入れようとあんなにも自分に言い聞かせたはずなのです。それなのにどうしてでしょう、いざ死にかけていく今となっては、死ぬのが嫌でたまりません。べたべたとした白い液体になってしまうのが気持ち悪くて苦しくて悲しくて。もはや感覚をなくした指先で窓を開け、気持ちよい風が吹いていきます。眼下には青空を映した水たまりが一つ。この素敵な天気のせいでしょう、それはもう随分小さくなっていました。
「あの水たまりは、近いうちに干上がってしまう」
僕は液体ではありませんので蒸発は出来ません。たとえあの中に入ったとしても、すぐにまた水はなくなって今と同じ状況になってしまうのです。
「それなら無用の痛みを生んではいけない」
そう自分に言い聞かせ、急いで窓から離れます。どうせ変わってしまうのならばせめて綺麗に美しく、今の僕に願えることはもうそれくらいしか残されていません。
頭がふらふらとしてきました。溶けるのは皮膚ではなかったようです。そういえば先ほどから腹痛も感じていました。内蔵も脳も、何もかもが溶けているのです。これは大きな誤算でした。近いうちに僕は体系立った思想を放棄せざるをえなくなり、痛みしか感じなくなるのでしょう。そしてついには何も分からなくなり、溶けきってしまうのです。綺麗も美しくもあったものではありません。僕が存在したことは記憶から消え、記録から削除されるのです。
「さようなら、」
その後に続く言葉も名前も思いつかないまま、僕の意識は自分の液の中に溶けていきました。
―潮解性