剣の王子、書の王子
「兄さんこれ読んでよ」
「魔人殺しか。好きだな。ユージェフ」
まだ十歳の兄は寝っ転がっていた草原から立ち上がり、さらに幼い弟の差し出した書を手にする。
王宮書院の書庫にある書のひとつであり、貴重な皮紙が使われている伝説の記録である。
かつてこの世界に現れ、今も在るとされる人ならざる人――魔人について記された書であり、それを打ち倒した英雄王アルターブの冒険譚でもある。
いわばアルターブ王国建国記の一部であり、原書として貴重な品である。
だが彼らにはそれを自由に持ち出す権限がある。
書を受け取った兄の名のはランザイア・アルターブ。
書を渡した弟の名はユージェフ・アルターブ。
アルターブ王国のもっとも血の濃い子供たち。
彼らはアルターブ王国現王アーゼフ・レ・アルターブの実子なのだ。
当たり前のことだがアーゼフ・レ・アルターブは複数の妃を持つ。
その中でもっとも高貴な王妃の血をひくのがユージェフであり、もっとも卑しい娼妃の血をひくのがランザイアである。
娼妃というのは不思議な呼称だが、それは様々な意味で強い光を発する言葉でもあった。
娼妃とは娼館上がりの妃を侮蔑する意味もあったが、王すらも袖にすることが許される地位と誇りと芸を持った天外なる芸妓への尊称でもある。
東方から流れてきた王族とも、泥の中から這い上がった玉とも言われている王宮の娼妃と呼ばれる女性は、その誇りと技芸を言い立てて娼館を出ない他の高級娼館の娼妃とは違い、アルターブ王の要請に応え高級娼館を出た。
そいう意味でも大陸でも珍しい型の女性だったのである。
緑の黒髪を持つこの娼妃の美しさと天外さは王に初めての子を成させるという快挙を生み、それをきっかけに王妃や他の妃が子供を授かるという良循環が生まれた。
高級娼館で育っただけに娼妃は分をわきまえており、また王妃も彼女を蔑ろにするような愚かな女性ではなかったので、黒髪と金髪の両妃は姉妹のように仲が良かった。
王妃の方が、娼妃を「姉様」と呼ぶのには議論はあったがおおむね好意的に受け入れられている。
それがその子たちにも影響を与えている。
三つ年上の兄王子ランザイアを弟王子であるユージェフは慕っており、他の兄弟王子には見せない親しみと甘えを持っている。
「お前ももう文字くらい読めるだろうに」
「だって兄さんに読んでもらった方が面白いんだもの」
教育で言えば娼妃の腹から生まれたランザイアより、王妃の腹から生まれたユージェフの方が優先されている。
ユージェフが優秀な生徒で、もう政治学の書すらすらすらと理解できると二人の共通の教師である賢者ライユースが言っていたのをランザイアは聞いている。
それでも書を読んでやるランザイアは優れた人の良さとユージェフの兄であることに対する喜びを持っていることをうかがわせる。
ちなみに剣の腕では武術の師であるガーシェンに「弟王子よりは筋がいい」と言われている。
ガーシェンは元傭兵でありながら百騎士隊長にまで上り詰めた人物であり、その剣技はおろか格闘術や馬術、弓術、戦場指揮などにおいても才能を示している。
そんな人物に評価されたことがランザイアにとっては誇らしく、その思いが「弟を守ってやらないと」という気持ちを強くしている。
「誰が読んでも書は書だろうに」
ランザイアはいつものように受け取った魔人殺しの書を開く。
ユージェフはその隣に頬杖を突いて腹ばいになり、真剣な顔をしている。
「魔人たるは人にして人にあらず、その力は千差万別にして、強弱測りがたし、人に近い者が強いとは言えず、獣に近い者も弱いとは言えず、それを見極められしは戦った者のみ、もっとも二度同じ魔人と戦える者はいない。それは魔人が種族ではないためか、あるいは倒した者の心から魔人が消え去るのか、もちろん一度の出会いで命を奪われた者に再戦の権利はなく、逃げ延びて再び挑もうとする者がいないことも記しておくべきだろう。百の魔人を倒せし、我らが剣王にしても・・・。剣王って、これ古代記なのか」
「うん、書庫の保管庫の奥にあったやつを持ち出してきたんだ」
「保管庫って立ち入り禁止だろ」
「えへへ、新しいお話が読みたくって」
「お前、本当に書が好きだな」
一度は驚きの声をあげたランザイアであったがユージェフのうれしそうな顔を見ていると「バレる前に返せばいいや」と思ってしまう。
ランザイアは「読み終わったらちゃんと返すんだぞ」と分別くさいことを言ってぐしゃりとユージェフの頭を撫でた。
ユージェフは強くうなずいた。
涼やかな風に揺れる幸せそうなユージェフの髪は金色で、ランザイアの髪も同じ色だ。
それが良いことであるかどうかはランザイアにもユージェフにもわからない。
「もう剣術の訓練の時間は過ぎていますぞ」
二人の剣の師である百騎士隊長ガーシェンの声に、書の内容に夢中になっていた二人の王子はびくりと体を震わせた。
見上げれば豊かな髭と薄い髪を撫でつけた壮年の騎士が腕を組んでいる。
髪色は黒く、背丈はずんぐりとしているが、その強さは比類ない。
もちろん子供である王子たちには巨人のように見えている。
彼らは見た目以上の百騎士隊長の大きさを感じる感性を持っている。
「ガーシェン師」
最初に立ち上がったのはランザイアである。
「ぼくが兄さんにわがままを言ったんだ」
しかし最初に頭を下げたのはユージェフだ。
逞しき百騎士隊長は厳しい顔で二人を睨みつけ、破願する。
兄弟王子のどちらにも自身の責任を回避しようとする意図がなかったからだ。
「では罰を受ける気はありますな」
百騎士隊長ガーシェンは庭の中心にある大木を指さした。
途端に二人の王子は駆け出した。
ガーシェンが指さした大木に向かって。
兄弟とも快速と言えた。
だがガーシェンはさらに速い。
あっという間に大木にたどり着いたガーシェンは、ランザイアの目の前で一度木の幹に手を触れると二人に向かって笑いかける。
「私の勝ちですな。今日は百回の素振りをしていただきますぞ」
「くそ、おしい」
「やっぱりかなわないや」
これが罰を執行するときのガーシェンの取り決めであった。
もし二人がガーシェンより先に木の幹に触れれば、罰は半分に、逆ならば倍になるのだ。
ただ上下に素振りを繰り返すというのは剣術の訓練の中では基礎中の基礎だが、子供たちにとってはもっとも退屈な苦行でもある。
派手な技や技術論を聞くのに比べて、ただただ剣を振るということの重要さを知るにはまだ二人の王子は幼かったし、知ったころには得られる成果は少なくなってしまうのだ。
だからガーシェンはいつもこの手を使う。
もっともそれが使えるのもあとわずかな時間だろう。
最初は鎧を纏っていても勝てたのだが、今では腰の剣を帯びただけの姿になっている。
この二年半の間に両王子とも驚くほどに成長した。
特に兄王子の方の成長は速く、剣術で兵士から百騎士隊長まで立身したガーシェンから十本の内二本は取れるほどの腕前になっている。
腕前だけなら騎士隊長も務まるだろう。
「では百本素振りをはじめましょう」
大木の傍には剣を納める木筒があり、その中には刃をつぶした剣が何本か入っている。
「ランザイア様は十五型を、ユージェフ様は八型を使うように」
型は重さを示し、八型は通常の剣の八割の重さで、十五型は通常の剣の三倍の重さがある。
「刃をつぶした剣の素振りとは言え気を抜かぬように。訓練で命を失う騎士も年に一人か二人はいますし、素振りで腕や足を負傷する者もいますので」
ガーシェンはランザイアの方を見て、注意を与えた。
この兄王子は剣術に優れているだけに、並の騎士がこなす程度のことは軽くやり遂げてしまう。
注意を与えねば気を抜いて思わぬ事故を起こしかねない。
今日のようにいつもより重い剣を振るとなればなおさらだ。
もちろん持っただけで違和感を感じ、一度振ればいつもとの違いに気づくだろうが、一振り目で油断をされてはたまらない。
「わかった」
「はい」
兄弟がそれぞれの言い方で返事をして、素振りを始める。
そしてそれぞれが最初の一振りを終える途中で体勢を崩し賭け、危うく立て直す。
「気を抜かずにおいてよかったでしょう。お二人とも」
ガーシェンの言葉に二人の王子は素直にうなずいた。
いつもより重い剣を振ることがここまで大変だとは思ってもみなかったのだろう。
「ハンカチーフ一枚ほどの重さでも剣先にあると何倍にも感じるもの。それを心得ていなければ剣を自在に使うことなどできませんぞ」
そう言ってからガーシェンは腰の剣を抜いて、自身の正中線を切るように振り下ろす。
一寸のずれもなく一直線に振り下ろされた剣先は地面につく寸前でぴたりと止まる。
「ただ振り下ろしてあげれるだけならば意味はありませんぞ。こうして正中線を通り、地面に触れる寸前で止める。この動きこそが全身を整え剣力を増す基礎となるのです」
百聞は一見に如かず。
ガーシェンの素振りを見た二人の王子は無言でうなずくとそれぞれの重さの剣での素振りに熱中した。
まだまだ完璧には程遠い。
だが二人の王子のそうなろうという姿勢の強さは共鳴しあうように完璧だ。
(どこまで伸びていくのか)
ガーシェンは二人の王子の素振りの姿勢を矯正しながら、感嘆の念を抱く。
あと十年もすればこの国には大陸屈指の剣士でありながら王でもある人物が誕生するかもしれない。
ただのその傍らに大陸最強の剣士となった兄王子が立っていられるかはわからない。
そのことを考え、ガーシェンは兄王子ランザイアには傭兵のサバイバル術を厳しく仕込んでいる。
王位継承争いで失われるにはランザイアの剣才はあまりにも惜しいし、弟王子にして第一王位継承者になるであろうユージェフに兄殺しの汚名を強要するのもはばかられた。
できうるならば両王子共にこの国の柱石として名を残してほしいものだとは思うが、それが現実的ではないことをガーシェンは知っていた。
「お姉様、お時間をいただきありがとうございます」
金髪碧眼、長い髪を花のように編み上げた女性が丁寧にひざを折り、小さく体を上下させる。
その身体は均整がとれており、どこか少女のような印象を受ける。
もっとも王妃として席に着いたときにはその印象は完全に消えてしまうのだが。
「私の方こそ、王妃様に時間を取っていただきありがたく思っております」
黒髪緑目の美女が臣下の礼を返す。
こちらは長身であり、肉感的な肢体を持っている。
王妃が可憐な花だとすれば、彼女は鋭い剣といったところだ。
もっともそれは育て育むものの強さであり、好ましい胆力と知性である。
実際にこの黒髪の女性は異常に面倒見がよかった。
アルターブ王の寵愛を受けながら、王妃やそのほかの妾妃たちのもとへ通う様に王を促し、その期日を丁寧に知らせて回った。
王の寵愛を競うのが後宮の法であるから、誰もがそのことを疑った。
寵愛を分け合うなどあり得るはずがないと。
だが王は寵姫である黒髪の娼妃の元を離れ、それぞれの妃のもとを回り、それぞれの妃と関係を持った。
心身ともに王と時間を分け合った妃たちはそれを徳として、娼妃に挨拶をし、魅了された。
しょせんは娼婦上がりと侮っていた者たちにとっては、高級娼館の特級娼婦として王族さえあしらう彼女の知識と胆力、技芸と心遣いに触れることはまさに日常の変革だった。
その中でもっとも強烈な信奉者が王妃のエレノアである。
ことあるごとにこの部屋にやってきては様々なことを聞いたり話したりして時を過ごすことを至高としている。
もちろん王を支えるために娼妃の深い知識と見識を吸収しようという向学心もあるのだが、彼女を育ててきた侍女頭や嫁入りに付き添ってきた侍女たちの見るところではそれはついでに過ぎない気がする。
ただ侍女たちもこの黒髪の娼妃レノアールを好ましく思っているので、王妃エレノアに注意を促すときの口調は弱くなってしまう。
王妃エレノアから「今日はお姉様のところへ行きたいのだけれど」という言葉がでそうになると侍女の間で誰がついていくかのくじ引きが行われることを例に出せばその心情がわかるだろう。
王妃が娼妃のことを「お姉様」と呼び、自ら部屋を訪ねるなど非常識なのだが、そういうことがないと王妃の侍女たる自分たちが娼妃レノアールと同じ時を過ごす機会を得られないのだ。
「おいしいお菓子を持ってきてくれるとのことでしたので、お茶はこちらで準備させてもらいました。さあ、皆さんこちらの席にお付きください」
そう言って娼妃レノアールは庭に準備したカフェテラスを指し示すと王妃に一礼して先導するように先を歩こうとするが、王妃はにこりと笑うと娼妃レノアールの腕を取った。
「円形のテーブルは上下の別をなくして親しく語り合うための舞台装置とおっしゃっていましたよね」
「その通りです。王妃様」
「じゃあ、これからはえーっと」
王妃エレノアは少し考えてから、侍女頭の女性を見る。
「自分で思い出さねば学びは浅くなりますよ。エレノア様」
「その通りです。王妃様はよい侍女をお持ちですね」
侍女頭の言葉に黒髪の美女は微笑みながら頷く。
「ヘッタはいじわるなんです」
王妃はいたずらっぽく、言うと唇を尖らせる。
王妃になってからも侍女頭ヘッタにとってはエレノアは王女時代と何も変わらない。
気まぐれと思われるほどに自由で、明るい少女なのだ。
そんなエレノアを彼女も他の侍女たちも好ましく思っている。
そしてそんなエレノアを優しく導く娼妃レノアールのことも。
「言葉は思い出せませんけれど、身分の上下を介さず気軽に思った事を言っても良い場、そう無礼講でしたわ」
「よく覚えていましたね。ただし礼儀を忘れてよいと言うことではありません。ここでは忘れてもらわないと私がエレノア様たちと話すことができなくなってしまうのでノールールですけれど」
娼妃レノアールは王妃の名を呼ぶことで率先して無礼講の時間の開始を皆に知らせる。
「もちろんですわ。さあ、みんなも席について」
王妃エレノアの言葉に彼女の侍女たちがカフェテラスのテーブルにつき、娼妃レノアールの指示で彼女の侍女たちも席に着く。
王妃の侍女が先であり、彼女の侍女はそれが終わってからである。
分をわきまえるとはこういうことであり、また王妃をもてなす主人である娼妃レノアールが客人を先に立てるのは礼儀でもある。
それを嫌味なく実行できるところが娼妃レノアールが慕われる理由なのだろう。
王妃エレノアの侍女頭ヘッタは紅茶をすすりながらそんなことを思った。
母たちが会合を持っている頃、二人の王子は乗馬の訓練を終えて、教師である百騎士隊長ガーシェンに挨拶をした後、宮廷儀礼に関する勉強に励んでいた。
今日は社交術、外交儀礼に関するあれこれである。
あれこれというのはその場その場において必要な儀礼や礼儀を教わることであり、案外苦痛な時間ではない。
書を読むこともあるが、実践として体を動かしたり、場を作ったりするところが多く、身体操作術に近い。
そこをランザイアは気に入っており、ユージェフは感覚的ともいえる微細な身ごなしを教わり覚えることに苦戦していた。
剣術を得意とするランザイアにとって、記憶にではなく、体に刻み込まれ、意識せずにできるようにならなければならないというのは楽しいことなのである。
ただし弟王子のユージェフにとっては書で得た知識を体現するというのは困難だった。
何しろ一つの動作に二十以上の注意点がある。
それをいくつもこなすとなればうんざりしてしまう。
これは彼が文字を学び、文意を理解することを得意とする弊害だった。
儀礼書は簡潔ではなく、また完結しているわけでもない。
新たな儀礼は日々書き加えられ、いにしえの礼儀は記されているが使われることはない。
だから今使う物に集中すればよいのだが、理解力と記憶力に優れているだけにユージェフは動いている間にいにしえの礼儀との差異が気になってしまうし、これからするべき幾筋もの動きの中から最も良いものを導き出そうと四苦八苦している。
その探究心は最高の宝を求めて、迷路の奥深くの竜に挑む伝説的な冒険者の心情に似ている。
だが礼儀とは人と人の間の潤滑油であり、千変万化する存在だ。
最高のものは存在しない。
たとえばユージェフの兄であるランザイアにとっては弟王子のわがままこそが最高の喜びであるように、基礎儀礼の基礎も実は完璧なる定例ではない。
基礎は堅く、応用は柔らかに。
それがすべてに通じる道である。
だがユージェフの場合は基礎の水準が並外れている。
鋼のごときであれと言われる基礎儀礼ではあるが、ユージェフの場合はそれが金剛石の域へと至ろうとしている。
それは苦境の極みであり、社交の師である外交使ジラルーラもたどり着けなかった場所である。
ジラルーラはそれを目指している王子の苦しみをわかりながらも見果てぬ夢を追う王子に新たな儀礼道を託すことを決めている。
もしこれを形にできるのならジラルーラは史上最高の社交交渉術の泰斗を育てたことになるだろう。
それが理解できているだけでもこの社交の師は人物と言えた。
王子とはいっても相手はまだ七つの子供である。
凡庸な社交術師なら、その拙さの中に天才を見ることはできない。
「では先輩の兄王子殿と、そうですね。庭の散策をしていただきます。兄王子は隣国アーロゼスの王女であり、弟王子は東方の侍としましょう。王女は東方へと拉致され護送される途中に侍に助けられ、東方の礼儀を侍に教わるという形式で行きましょう。よろしいですね」
社交術師ジラルーラは三度手を打ち鳴らすと頷いた。
「王女の礼儀なんか知らないぞ」
「だから教わるのですよ。ユージェフ王子は東方の儀礼にも熱心なようですから」
「でも東方の姫の礼儀と西方の王女の礼儀は全く違います!」
「だからいいのです。何を教え、何を教えないかはユージェフ王子に任せます。どのような場面にも儀礼はあり、なければ新たに生み出す。それこそが儀礼の本質です。でははじめましょうか」
困惑しきったユージェフの言葉をやんわりと遮り、ジラルーラは儀礼の訓練の開始を告げる。
あまりにも破天荒な舞台装置だが、基礎儀礼に凝り固まっている王子の心をノックするには必要なことだ。
ノックすることで一度、バラバラになった単色の儀礼の石は万色の輝きを持つダイヤモンドへと変わる機会を得るだろう。
もちろんそこに至るまで数百、数千回のカットが必要だろう。
だが社交の師であるジラルーラは苦境に陥るユージェフを思うがままに迷わせるとを決めている。
そのために様々な横道を示す。
息を吸うには吐く必要があり、極めるには放つことが必要だ。
この素晴らしい王子が考えもしない舞台装置を整え、びっくりさせることこそが最良の教育であった。
苦しみの中に楽しみを見つけることは天才の所業だが、そのためには楽しさを知る必要がある。
そして楽しさとは道から外れると言うことなのだ。
未知を体験すると言っても良い。
もちろん未知に囚われ、文字通り道を誤ってしまう者も多い。
だがその覚悟がなくては、新たな儀礼道など見つかるはずもないのだ。
ジラルーラは外からみればふざけて遊んでいるようにしか見えない二人の王子の内、一人をじっと見つめている。
儀礼の訓練が終わったとき、兄王子のランザイア、弟王子のユージェフ共に泥だらけになっていた。
王女の衣装に身を包んだランザイアがなれないスカートで歩き回ったせいであり、儀礼教師であるジラルーラが設定した舞台装置が冒険に満ちたものであったせいでもある。
何しろ、王女を狙う敵国の騎士役やら野盗役まで準備されていたのだ。
これでは礼儀の訓練というよりはごっこ遊びである。
それができたのは現王のアーゼフ・レ・アルターブの柔軟な思考のおかげだ。
柔弱で頼りがいのない王とまで呼ばれてるアルターブ王アーゼフ・レ・アルターブが実は名君であったと言えば誰もが首をかしげるだろう。
各国の王族を袖にする高級娼館の娼妃レノアールが見初めた王であるから、そうに違いないと言うこともできるし、レノアールが与しやすしと見る程度の王だったとも言える。
男ではなく、王であるというところが重要であり、事実娼妃レノアールは女王としてアルターブ王国を意のままに操っていると言われてもいた。
もっともそれが教育訓練の妨げにならないどころか助けになっているとしか言えない以上、各教師にとってアルターブ王国は理想の教育環境であった。
彼らが望めば高額な教育資金が与えられ、何より教育方針を一任された。
生半可な一任ではなく、その教育領域は聖域とさえいえるほどに守られ、特別視された。
賢者ライユース、百騎士隊長ガーシェン、儀礼教師ジラルーラだけでなく、宗教教師アーマ・ホウア・イデアや宮廷技芸教師エオホユーズもその教育方法の選択についてはほとんど無制限の権限を持っていた。
誰もが実務に通じた一流の人物であり、それゆえに貴族階級にいた者ではない。
彼らにとってその教育方針に対する王権の守護は絶対に必要な利得の剣であり、教授の盾であった。
この時代、王宮においてここまで強固な、あるいはここまで放埓な教育環境は存在しない。
だからこそ、各教師は王子たちの教育に全力を尽くした。
もちろん王子につけられた教師が一人も王権に傷をつけるような真似をしなかったのは彼らの人物に帰せられるが、それ以上に王子たちの才能の豊かさに教師たちが魅了されたことが理由でもある。
恐るべきことにあの柔弱な王の子である八人の王子のすべてがそれぞれの教師を驚倒させるような天才児であったのだ。
天才を得られる教師は少なく、それを育てることこそが教師の最大の喜びである。
あるいはそれは教師たちの錯覚に過ぎなかったのかもしれない。
天才とは人を超えた者を指すのだから。
だが教師たちは強くそれを信じた。
そして王子たちは自分を信じて尽くしてくれる教師を信じたのだった。
十年が経った。
たった十年である。
現王アーゼフ・レ・アルターブは健在であり、各教師たちも実力を十分に発揮できる年齢の内に収まっている。
賢者ライユースは宰相として国政を預かり、百騎士隊長だったガーシェンは大騎士団長として軍事を差配している。
儀礼教師ジラルーラは外交専任主として外交団を指揮し、宗教教師アーマ・ホウア・イデアは大司祭として国教を定め、国内の異教の使徒たちとの交流も深い、宮廷技芸教師エオホユーズは宮廷楽団を率いる宮廷画家となり、芸術家たちとの交流を通じて各国と芸術方面での親交を深めている。
王子が王位に付いたとき教師が優遇されるということはよくあるが、それ以前にここまでの大変革があることは珍しい。
しかもアルターブ王国はこの十年間、一度も他国と戦をしていない。
もちろん小競り合いは絶えない。
だが小競り合い程度では貴族でもない者たちがこれほどの地位身分の向上を果たすことは望めない。
大戦の火種を消したとなれば話は別だが、それは語られてはならないことだ。
よって、誰もがこう思った。
彼らにはそれだけの功績があるに違いないと・・・
これだけの急速多数の成り上がりを貴族たちが表立って誹謗しないのはそのためだ。
「まさかガーシェン師が千騎士隊長を超えて、大騎士団長になっちまうとはな」
「それを言うならライユース師の宰相就任も破格すぎます。もちろん実力だけで言えば十分なのですが」
王子ランザイアのつぶやきに応えたのはマジェスハーツ今年二十歳になる青年であり、ランザイアと同年の王子である。
金髪をきれいに整えて肩に流しているランザイアと違い、腰のあたりまである長髪のところどころにほつれがある。
どちらも均整の取れた肉体を持っているが、ランザイアの方が若干背が低く、筋肉質に見える。
逆に言えばマジェスハーツの方が長身で細身に見える。
どちらも同じ師に剣術武術を学んだのだが、その面に関してはマジェスハーツはランザイアには遠く及ばない。
何しろ、ランザイアは二年ほど前にエルフの森の狩りの合間に遭遇した魔人を屠ったことがある剣の英雄なのだ。
もっとも賢者ライユースをともに師と仰いだ二人の魔術に関しての腕前はマジェスハーツに大きく軍配が上がる。
王子マジェスハーツは二十歳にして人の魔術の粋を極め、竜や巨人の魔法の一部を再現することにすら成功している。
どちらも天才としか言いようがない。
もし魔人遭遇の場にマジェスハーツがいたら、魔人を倒していたのはマジェスハーツだったと言われるほどだ。
もちろんそんな仮定をする者に対して二人の王子は口をそろえて「二人がそろっていたら協力して倒した」と回答することにしている。
それが王位継承権争いに発展する危険性を知るゆえだ。
二人とも八王子の中では最年長で二十歳になるが、今回の儀礼には参加していない。
その優柔不断ゆえアルターブ王は王子たちの王位継承順位をまだ定めてはおらず、儀礼において必要な席次を決定することができないからだ。
「まあ、祝いはあとでするからいいけどな」
「私もそのつもりですよ。もっともライユース師が私の誘いを受けてくれるかは疑問ですが」
「受けるに決まっている。あのじいさんはお前を一番かわいがっていたからな」
ランザイアは同い年の王子を見て、笑う。
「そうでしょうか?」
ランザイアの同年の異母兄弟は不安そうに愛用の魔術師の杖をいじっている。
それも仕方ないかもしれない。
賢者ライユースにもっとも愛されたマジェスハーツは、それゆえに兄弟王子の中でもっとも厳しい指導を受け苦しんだ者でもあるのだ。
マジェスハーツは魔術の師である賢者ライユースを心から敬愛してはいるが、あれほどの苦行を与えた師が仕事を放り出してまで彼が開く祝宴に出席してくれるほど自身を愛してくれている自信はない。
賢者ライユースが不器用なのか、マジェスハーツが超えた修行が厳しすぎるのか。
あるいはランザイアの人の心の機微を見る目が鋭すぎるのか。
「誘ってみればわかるさ。それより見てみろよ。ユージェフがよくやっているぞ」
最年長である二十歳の王子ランザイアとマジェスハーツはともに三つ年下のユージェフを推している。
彼は王子としてではなく、儀礼差配者として儀礼に参加している。
十四にして社交界にデビューしたユージェフは瞬く間に各国の王族、大使の支持を取り付け、社交界の一大人物となった。
その後は人の境界を越え、エルフ族やドワーフ族とさえ交流し、ドワーフ族の王国とは外交関係さえ構築した。
そして竜や巨人の友人まで持っている。
ランザイアは竜の背中に乗りたいと言って、苦り切った竜の顔を見たし、マジェスハーツは彼らの魔法を見せてもらうことに成功している。
「ユージェフの血縁なれば」
竜と巨人が吐いた言葉の意味を二人は賢者ライユースに解いてもらい、知ったのだ。
「ユージェフは私たちの中では一番王に向いていると思いますよ。ランザイア兄さんだけならともかく、私なんかまで一緒に竜に会わせてくれたのですから好き嫌いだけで人を見ないと思いますし」
「別にユージェフはお前のことを嫌いだと思ってないぞ。いつもここに皺を寄せているから遠慮しているだけだ」
「それは癖ですよ。放っておいてください」
魔術とは長く厳しい道である。
数万の書と格闘し、実戦を重ね、失敗を繰り返した末にやっと何かを得られればいい方で得られない方がずっと多い。
そんな暮らしをしていれば眉間に皺も張り付こうというものだ。
「そういえばライユースのじいさんもそうだな」
「あれはきっとわざとですよ。ライユース師ほどの魔術師が、賢者の称号を得た天才が、眉間に皺を寄せて悩むわけはありません」
ため息を吐くマジェスハーツは師に及ばないのを嘆いているのだろう。
それを見て、ランザイアはひそやかに苦笑する。
賢者ライユースに同じことを聞いたら、違う言い方で同じことを言うのではないだろうかと思ったのだ。
「それよりもメフェメルスはどこにいるんだ? ここより儀式の様子がよく見える場所はないだろうに」
「それなら」
マジェスハーツは空をさした。
大木の上に建てられた秘密基地に立っている二人の頭上に十人ほどが座れるほどの広い円形の足場ができている。
光の凝ったような半透明の足場の上には布で髪をまとめ、必死の形相で筆をとるメフェメルスの姿があった。
「魔法で足場を作ってやったのか」
「物理攻撃を受け止める魔法障壁の呪文と空中浮遊の応用です。本当は飛翔の呪文も合わせたかったのですが時間がなくて、メフェメルスには悪いことをしました」
「あれだけの特等席があれば文句なんてないさ」
ランザイアは魔法にはそれほど詳しくはないが、魔術を重ねて掛けるのではなく、複合させ新しい効果を出すというのが桁外れなことはわかる。
「しかし、メフェメルスらしいというか何というか何枚同時に仕上げるつもりだ?」
宮廷技芸の教師であるエオホユーズに創作家としての才を見初められたメフェメルスは画板を使った芸術家としてその名を馳せている。
メフェメルスの多才ぶりは宮廷技芸の奥深さを完全に体現しており、宮廷式の肖像画から紋章のデザインまであらゆる創作活動に余念がない。
問題があるとすれば作詞作曲の才能と反比例して、実際に楽器と歌が驚くほどに下手だということだ。
そしてそのことは彼の代名詞になるほどに人口に膾炙している。
ちなみに人々の間で「メフェメルスに楽器を与え、歌をねだってはいけない」と名付けられた歌は実はメフェメルスの作品だ。
自身の欠点さえも作品にしてしまうところがメフェメルスらしい。
「リザレールは今頃大変だろうな」
創作に熱中するメフェメルスから視線を外し、ランザイアは笑う。
「まあ、彼なら大丈夫でしょう。もっとも後で小言を言われるでしょうけれど」
リザレールはユージェフより一つ年下の弟である。
兄であるユージェフを心から尊敬しており、ユージェフのためなら泥をかぶることもいとわない政略の達人だ。
彼らはこの晴れがましいユージェフの舞台を成功させるために、それぞれが死力を尽くしている。
「あとでユージェフと特別に時間を取ってやれば機嫌もなおるさ」
もちろんそのときは他の兄弟たちは遠慮する。
最初に儀式成功の祝いの言葉をかける栄誉を得られれば、リザレールはそれまでの不機嫌など忘れてしまうだろう。
「そう考えると単純ですね。私たちは」
「それはそうだ」
ランザイアとマジェスハーツは顔を見合わせて、肩をすくめる。
儀式は粛々と進行していく。
今年、十六になるリザレールは年齢と比べると大人びた容姿をしている。
そうと言われなければユージェフより年上に見えるし、その心身顔容の逞しさは四つ年上のマジェスハーツの兄としても通用するほどだ。
そのいかつい顔が彼より十も二十も年上の大人たちを迎えている。
彼らは儀式に参加している当主の父であり、兄弟であり、あるいは祖父であった。
誰もが領地を持つ大貴族であり、つまるところこの儀式への疑問と不満を持ってやってきたのである。
こういうことになるだろうとリザレールにはわかっていた。
ランザイアとマジェスハーツも、もちろんユージェフも理解しているに違いない。
だがそれを完璧に処理できるのはリザレールだけだったので、こういう形になっている。
(ユージェフ兄さんの雄姿見たかったな)
いかつい顔の下でリザレールはそんなことを考えている。
それは大陸一高名で一生に一度しか聞く機会がない贔屓の楽士の訪れを迎えるときの浮き立つような、身の引き締まるような思いに似ている。
いやもっと柔らかい心地よさだ。
だがリザレールにそれを見ることは許されなかった。
柔弱なる王と呼ばれる父王には貴族の不満を抑えるような仕事はできない。
貴族の不満が儀式の邪魔という形、つまりは彼の敬愛するユージェフの仕切りを妨害し、ストレスをかけるという形式で行われることに気づきもしないだろう。
儀式は進むが、ところどころできしむ音が聞こえ、ユージェフが実力才能をのびのびと発揮する機会が奪われる。
儀式を行う者は心労を覚え、しかし儀式としては成立していく。
そう言ういびつで陰湿な罠が仕掛けられるのだ。
それを防ぐためにリザレールは貴族たちの不満をあおり、自らのもとへと呼び寄せた。
儀式の間を利用して、秘密の会合を行うというのはいかにも貴族好みであり、魅惑的なものだ。
大貴族の隠れ家の館に集まった貴族たちは腹に一物抱えながらも、互いに発言をけん制するので、実に面倒だとリザレールは思うがこの一分一秒がユージェフのためになると思えば我慢もできる。
もちろん発言が出るごとにどう対応するかは十分に準備している。
ちなみにリザレールはこの後に大貴族ではないが領地を持つ貴族たちとの会合と領地を持たない下級貴族の不満を聞く席にも参加することになっている。
もちろん大会合の隙間をぬって有力貴族たち、不満の強い貴族たち、あるいは現王に協力的な貴族たちとの秘密会合をセッティングしている。
政略とは縦横に張り巡らせた糸を強化するために斜めにも糸を通すようなものであり、それぞれのバランスをとるための労は言語に絶するものだ。
それぞれの利益を言い、不足を自覚させ、自縄自縛の状態の相手を自らの意図で縛り支配する。
リザレールはそういうことをやっている。
儀式が行われる王都から離れた位置で会合を開くのは不満貴族たちを人質に取る意味もある。
ここで下手に儀式に介入すればこの会合に出席した彼らの訴えに不信を示し、排除する準備もある。
そもそもこうして王都を離れた位置で会合が開けるのも、王が王子たちの王位継承順位を決めていないために席次を争う王子たちは儀式に出席できないという状況を最大限に利用してのことだ。
普段は王宮を離れられない王子リザレールが、王宮を離れられる唯一の機会に貴族たちと結ぼうとしているという形は、貴族たちにとっては逃してはならない機会に見える。
リザレールが一人でこの会合に出ているというところにも、この会合がいかに重要なものであるかという意味を含ませている。
他に知る者はいないということが有利であることは多いのだ。
(実はラルラハンも見ていると知ったらどうなるだろうな)
ラルラハンはリザレールと同い年の王子である。
こちらは優し気な顔立ちに肩のあたりで短く切りそろえられた髪がよく似合う美男子である。
白を基調にした神官衣をまとう姿に嬌声をあげる女官たちも多い。
リザレールがユージェフを敬愛しているように、ラルラハンはランザイアに憧れている。
憧れているが性質は正反対で、その言動は兄王子で言えばマジェスハーツに似ている。
もっとも物静かではあるが、そこにいるだけで人を敬虔な気持ちにさせ、背筋を正させる資質は人の心を打つという意味でランザイア寄りかもしれない。
ランザイアの動的魅力に対する静的魅力がラルラハンにはある。
だがその資質が目覚めるまでの間、彼をかばって可愛がってきたのはユージェフであり、この兄に対しては負い目にも似た恩義を感じている。
ユージェフの前に出ると百人の司祭と神学論争をしても勝利する威厳と自信は鳴りを潜め、ただの大人しい弟になってしまう。
それが嫌というわけではないが、克服すべきことだと考えているらしく、同年生まれのリザレールは良く愚痴を聞かされる。
ちなみに今回ついてきてもらったのは貴族たちの論争に国教の定めや他の神の教えに抵触する部分がないかを見極めてもらうためだ。
政略家のリザレールはほとんどすべての抵抗力を持つ貴族が集うこの機会にあらゆる神の教えの基礎を修めているラルラハンに貴族たちの中に邪教徒がいないかをも確かめてもらおうとしている。
こういう機会は二度あるとは思えない。
ラルラハンの方は神ならざる己が信仰を試すようなことをすることにやや難色を示したものの、信仰を見極めることも神官の仕事だというリザレールの言葉に納得してこの嫌な仕事を引き受けてくれた。
神学教義に詳しいだけにそれに縛られる愚をよくわかっているのだろう。
今、ラルラハンは貴族の隠れ家の館の中に緊急移動のための聖地を構築する作業をしている。
先ほどまでの貴族たちの行動を見て、心配はないと断定したからだ。
聖地と聖地を繋ぎ移動するのは高位の奇跡であり、使える者はおろかその存在を知る者もほとんどいない。
何かあった場合には避難路になり、また進入路にもなる。
ある種の汚れ仕事であるが、それが信者を救うことをラルラハンは良く知っていた。
「神官様、お話を聞かせてください」
そう声をかけてきたのはシルークである。
今年十八になる兄王子である。
彼は二人の護衛としてこの場にやってきている。
剣術の腕では兄王子ランザイアに遠く及ばないが、護衛や補給任務に関しては群を抜いた冴えを見せる。
戦場ではその土地の者の案内の是非が勝敗を決める。
また道を一本違えただけで生死が分かれるときもある。
そういう見極めについてこの兄王子の存在は頼もしい。
専門は地理学であり、大陸行路を自らの足で旅をし、確かめた豪の者でもある。
そのくせ体格に優れているわけでも、存在に迫力があるわけでもない。
特徴がないのが特徴という王子だ。
もっとも兄弟の中ではそれがシルークの生存術だと言うことはよく知られている。
大陸行路を制覇した彼はどんな人格をも演じられる密偵の能力を有しているのだ。
ただしその能力の底を見た者はいない。
シルーク自身も見せたくはないと公言している底は兄弟王子の予想している通り深く暗くて冷たいものなのだろう。
「では参りましょうか」
ラルラハンはごく自然に答えた。
そうさせるだけの演技力がシルークにあるのでどこから見ても無理はない。
こうしてリザレール、ラルラハン、シルークの三王子は儀式の間中、貴族たちの館を巡ることになった。
ユージェフの援護のための訪問はすでに王国防衛のための重要な政略としての色が強くなっている。
「ユージェフ一人だけを儀式に参加させるか。父上の考えはわかったが、これではユージェフは納得しないだろうな」
今年で十九になる兄王子ナイサールは深々とため息をついた。
次の王はユージェフである。
どんな理由付けであれ、兄弟王子の中で一人だけを重臣を任命する大命降下の儀式に参加させるというのはそういうことだ。
父王が人並みにしたたかであったのか。
それとも側近の進言だろうか?
だがそれはもっとも危険な選択だった。
「血筋的にも、名目的にも正妻である王妃の子であるユージェフが王位を継承するのは順当だ。順当だが父上は兄弟の仲の良さを見誤っている。兄王子も弟王子もそうだ」
おそらく誰もがこう思っているだろう。
誰が王位を継いでも問題ないと。
それほどに彼らは仲が良い。
だがそれはユージェフが王位を継ぐであろうという常識を皆が共有しているからだ。
そしてそれは正しかったわけだが、ここに問題が生じる。
ユージェフだけは自身が王位を継承することを良しとしないのである。
ユージェフは自身の立場や役割をよくわかっている。
よくわかっているがそれを果たすには優しすぎた。
いや儀礼の極みにいるユージェフには王は務まらないのだ。
儀礼とは円滑な人間関係、国家関係を築く心情と技法である。
ただ儀礼に通じているだけなら何とかなっただろうが、その極みともなるとそうはいかない。
すべての人間と良好な関係を持ち、すべての国と良好な国交を持つというのは良策ではない。
大陸には戦いたい国が溢れており、それを外交で調停し続けるにはアルターブ王国には力が足りない。
いやユージェフが生きている間はそれは可能かもしれないが、次の代にそれを繋ぐことは不可能だ。
極めるとはそういうことなのだ。
「完全平和主義か」
ナイサアールはユージェフが作るであろう国家間の枠組みを口にし、剣を抜いた。
それに従い、十二人の彼の護衛騎士が剣を抜く。
ほとんど音のしない抜剣は鞘がそのように作られているからだ。
そして彼らがまとう鎧もまた。
ナイサアールが剣を振り下ろし、彼らは大命降下の儀式が行われている会場にランザイアとマジェスハーツ、メフェメルスが見ている大木の逆側から突入した。
卓越した謀略の才をもつナイサアールには兄弟王子の動きなど手に取るようにわかっている。
そしてこの暴挙の結果についても。
ナイサアールたちの乱入に会場護衛の兵たちは反応しない。
ナイサアールが兵士を買収していたからだ。
そして会場の騎士たちはナイサアールの乱入に気づき、現王アーゼフ・レ・アルターブのもとへと集まっていく。
「ナイサアール兄さん」
儀式進行を指揮していたユージェフは驚きに目を見開いた。
そして自らの腰に手をやり、剣を持っていないことに気づく。
「兵士ぐらい呼べ」
ナイサアールは叱咤するように言ったが、ユージェフはそうはしなかった。
ただ「王子ナイサアールの謀反である!」と叫んだだけである。
その姿は後世まで伝えられるほどに凛々しく、美しい。
実際に兄王子であるメフェメルスの筆により、謀反するナイサアール王子とそれを叱咤するユージェフ王子という名画として後世に伝わっていき、それぞれの時代の画家たちの題材となった。
極められた所作と発声に、文官、貴族、騎士たちが状況を察知する。
だが今、もっとも守るべき存在は王だ。
「ユージェフ王子こちらへ」
大騎士団長となるガーシェンが声をかけ、騎士と兵の一部をさいて護衛に走らせるが、そのときにはナイサアールの剣がユージェフの心臓を貫いている。
「悪いな」
ナイサアールはしっかりと死相が出たユージェフの顔をその目に刻み付ける。
「ぼくの方こそ」
ユージェフがそう返したとき、凄まじい気合の声が会場に響き渡る。
「やはり」
「やっぱり」
「ナイサアールゥゥウ!」
神速の剣というのはこういうものをいうのであろう。
突如会場に飛び込んできたランザイアの剣はナイサアールの剣と一度も打ち合うことなく、その心臓を貫いた。
「兄さん、あとはお願い。ごめんね」
ユージェフはしっかりとそれを言葉にし、ナイサアールはその言葉を飲み込んだ。
謀略家とは誰からも信用される存在でなければならない。
生きている間は誰からも愛され安心を与え、死するときは誰からも憎まれ恐怖を覚えられなければいけないのだ。
ユージェフを悼むランザイアの涙声が竜が咆哮するように人々の心を引き裂く。
二十年後、覇王国と呼ばれるようになるアルターブ王国の道が定まった瞬間であった。