教師の構え
私たちは、教材研究となると、完全なるものをつくり、それをどのように、どうやって伝えようか、習得させようかとする気持ちが働きます。
もちろん、全力で教材研究は僕もすることがあります。
しかし、大切なことは、子どもたちがお互いに学びに向かい、学びを分かち合うことです。少なくとも小学校教育では、そうした学びを分かち合うことが子どもたちの考える視点を変えることや広げることに大きくつながります。長岡は、子ども自身が考える視点を広げるために、「論争を生む学習を求め、論争のたねをさがしていく」ような学習法を目指しました。
この姿勢に、一斉授業か、自由進度や個別学習か、といった方法論ではありません。
子どもたちがいかに「自分のこと」として学べるかに長岡文雄はこだわりました。当然、こうした授業はすぐできるわけではありません。時代も子どもたちの置かれている状況も異なります。しかし、長岡が求めていたような「心の投げ合い」を目指したいと思っています。
長岡に出会ってから、私は、子どもたちが白熱するためのたねを探すようになりました。
もちろん、すぐ見つかることはできません。
しかし、子どもたちと一緒にじっくりと見つけていこう。
そんな気持ちで取り組んでいます。
長岡のこうした子どもから始める学びはとても参考にしたいところです。
教師は何でも知っている顔をするより、ボケて知らないふりをする方がよい。話しかけてくれば、それについてのたずね役にまわるがよい。「先生こうでした」「ほう、それはどうしてだろう」「そうか、そういうわけか、なるほど、それで」というように児童に話させることによって、児童は、自分の考えのつじつまがあわないことや、観察のたりなさなどに自分で気がついていく。教師側から指摘しても、彼自身に不明を証明し出させるのである。
教師の姿勢は、「先生も木当のことが知りたいのでな」という気持が児童に感じられるものでありたい。教師が自己の力をオールマイに見せかけるより、あくまで微力を知り、求道者であろうとする方がいいのである。教師は、よい聞きて、つっかけ役、新しい意気ごみの作り役にまわりたい。そうすればどの児童もが気楽に教師に話しかける。
長岡文雄
「ひとりひとりに自分の考えを築かせる方法」『学習研究』百六十号
私たちは、教科書に載っている「教えなくてはいけないもの」にどうしてもとらわれてしまいます。このことは、仕方がないことであり、大切なことでもあります。しかし、そこで止まってはいけない。そこから、子どもたちがどのように社会とつながり、社会に対して「ねがい」を見つけようとするかを考えなくてはいけないと考えています。
もちろん、若い先生やはじめて先生になる人にとっては難しいことです。そこで、ぜひ、長岡のように、子どもに尋ねていくことから始めていくことをおすすめします。
しっかり知って教えよう、何とかしようと力を入れすぎるとうまくいきません。
「なるほど、それで」
「それはどうしてだろうね」
と子どもと一緒に考える。
「先生もよく分からないなあ」
とたまには弱さも見えながら、「求道者であろう」とする姿を見せることで、子どもたちは、自分の力で学びに向かおうとするでしょう。それが授業で子どもを育てることであり、教師もまた子どもを通して育っていくことだと考えています。