第四十一話 失踪女性
田中がカフェのドアを開け店内に入るとすでに谷が待っていた。
谷がすぐに手を上げ田中を招き寄せた。
田中はワインバー風神で渡部警部補と高価なワインを楽しんだ後にすぐに谷にとりあえずの報告のつもりで連絡したのだが谷は「今すぐに来てください」と言ってきたのだった。仕方なく田中は谷との待ち合わせ場所に指定された、カフェと言うより喫茶店と言った方がしっくりくるこの店に来たのだった。
田中は店内を一通り見まわしてからカウンターの中の老マスターにコーヒーを頼みながら谷が座るテーブルの向かいに着いた。
谷は挨拶すらせずに早く寄こせとばかりに田中に手を向けた。
田中がバッグから書類封筒を出すと谷は奪い取る様に掴み、すぐに中身を改め始めた。
「何か進展は?」谷はそう言いながらも書類を拡げ改め始めているがそこにはほんの数枚の書類があるだけだったし、書かれていることもほんの少しだ。
被害女性の、いや失踪女性の個人情報に、連絡が途絶えた日時と状況。その日、最後に確認された服装。谷は一枚目の書類を脇に押しやり二枚目に目を通す。
そこには通報した失踪女性の母親の証言。これも脇に押しやる。
喫茶店の老マスターの妻なのだろう、老ウェイトレスがコーヒーをテーブルに置いた。田中は「どうも」と会釈し早速砂糖もミルクも入れずにコーヒーをすすった。
「部長、お酒飲んできたんですか?」
田中はわずかなアルコール臭を立たせていた。
「仕方が無いだろう。担当でもない一課の警部補にタダで情報をよこせとも言えないだろう」
「でも、こんな時にお酒なんて・・・」谷が咎めるように言うが田中はそれ以上の弁明はせずに谷が書類を改めるのを見ていた。
田中はウソをついたからだ。
この書類を受け取るだけなら風神に行く必要はなく、当然ワインを口にする必要もなかった。だが田中はこの件とは別の砂場の件を見過ごせなくて渡部警部補を風神に呼んだからワインを飲んだ、その対価は高くつくことになったが。
谷は三枚目に目を通す。事件性の有無に対する警察の見解。見たくもないとばかりにそれも脇に押しやる。
成人の女性が同居する家族に連絡もなく帰宅せず、会社にも顔を出さない。だが何かトラブルに巻き込まれた様子があったわけでもなく、身代金の要求の類があったわけでもないのであれば、それに対し多くのリソースを割くほど警察機構は暇でも裕福でもない。谷は、あの子が家出をしたり突然失踪するような女の子ではないと知っている。だが派出所勤務の巡査部長や、交通機動隊の一巡査部長の白バイ隊員の発言が警察機構を動かすことが無いことも知っている。
四枚目。始めて見る内容だった。
匿名の通報があったと書かれている。失踪女性は自分をかばい男性数人に襲われて攫われたと。
だがそこに記されていた情報も他の書類と同じように僅かな物だった。失踪女性は男性四人に絡まれていた匿名女性を助けた。それが大鷹公園の隣であったと言うこと。それが行われた日時はなんと一週間前だ。そして失踪女性は車で連れ去られた。男たちの特徴の記述はなく、車の特徴は「黒っぽい大きい車」
谷に怒りに似た感情が沸き上がる。
「これは!?」谷は四枚目の書類を叩いて言う。自然に声が大きくなる。
田中が落ち着けとばかりに右手を拡げ制した。
「それだけだ」田中は落ち着き払った声色で告げた。
「防犯カメラの映像は!?」
「ない、見ての通り一週間前の事らしい。すでに消えていたそうだ」
「何かあるでしょう!?」
「ない。そもそもその匿名の通報が事実かもわからないだろう」
行方不明の成人女性の捜索など地域課の仕事、よくて刑事課の仕事だ。今回は刑事課が動いているようだが仕事などと言えるほどの事はしていないのはこの少ない書類を見れば分かる。数回の電話をかければ終わる程度の仕事だ。だが田中はそれでもこの書類を持ってきてくれた。田中に刑事課への伝手はない。田中が懇意にしていると言う一課の警部補に頼み込んでこの情報を引っ張り出してくれたのだろう。だが谷はぶつける先の無いままの憤懣をつい田中にぶつけてしまう。
「部長は心配じゃないんですか!?」
田中は少し考えてから出来るだけ穏便に言ったつもりだった。
「谷くんは彼女ととても仲が良かったようだが、私は・・な」
「部長!!!」
店内の視線が谷に集中する。
「落ち着け」
田中がもう一度右手を拡げる。
「ここだ」そう言って田中は書類をトントンと指で叩く。
「この通報してきた女性はバッグを奪われたと言っている」
「それが?」
「この女性は襲撃者の男たちに通報してみろと脅された。身元がバレていたという事だ」
「ええ」谷はそれは当然だろうとばかりに頷いた。
「おそらく奪われたバッグには女性の免許証が入っていたのだろう。だから身元までバレた。そしてそれを恐れた。自宅を知っている男たちが自宅に押し寄せるのをだな。だが女性は通報してきた」
「一週間も経ってですよ!」
「そうだ、助けてくれた女性への申し訳なさか自責の念かは分からんが、とにかく通報してきてくれた。おそらくこの前後で奪われた免許証の再発行をしているんじゃないか?」
「それは!?」谷の顔にほんのわずかな希望が浮かぶ。
「そうだ、強盗やひったくりならさっさと奪えばいいだろうが、ひったくりを四人で行う可能性は?低いだろう。という事は金品狙いのひったくり目的ではないだろう」
田中はそこでいったん口を閉じた。谷には言いづらいことだ。だが田中は続けた。
「目的は性的暴行だったのかもしれない。だとすると初めに襲われかけたという通報してきた女性は30歳以下の可能性が高い。この数日で免許の再発行を受けたか明日か明後日か免許証の再発行を申請する若い女性。彼女を見つければもっと情報を得られるだろう」
「なら!?」谷は期待を込めた顔を田中に寄せるがハコヅメの田中にそれを即座に行うのは無理だ。そして機動隊の一白バイ隊員である谷にももちろん無理だ。
「刑事課に言っても反応は悪いだろう、私が署長に直談判してみる」
「署長に!?部長が?」
「そうだ、私が捜査を一課に移すように進言するつもりだ」
谷は当然、田中と渡部と高橋署長との間の密約は知らない、だからこそ驚いたのだ。一介のハコ長が、万年巡査部長であるハコヅメの田中が所轄の署長に捜査方針を進言するなど大それた行いだからだ。だがそれを分かっている上で谷は田中に懇願した。
「お願いします!!」谷は先ほど田中を詰るような言葉をぶつけたことも忘れ、逆に田中への期待と失踪女性への心配の涙を浮かべながら田中に頭を下げた。
「あまり期待はしないでくれよ」田中はそう言ってカップのコーヒーを飲み干し書類をまとめ席を立った。
田中とて徒手空拳で高橋署長に正面切ってブチ当たるつもりはない。今の田中は波風立てることなく過ごさなかければいけない。渡部警部補を呼び出すのも高橋署長に直談判するのも得策ではないことは分かっている。だがこの失踪女性には何かあるようだ。
1000万の人間が行き交う東京都で一人の女性の行方が分からなくなった。言い方は悪いがそんなことは日常茶飯事で警察に届け出ても門前払いが関の山だ。
今の日本では年間8万人もの行方不明者が出ているのだ。女性はそのうち約4割。30代以下は約半数だ。事件性のあるものは数百件にとどまるが、それは「事件性があると確認された件数」にすぎない。実際に事件に巻き込まれた行方不明者の数はその数倍、十数倍にはなるだろう。
だがこの失踪女性の行方が分からなくなったことはニュースで見た。たまたまではない。何度か見た。
最初に襲われた女性は、自分を助けてくれた女性はきっとどこかで逃げたはずだと思いこみたかった。そう思い込むことで警察への通報をためらう自分を、助けてくれた女性を見捨てているという事に対し正当化しようとしたのだろう。
だが、彼女もテレビの報道を見たのだ。自分を助けた女性はまだ何者かに監禁されているかもしれないという事を知ったはずだ。彼女は罪悪感から通報してきた。しかし一週間も経っている。一週間分という時間をかけて溜め込んだ後ろめたさから彼女は匿名と言う方法をとった、わざわざ今では数少なくなった公衆電話を使ってまで。
女性であるという事を鑑みても卑劣で卑怯な行動であると思わざるを得ない。
だが今はこの匿名女性を見つけ詳しく話を聞くことでしかこの事件は進展しないだろう。谷には言わなかったがこの匿名女性を見つけることは難しいだろう。奪われたというバッグには女性ならばスマホも入っていただろうし、クレジットカードやキャッシュカードも奪われていただろう。更に免許証以外にも身元を知れる物は他にもあっただろう。
当然、匿名女性はクレジットカードやスマホ等それらの効力を停止したはずだ。そこから匿名女性を特定することは可能だがそれを調べることは今の自分には出来ない。だからこそ署長に失踪女性の捜査を一課に移すように進言する必要がある。
これは友人を失いかけている谷への感傷だけではない。数万人の行方不明者の中から一人だけ繰り返し報道される失踪女性。なぜ彼女だけ?懸賞金がかけられたというのは報道する理由にはなる。だが、だからと言って田中でさえ数度見るほどに報道されるかと言ったらそれは否だ。たった一人の女性が行方不明になっただけなのだ。普通は一度報道されただけでもまだマシだったと言える。
それに何故匿名女性は通報できたのか?それは見逃されたからだ。なぜ見逃された?
匿名女性は四人の男に襲われかけたところを失踪女性に庇われた。そこに一台の車が現れたという事は襲撃者は五人いたということだが、五人で性的暴行を目的としていたのならば「黒っぽい大きい車」で二人とも拉致しても良かったはずだ。何故匿名女性は通報するなと言う警告を受けるだけで見逃されたのか?
男たちの狙いは元から失踪女性にあったのではないか?
失踪彼女には何かあると田中の正義感がそう囁く。
山井那奈の失踪には何かある。
渡部は用事があると言い席を立つ田中を見送り風神で一人、まだ席に着いていた。一緒に店を出るところを見られては上手くないし、極上のワインを楽しみ小腹も空いてきたところだ。
カウンターに目を向けると直ぐにマスターが反応する。
「何か食事は?」と尋ねると今日はビーフシチューがあると言うのでそれを頼む。更にワインリストを眺めながらスペイン産の赤ワインをハーフボトルで頼んだ。
すぐにマスターはビーフシチューとバタールの盛られたバスケットをテーブルに置き。ワインのボトルを開けテーブルに並べてからカウンターの定位置へと戻って行った。無駄な談笑はしない良いマスターだ。
渡部はビーフシチューに舌鼓を打ち手酌でワインを注ぎ一人楽しんでいた。
人を呼びつけておいて用事があるからと言って先に席を立つなど酒飲みの風上にも置けないが、今この二人が同じテーブルにつき酒食を共にするなどけしからんと小言を言ったのは渡部の方だ。
田中のヤツが砂場の事を口にしたのは少し驚いたがまあ問題は無いだろう。
店内にホットブラッドのソウルドラキュラが流れる。シンセサイザーの音色が実に古臭く女性のコーラスに時折男性の笑い声が聞こえるだけの曲だが渡部にとっては青春を思い出す一曲だった。
パンをちぎりビーフシチューに浸し口に入れ、赤ワインで流し込む。
渡部はいわゆるバブル世代。今風に言うとX世代。端的に言えば昭和生まれ。米と醤油と味噌で育った世代だ。
そんな渡部でもこの風神に来た時だけは話は別だ。焼酎ではなくワインを楽しみ、梅干しではなくチーズにこだわり、白米ではなくパンを口に運ぶ。
このビーフシチューも実に旨いものだ。ビーフシチューで大事なことは煮込む時間と、そこに入れるワインの質だ。肉などどうでもよい、入ってさえいればいいのだ。
渡部は皿に残るシチューをパンでこそげ取る様に最後まで味わい尽くし最後のワインを注いだ。
値段を気にしてこのスペイン産のワインをチョイスした渡部だが、昔はもっといいワインを飲んでいたこともあった。
バブル時代。
実に良い時代だった。今では手を出せないほど高価なワインを流し込む様に飲んだこともあった。だが当時の渡部はそれを価値を全くわかっていなかった。赤ワインはシブいだけだし白ワインは酸っぱいだけだった。実に無駄な事をしていた。もっと味わっておけばよかった。当時はただ高いと言うだけでチョイスされたワインのおこぼれを嫌々飲んでいた。
そう、渡部もバブルの恩恵を警察官と言う立場で少なからず受けていた一人だった。過去に戻れるのならば、今お前が飲んでいるワインはどれほどの価値があるのか深く説明してやりたいどころかそれを奪い取って今ここに戻ってきたいくらいだ。
渡部は名残惜しそうにグラスに残ったスペイン産のワインを飲み干した。
そして追加で注文したビーフシチューとワインの支払いをして渡部も店を出た。
店を出た渡部は歩き、人気のない場所でスマホを取り出し電話をかけた。
まったく、なんで今どきの電話にはボタンが一つもついていないんだ?画面に数字が表示されても、それを押しても電話をかけているという実感が全くわかないじゃないか。もうそういった物ではないのだと分かってはいてもつい強く「押して」しまう。
渡部にとって電話をかけると言う行為は円盤に開いた複数の穴のうち自分が必要とするところに指をさし込み円盤を回すという事を何度も繰り返してから間違えてないことを祈るものだった。
だが今やそれはスマホのアドレス帳を開き、電話をかけたい相手の名前を押すだけだ。押した感触さえなく、何度も回す必要もない。
本当にこんなことで相手に繋がるものなのかと毎回不安なったのものだが「慣れ」と言う物は確かにある。渡部は電話をかける相手の名前を押しスマホを耳に当てる。
10秒ほど待って電話を切った。渡部は舌打ちした。
もうすぐこの電話を切ると言う行為も「なんで髪を赤く染めた金正恩みたいなアイコンをタップするんですかね?」とか言われるんだろう。
それまでには無事に定年を迎えていたいものだ。
そう、今はもう令和だ。昭和ではなく平成ですらない。バブルは遥か昔の話だ。
社会はそれに適応してきた。ヤクザは力は弱まりその代わりに頭を働かせるようになった。それは外国人マフィアの台頭を許したがその外国人マフィアでさえ時代に適応していき、今では半グレと呼ばれる連中まで現れる始末だ。
時代の流れに乗れない者は淘汰された、武闘派と呼ばれたヤクザはほぼ壊滅したと言っていい。佐河もそうだ。組を解散せざる得なくなり、今ではかつての子にたかって生活していたのだろう。よく今まで生きていたものだ。
時代の流れと言う物は途轍もない濁流のようなものだ、耐えきれるものではない。流れに乗ってうまくやっていくしかない。濁流に逆らう者はいつか力尽きて死ぬ。だから佐河は死んだ。
正直に言って胸のつかえがとれた。
渡部はスマホをポケットにしまい帰路へ着いた。