とある就活生の記録
毎日ESばかりでうんざりする。
せっかく書いても報われないことがほとんどなのに、どうしてこんなに向き合わなければいけないんだ。
恨み節を噛みしめながらノートパソコンに向かっていた。そんな冬の夜の静けさを切り裂いたのはノックの音だった。返事をしようとした矢先、部屋の扉が開いた。
「先生、今ちょっといい?」
咄嗟にパソコンを閉じた。別にやましいことをしているというわけでは無い。ただ、生徒の前で就活に苦労している姿を見せるのはなんとなくばつが悪かった。そんな私の様子に、一瞬怪訝そうな顔をした彼女は、直ぐに取り繕い伏し目がちに語った。
「先生のパソコンのセキュリティソフトが起動していて問題を感知したみたい。ウィルス自体は阻止できてるんだけど一応チェックしようと思って。」
青みがかった黒髪は薄ぼんやりとした部屋の照明でいっそう艶やかに見えた。眼鏡越しに見える切れ長の目からは冷たい印象こそあるが、
その瞳は穏やかなままこちらを見つめている。私は彼女の名前を呼んだ。
「やあ、チヒロ。こんばんは。わざわざありがとう。」
「突然ごめん、さっさと確認しちゃうね。」
「うん、よろしくね。」
今まで座っていた席を空けた。恐らくデスクの上にあるこのPCを見に来てくれたのだろう。私はノートパソコンを抱え、座椅子へと腰を下ろした。チヒロは手際よくキーボードを叩き始めた。
彼女を背に就活を続けることは出来たが、生徒にセキュリティを見てもらってる間、私用を進めるのも申し訳なく思い、飲み物を用意することにした。部屋にはキーボードを叩く鋭い音がこだましていた。
ちょうどコーヒーが入った頃、時間は10分を少し過ぎたくらい。チヒロは手を止めこちらを振り返る。
「終わったよ。大した問題ではなかったみたい。不特定多数を無差別に攻撃するウィルスで、誰かが意図的に送り込んだものではなさそう。
...先生、何か変なサイトにアクセスしたりしてない?」
彼女が訝しげにこちらを見る。一瞬ドキリとして日中のことを遡ったが、大丈夫だ。そういうのは手元にあるこちらのパソコンで見るようにしている。きっぱりと首を横に振る。
「そう?ならいいんだけど。」
後ろめたさからか彼女の声は心なしかか細かった。コーヒーを渡し、少し休んでいかないかと尋ねた。こんな時間にわざわざシャーレまで来てくれたのだ。ただで帰しては大人として面目が立たない。私の心中を察してか、チヒロは正面の座椅子に着き、私が広げた有り合わせの茶菓子を手に取った。
「ありがとう。返って気を使わせちゃったみたいでごめん。」
「ううん、私もちょうど誰かと話したい気分だったんだ。来てくれてありがとう。」
「そっか。ならもうちょっと休憩させてもらおうかな。」
言いながら大きく伸びをした。よく見ると彼女の目元はうっすら影を落としていた。各所のセキュリティを見回っていたのだろう。疲れているにもかかわらず、時折見せる穏やかな表情からはこの時間を楽しんでいることが理解できた。私の勘違いでないことを祈りつつ、他愛もない話に花を咲かせた。
この日、シャーレの一室ではゆっくりと時間が流れていた。暖を取るつもりで入れたコーヒーが喉元を冷たく流れる頃、彼女がおもむろに口を開いた。
「...こよ先生、先生を辞めるの?」
絞り出したようなその声の意図が分からず、唖然としてしまった。まっすぐに伸びる視線に、口を開く僅かな動きさえも射止められるような感覚に陥った。
「どうしてそう思うの。」
「...否定してくれないんだ。」
「辞めないよ。」
「じゃあ、さっきのは何。仕事を探してるように見えたけど。」
互いに遠慮してはっきりとした物言いを取らない私たちは、だからこそ息が合う。しかしそれ故に徹底的に追求しなければならない時があるのだ。彼女にとって今がその時であったのだろう。
「私は先生にはずっと先生でいてほしい。仮に先生でい続けることができなくても、キヴォトスからいなくならないでほしい。仕事が辛いなら手伝うし、他に何か理由があるなら私がなんとかするから。だから…。」
目の前の少女は普段と変わらず凛としていた。しかし、その口元から紡がれる言葉ははおおよそ各務チヒロらしからぬ、曖昧で漠然としたものだった。私はそっと彼女の手を取った。ミレニアム全体のセキュリティを一身に担うヴェリタスのしっかり者の副部長。その細い指は彼女がまだ高校生であるという当たり前の事実を示していた。彼女に伝えなければならない。伝えて安堵させねばならない。
「心配させてごめんね、チヒロ。確かに私は仕事を探してる。でもシャーレの先生を辞めるつもりは無いよ。毎日ログインするし、デイリーもこなすつもりだから。」
「ただでさえ激務のシャーレの仕事をしながら他の仕事なんてできるの。」
「...シャーレに来る時間は少なくなるかもしれない。でも必ず居なくならないよ。約束する。」
足元のノートパソコンから出るファンの音がうるさすぎるほどの沈黙が流れた。チヒロがこの部屋を訪れてから閉じっぱなしのそれの中身を、彼女はとっくに理解していたらしい。だとしたら、楽しんでいるように見えた会話の最中も、頭の中は一瞬見えたエントリーシートのことでいっぱいだったのかもしれない。彼女にはその胸中を隠し通すだけの度量と器用さがある。なればこそ、私が気づかなければいけなかったのだ。彼女がこの部屋で見たものと、それに由来する不安に。私は彼女の隣に体を移した。そして、その細い身体を抱きしめた。
「だから、安心して。私はどこへも行かないから。」
「...うん。」
胸中を覆うもやが晴れたことで気が抜けたのか、とたんに眠ってしまった。仮眠室の毛布をかけ、暖房の温度を上げた。そこでようやく作業に戻る。あなたが弊社に入社してやりたいことを教えてください。画面に表示されたその文章の少し下、先程こしらえた上っ面の文字列をカーソルが勢いよく消していく。私はキーボードを力強く叩いた。ソファで眠る少女が私に伝えてくれたこと。そんな彼女の不安に気づけなかったこと。求められた喜びと己への戒めが入り交じった一文が表示された画面が薄暗い部屋の中で光っていた。
あなたが弊社に入社してやりたいことを教えてください。
「私の大切な生徒と向き合うこと。」
〜fin〜