公立小個別級の先生に言われたこと
長男は公立小の個別級からフリースクールに転校した。個別級が長男に合わなかったのが一番大きな転校理由だが、もう一つのきっかけが、個別級の担任の先生の言葉である。
「お母さん、文科省は個別級にいる障害児に勉強して欲しい、なんて思っていないんです。いつもニコニコして害がない近所のマスコット、それが文科省が望む障害児のあるべき姿なんです」
当時個別級では、理科や社会は交流級で受けねばならなかった。
そわそわしてしまう長男は交流級で静かに座っていられずご遠慮下さいと言われて小3の時は諦めた。
小4になった時も、まだ無理ですね、と受け入れてもらえなかった。
小5になった時、何も交流級で受ける事にこだわらず、他の個別級の子と受ければいいのではないか、と思い直して交渉した。
「個別級で理科社会を教えることはできないんですか?」
「無理なんです」
「それじゃ困るんですけど」
と少々押し問答になった。その際に言われた。
これを聞いた時、私は怒りも感じたが、同時に、
「ああ、だから。だからそうなのか」
と深く納得もした。そして諦めた。
数ヶ月前に見学した特別支援学校の高等部での違和感も解消した。
障害児は地域のマスコット。
だから、長男は理科も社会も受けさせてもらえないのか。
だから、特別支援学校の高等部は卒業しても高卒にはならないのか。
だから、特別支援学校の高等部のPCは古いままで放置されているのか。
「高校を卒業したテイ」「勉強しているテイ」だけあればいいというのか。
数ヶ月前、特別支援学校の高等部を見学した際、貼り出されていた作文のいくつかに感動した。印象深かったことを感性豊かに綴ったものや、面白かった事をその場の笑い声が聞こえてくるかのように書かれたものなど、素晴らしいものがあったのだ。発達さんあるあるで、学習に凸凹はあれど、素敵な才能を持っている子は確実にいる。多分他の教科でも。
「どのように、この子達の文章力を伸ばす授業をしているのか」
と思ったが、普通の高校のようにひとクラス30−40人位で1人の先生が授業をしていて、ひとりひとりにじっくり目配りできる環境には思えなかった。そして使われている教科書も、基本的に小学校のおさらいという感じで、あの素敵な作文を書いた子達が、満足できて才能を伸ばせる内容にも思えなかった。できない子に照準を合わせたカリキュラム、という印象だった。
英語の授業はせっかくネイティブの先生もいたが、日本人の先生が板書した英文にカタカナで振り仮名を振っていた。
「何のためのネイティブ先生なの?」
と悲しくなった。時々ネイティブの発音を聞かせるためだけにいらっしゃるようだった。しかし正しい発音を聞かせても、生徒のほとんどは板書のカタカナを読んでしまい、ネイティブの先生は暇そうだった。
「英語を習っているテイなのだな」
PCがずらっと並んだ教室もあったが、とても古い機種で使われてなかった。廊下の掲示板に、生徒から先生への質問コーナーみたいなものが貼り出してあったが、そこに
Q:将来PCを使った仕事をしたいので、授業で使わせてください
A:今あるPCは古く、OSもメーカー保証期間が過ぎているので使えません
旨があった。
学校にも事情があるのだろうけれど、こんな風に学びたい気持ちを「無理」と抑え込む事に違和感を感じた。学校は学びの場じゃないの? 見学に来て、このずらっと並んだPCに惹かれて入学した子もいるんじゃないの? 何か全体的に変じゃない? と帰った後も、ずっと心の底でモヤモヤしていた。
因みに、長男がフリースクールに転校した後に、個別級でも理科と社会が受けられるようになった。特別支援学校も今は最新のPCを揃えて大いに活用しているのかもしれないし、元々用意されているカリキュラムがとてもあっている生徒もいるだろう。
しかし、当時は何か学びたいと思っても、得意なことがあっても、公立の特別支援学校には、それを受け入れて伸ばそうというシステムがないのだな、という印象で、もう公立校に未練はなかった。
あの言葉を言った先生には、
「端的に本当のことを教えてくれてありがとう」
という気持ちすらある。
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