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性別に魅力を感じない人たち
スプリット・アトラクション・モデル(SAM)という考え方がある。広義には魅力を感じる他者の条件を「性的魅力」と「恋愛的魅力」を分割して考える方法のことで、アセクシャルのコミュニティでは自己紹介などでわりと一般的に使われている。私のセクシュアリティをこれで表現すると「アセクシャル」で「クワロマンティック」な人、ということになる。
狭義には魅力の種類を分析する方法を指す。自分の他者に対する好意を分解してみて、性的に好き、恋愛的に好き、とか、友達として好き、家族として好き、みたいに改めていくことができる。
SAMを解説する記事を書く気はないので、代わりに日本語で説明されたリンクを置いておく。この記事では、なんで私たちはこれを便利に使っているんだろうね、という話で始まり、私の例を絡めて他者への惹かれの周辺のことを書いてみる。
1. 性的指向と性自認(SOGI)
自分のセクシュアリティを説明する表現方法として、一番有名なのはSOGIだと思う。SOGIは「性的指向」と「性自認」で自分を表現する方法のことで、ハラスメント防止に掲げられてから認知度が上がった言葉だ。たとえば異性愛者のことをヘテロセクシャルと表現したり、身体性と性自認が一致する人のことをシスジェンダーと表現したりできる。
この方法でいくと、限定されたLGBTの名前に含まれない人も自分のことをふたつの名前で表現できる。だからセクシャルマイノリティの間ではよく使われる。他者に性的に惹かれない無性愛者はアセクシャルと表現される。私を表現する名前のひとつはこれだ。
性自認については、性的指向とは関連性のない別の概念とも言える。ただし、特にアセクシャルの人たちにおいてはある種の傾向がある。アセクシャル当事者の中には、性別がない(エイジェンダー)や、男性でも女性でもない(ノンバイナリー)や、二元論に依存しない(ジェンダークィア)を自認する人が一定数いる。
私も性自認を問われたらノンバイナリーと答えるけど、これは説明がめんどくさいから端折った結果の回答とも言える。性別は動物の身体を雌雄で分別する方法だと捉えているから、自分を説明するときにわざわざ主張するものだと思えないし、必要を感じない。
セックスをしたくない人たちの中には自分の性的魅力を強調する必要がないか、したくない人もいる。自分の好きな装いをすることを別にすれば、誰かを誘惑する必要もないし、誰かに性的な視点で見られるのは避けたいし。そういうわけで、セックスをする必要がないことと、性別に囚われない考え方は近い場所にあるのかもしれない。
2. アセクシャルとSAM
普通は恋愛的に惹かれる人に性的に惹かれるんだから性的指向と恋愛的指向は同義でしょ、SAMなんて意味がない、という視点はもっともだ。一致しない人がいるというだけで、大抵の人は使い分けずに一致していて不便もないのだから、必要もないだろうし。
だからこれは性的指向と恋愛的指向が一致していて不便がない人もSAMを適用すべきという話じゃない。恋愛的指向を使う人は、自身を表現するときに必要だから使うというだけ。
そして、特にアセクシャルの人たちは他者に対して感じる魅力の種類に対して敏感だ。
世界的に有名なアセクシャルのコミュニティサイトAVENのトップページに掲載されているアセクシャルの定義のひとつが「性的魅力を感じない(does not experience sexual attraction)」であることもこれを象徴している。つまり、自分がアセクシャルだと気がついた人はみんな、一度は自分が他者に感じる魅力の種類について分析して考えたことがあるということだ(ごちゃ混ぜに使う人がいるからよく誤解されるけど、アセクシャルはセックスをしない選択のことでも、性嫌悪でも、トラウマによる忌避でもない)。
AVENには「無性愛者のほとんどが生涯を通じて無性愛者だが、ずっとアセクシャルという言葉を知っていたわけではない」ともある。それから「急に同性愛者になる異性愛者がほとんど居ないのと同じように、無性愛者から性愛者になる人もほとんど居ないし、その逆もまたしかり」とも。
私もそうだ。大人になるまで無性愛という言葉を知らなかったから、自分を異性愛者だと思って生きていた。私はある日から無性愛者というラベルを使い始めたけど、突然その日に異性愛者から無性愛者へと変わったんじゃない。自分が最初から無性愛者だったことに気づいただけだった。
他者に性的な魅力を感じていないことに気づく。これがアセクシャルを自認する第一段階の体験だ。生まれながらのアセクシャルでも、恋愛結婚が最も幸せとされる社会で生まれ育っては、他者に性的魅力を感じない自分に気がつくのはなかなか難しい。
それから次に考えるのは「性的魅力じゃないなら、他者に感じるこの魅力の正体は何なんだ?」ということ。そして初めて性的指向と恋愛的指向を別個のものとして考え始める。これこそアセクシャルのコミュニティがSAMと縁が深い理由だ。自分が感じる魅力について知るために必要だから。
3. 性別に魅力を感じない人たち
分析の結果、もちろん他者に恋愛的魅力を感じる人もいる。その場合は恋愛的指向についても考える余地がある。
このときはまず、誰に対して恋愛感情を抱くのか、という疑問をスタートラインにして考えていく。SOGIと同じく性別を基準にすれば、恋愛する相手が男性なのか、女性なのか、変動するのか、などが考えられる。たとえば性的な魅力を感じることはないけど女性に対して恋愛感情を抱く人のことを、SAMを採用すると性的指向と恋愛的指向を併用して「アセクシャル」で「ウーマロマンティック」と表現することができる。
恋愛的な魅力は感じることがあるけど、性別とは関係ないんだよ、ということもある。たとえば、他者の知性に恋愛的な魅力を感じるサピオロマンティックはこうした指向の一種で、他者の性別がどうであれ「他者が一定の条件を満たしたときに魅力を感じる(それ以外では感じない)」という指向にあたる。
これはアセクシャルを含むAスペクトラムの指向とされる向きがあるけど、肌感覚ではそう感じていない当事者もいるように思う。そもそも「他者の性別が異性のときに魅力を感じる指向」だって一種の条件つきの指向だ。つまり性別もれっきとした「他者に魅力を感じる条件」のひとつなのだから、個体によって条件に差があることは何も不思議じゃない。
では、分析してみて感じているのが恋愛的な魅力ではないとわかったとしたら何に行き着くのか。恋愛的魅力を感じないなら恋愛的指向はアロマンティックなのかもしれない。でも魅力をまったく感じない証明はできないから、好意に対する捉え方で自身が感じる魅力の正体を説明することもある。
先に書いたようにアセクシャルの中には自分のことも他人のことも性別で捉える必要がない人がいるので、性別による分類がフィットしないだけということも考えられる。性的指向にしても恋愛的指向にしても、魅力を感じる条件を性別以外に設定したら魅力の感じ方をうまく表現できそうだ。SAMに照らせばわかるように、恋愛でない好意の種類はたくさんある(恋慕とか親愛とか友情とかもここに入る)し、人によっては好意の濃淡や捉え方も変わってくるのだから。
それらを表現する名前もある。基本的には感じない魅力を感じるときに満たされる条件ついての性的指向や恋愛的指向のことだ。たとえば、信頼が強い他者にのみ恋愛的な魅力を感じる指向(デミロマンティック)や、自身に好意がない他者にのみ恋愛的魅力を感じる指向(リスロマンティック)がある。恋愛的な魅力をまれにしか感じない指向(グレーロマンティック)や、感じる魅力について恋愛的かどうか判断しない指向(クワロマンティック)などが挙げられる。
これらを使う人も増えているし、新しい魅力の感じ方に名前をつけてインターネットで提唱する人もいる。私の恋愛的指向を表現する「クワロマンティック」という名前も2011年に初めて使われた新しい言葉だ。
インターネットがある今、これからもセクシャリティを表現する新しい言葉は使いきれないほど増えるんだろうけど、別に全部を覚えて使いこなす必要なんてない。これはよく言われる特別感の演出というより多様性の表面化であって、これまで透明化されてきたマイノリティが可視化されただけのことだ。誰も怒ったり泣いたりする必要はない。
あとがき
誰かを指して「結婚したくはないけど好みのタイプ」と言うとき、それはアロマンティックでセクシャルな好意なのかもしれないな、みたいなことを考えたので書き始めた。性的に魅力を感じるからといってその対象とセックスしまくるかというと別問題だし、恋愛的魅力を分けて考えないなら恋愛的に惹かれない相手とはセックスしないだろうし。
それにしても、繁殖に使える条件の他者にだけ魅力を感じるのが多数派の人間はすごく効率的にできている。どこからか聞こえてきそうなアセクシャルに関する偏見と勘違い(たとえば「でも生殖活動をしなくてもいいの?」とか「一時的なものなの? 注目を浴びたいだけなの?」とか)については、『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて―誰にも性的魅力を感じない私たちについて』でジュリー・ソンドラ・デッカーが網羅的に回答している。