NHKドラマ「昔はおれと同い年だった田中さんとの友情」
終戦の日。戦後79年。
卓球オリンピアの早田ひな選手が大会を終えて行きたい場所として
「鹿児島の特攻資料館に行きたい」
と発言したことのすごさ。感謝を知っている人はすごい。
その発言を耳にしたこともあり、私自身きちんと戦争に触れようと思って観たドラマ。
ありがたいことに私は戦後生まれだ。
国のために命を投げうてと教育されたことも、戦争に行く人々を万歳三唱で送り出したこともない。
だから正直どこか戦争はほんの少し遠い、どこか自分とは関係のない過去の話に感じてしまうことがある。
だからこそこのドラマを通して感じたことを書き残しておきたい。
田中さんは父と兄が戦死しており、11歳の時に爆弾で母と妹がなくなり、天涯孤独となった。
田中さん自身も爆弾で負傷した片足に火傷の跡がまるまる残り、歩行も少し困難な状態ので生き残った。
そんな田中さんは軍国少年だった。いや、当時の教育下で子供はそう育てられ、疑う余地もない環境だったのだろう。
田中さんが軍国少年であることは、そうなって当然だったと思う。
そんな少年田中は当然のごとく日本の勝ちを疑うことなどなく、召集のかかった兄を万歳で送り出し、兄の戦死の訃報には涙を流すどころか、泣いている妹に泣くなと怒る。
69年後、当時の自分と同じ11歳の少年たち主導で行われた講演会で、田中さんは自身の体験を話す。
講演後に質問の時間、子どもから質問がでる。
「軍国少年がいつから考えが変わったのですか。
そんな急に考えが変わりますか?」
ストレートで、鋭い刃のような質問だな、と思った。
私がされたわけでもないその質問が、心に刺さる。いたい。
自分が信じていたものから背けること。変化は時に大きな労力と決断、痛みを伴う。
少なからず私の歩いてきた道のもそういったことがあったからこそ、私自身にこの言葉は刺さった。田中さんの道のりはどうなのだろう。
田中さんは答える。
「戦争が終わった後、先生や大人が違うなら、何が正しいのか。僕には訳が分からなかった」
終戦後の授業では、教科書に載っている戦争の士気をあげるための言葉を消す作業が行われた。
その授業中に思わず泣く先生を見た田中さんは、その理由を考え、考え。考えて自分なりの答えを出す。
「先生は自分が情けなかった。ちゃんと考えることができないまま周りに流されてしまったこと。僕も一緒。
子どもに万歳と送り出されたら頑張るしかない。父も兄も僕がそう仕向けてしまった。
戦争が終わって自分の頭で考えて、自分が正しいことをしようと決めた。人間として、どう振舞うのがいいのか」
田中さんは少年に怒ることないんですか?と聞かれるほどに穏やかで、感謝していると口にする。
それは自分で考えることを手にした先に、人間としてどう振舞うのがいいのかを考えて考えた答えの一つなのだろう。
自由には責任が伴う。しかし考えることが出来るということはありがたいことだ。
自分で選択できることは贅沢な環境なのだから。
だからこそ今一度、この環境に感謝しようと思う。
そして私自身も周りの人も。
自分で考え答えを出す。そんな人でいたいしいて欲しい。そういった環境や思いやりをずっと持ち続けたい。
ただそのためには、平和という前提が必要だ。平和のためにできること。私が出来ることはなんだろう。
今すぐに答えは出ないが、まずは今に感謝することと考えることを止めない私でいたいと強く思う。