完全なる自然守護主義者

アルターブ王国の東には未開の森が広がっている。
もちろん人間にとって、王国人にとっての未開である。
森にすむ者たちは毅然として存在しており、彼らは動植物ではありえない。
その種族名をエルフと言った。
森の木々を揺らすこともなく、駆ける影があるひとつ、ふたつ、あるいはそれ以上かもしれない。
だがそれに気づくものはいない。
人であれ、獣であれ、木々の枝を渡るエルフの姿を捕らえることは容易ではない。
彼らは一様に新緑の葉の色をした緑衣をまとい、背中に小型の弓を背負い、腰には樫木の剣を差している。
長弓を携帯していないのは彼らがエルフ族の中でも特別な役割を持っていることを現している。
そう彼らは森を守る森林衛視なのだ。
この森が未開であり続けるのは彼らが境界を犯したものを発見し、処罰するためでもあるのだ。
皆若い青年に見える。
だがエルフとは不老長寿の種族であり、若い時間が人の百倍は長い。
不老にして不死なるエルフこそが人間が崇める神であるという説もあるほどに。
森林衛視の一人が立ち止まり、背中の短弓を外し、素早く矢をつがえて放つ。
矢は目標の眉間を貫く。
それだけだ。
禁を犯し森に入る者に容赦などしてはいられない。
こうしてエルフの森は守られている。
森林衛視こそが城壁を持たぬエルフ族にとっての盾なのだ。

「生まれた」
エルフ族の少女は女鹿の乳を奪い合う小鹿たちを見て、微笑んだ。
エルフ族は長命であり、鹿の寿命は短い。
少女の前に生まれた命は彼女が最初に見た命から五代目の命が生んだ命である。
「がんばったわね。エレーヌ」
エルフの少女はそっと、しかし慣れた様子で母となった女鹿の首を撫でた。
女鹿は心地よさそうに眼を細め、がっくりと首を落とす。
子を産むというのはそういうものだとエルフの少女は知っていた。
しばらくは会いに来ない方がいいことも。
エルフの少女は静かに首を垂れた女鹿のために準備しておいた新鮮な川の水と栄養価の高いクローバーやタンポポなどの植物を置いてもう一度、女鹿の首を撫でる。
毎日、来るというのは自然の法に反するがこれくらいならいいだろう。
彼女の友達だった鹿の子孫なのだから。
彼女がそう思い、その場を離れようとしたとき、聞き覚えのない音が複数こちらへと向かってくるのを感じた。
エルフの少女は身軽に木の枝を登り、身を隠す。
その瞬間、犬の吠え声があたりに響き渡った。

やってきたのは銀色の集団だった。
エルフの少女は知らなかったがそれはエルフ族にとっては忌むべき鉄のにおいであり、気配であった。
銀色に輝く集団は馬に乗っていた。
騎士であった。
その周囲には長い柄の棒のようなものを持つ暗い色をした者たちが付き従っている。
兵士である。
この場合は獲物を追いたてる勢子の役割を果たす者たちである。
犬を放ち、獲物を追いたてるという形式は狩りと呼ばれる貴族の遊びである。
もちろんその楽しみの中には戦いでの技術を磨くための要素が詰まっている。
兎であれ、狐であれ、鹿であれ、獣の動きを読み、弓矢で射るというのは案外難しい。
馬上でそれを行うとなればなおさらだ。
そもそも馬で森林道を踏破すること自体が訓練となっている。
エルフの少女はここが狩場として適切なのかを考える。
エルフ族と言えど誰もが自らの森の境界がどこなのかを熟知しているわけではないのだ。
「森林衛視に知らせないと」
エルフの少女にできること、エルフの少女がやらなければならないことはそれだけだ。
こうして彼女は一生の後悔を背負うことになる。

彼女がエルフの森林衛視を連れて、戻ってきたとき騎士たちはいなかった。
残っていたのは五匹の小鹿とその母の死体だけだった。
無残な殺され方と言えた。
それぞれに複数の矢が突き立っている。
狩りのための狩りとでもいうのだろうか?
ただ命を奪うためだけに行われた蛮行がそこにはあった。
「ここはエルフの森なのに」
エルフの少女の漏らした言葉に森林衛視隊のエルフは考え込み、地面を舐めるように調べ上げる。
「争った跡があるようだが」
「あいつらは馬に乗っていたんだから草が踏み荒らされているのは当たり前よ!」
「馬か。しかし」
森林衛視の青年は他の者たちにも頼み、さらにその場を慎重に調べる。
そして十人いる森林衛視隊の誰もが首をかしげる。
「どう考えても人と人が争ったようにしか見えないが」
残っているのは蹄跡なのだ。
獣に襲われて森に入ってきたとすれば自然だが、少女の言葉によればこの一団は狩りのためにやってきた騎士の一行だ。
そして足跡は蹄の跡だ。
馬の蹄の跡はエルフの里では全く見ることのできない物だ。
森に住むエルフは馬を必要としない。
だから彼らにも判断がつきかねている。
彼ら森林衛視は外からの侵入者を罰するために存在するのであり、外の世界とのつながるための存在ではない。
決して人間世界に精通しているわけではない。
だがエルフの森に住む鹿の母子が人の矢の餌食になったことは間違いのない事実だ。
報復するために森を出るつもりはないが、今度同じ連中が現れたのならば必ず罰を与える。
それが彼らの使命だ。
「どうしてあいつらを追いかけないの?」
エルフの少女は涙を流しながら、森林衛視隊のエルフに訴えた。
こんな非道をした連中には同じ罰を与えるべきだと。
少女の訴えは正当である。
だが純度が高すぎる思いは闘争だけを生む。
それでは人間と争うダークエルフと変わらない。
森の木一本を贖わせるために、致死毒と鉄の刃を用いる邪悪なエルフと。
「どうして」
「ことは重大だ。長老たちの意見を聞くべきだ」
森林衛視の青年は静かに言った。
それは今回のことについてすぐに対処するつもりはないという宣言だった。

エルフの少女がその人間と出会ったのはひどく寒い日のことだった。
ひどく寒いのに人間は火も起こさずに白く色づいた岩の上に座っていた。
岩を白く染めている雪のせいで、エルフの少女は視界を確保するために腕で顔を覆わなければならないほどに吹雪いているのに。
「ここはエルフの森かな」
雪と同じ色のフードとひとつながりのローブをまとった男はエルフの少女の気配を感じて目を開く。
どうやら瞑想していたようだ。
「焚火をたかなくて寒くないの?」
「エルフに森の木の枝を切るようなものはいないだろう。私はそれに倣っているだけだ。私も自然の守護者でありたいと思っているからね」
エルフの少女の言葉に男は微笑した。
だがエルフの少女は小さく首をかしげる。
エルフの森の木を外界の人間が切るのは許されないが、集落のものが暖を取るために木を切ることを禁止してはいない。
魔法の力を使ったり、地下の暖流を探し当てて、寒さを退けられるエルフは実のところ多くはない。
エルフは優れた魔法使いではあるが、優れた魔法使いになるためには長い時間がかかるし、森の自然を完全に利用できるような知識を得るにも長い時間がかかる。
そして長い寿命を持つエルフは技術の継承に関して、教える方も教わる方も
急ぐことをしない。
無益な伐採は否定されるが、成長途上のエルフのために様々な特例があるのだ。
もっとも特例はめったに起こることではない。
今のように突然の吹雪が森を襲うようなことがなければこの少女もそれに思い至ることはなかっただろう。
「どうかしたのかね?」
「ううん」
エルフの少女は首を振るとその人間に一つお節介をした。
すなわち凍えそうになったら火を使うことも認められていると教えたのである。
それを聞いた人間は不思議な声色でこう言った。
「それは自然守護の道に反するな」

ちろちろと舞う風の中にエルフの少女は赤い蜥蜴を呼び出した。
寒くなると声をかけてくる不思議な存在で、その声に応えるとこうして姿を現して、少女の体を温めてくれる。
「まさか精霊術。火蜥蜴サラマンダーなのか。それに」
火蜥蜴の炎を雪から守っているのは風乙女シルフだろう。
「エルフが精霊を使うとは」
神の系譜であり、その正統なる後継者であるはずのエルフにとって精霊術は禁忌の術と言える。
エルフは自然を犯さぬ正しき魔法のみを継承する種族であるはずだから、自然を乱し、従える力を良しとはしない。
彼ら自然守護主義者ドルイドがエルフと道をたがえるのはそのためだ。
ドルイドは精霊術を使い、自然の力を捻じ曲げるとして、エルフに嫌われている。
火霊であれ、風霊であれ、地霊であれ、水霊であれ、自然の流れを個人的な利益に使うことを神の意志に反する行為と思われているのだ。
ドルイドたちにとってそれは自然を真に友としている証に他ならず、神の力を使おうとすることこそが禁忌に思えるのだが、それが争いの種になることを彼は知っていた。
だから彼は別の道を選んだ。
精霊術に拘らず、魔法をも禁忌としない道を。
「それを他の同胞たちに見せたことはあるかな?」
「ううん。みんなといるときは声をかけてこないから」
その答えに彼はほっと息を吐く。
エルフの森にいる精霊たちはこの少女のことをよほど大切に思っているらしい。
しかしそれはこの少女がエルフとして異端であることを示していた。
このまま育てばこの優れた精霊使いの才能を持つ少女は声に左右されずに、友を呼び出すことができるだろう。
そしてそのときこの少女は同胞たちから排除されることになる。
「私のように」
彼がエルフの森へと迷い込んだのはドルイドの集落から追い出されたからである。
精霊術を愛し、魔術を嫌う自然守護主義者の中で魔術の才にあふれた彼は異端であった。
「どうしたの? 寒い?」
エルフの少女は彼の顔を覗き込み、そう言った。
彼はエルフの少女に精霊術について説明し、それを使わないようにと諭した。
同胞とともに生きたいのならそうするべきだ。
力を得ることで失うものもあるのだ。
「この子たちは何も悪いことをしないのに?」
「集落には掟があるだろう。その中で精霊を使うことは悪いと決まっているんだよ」
純粋な疑問をぶつけられて、思わず返した言葉には棘があった。
それは彼が忘れようとしている理不尽への怒りだ。
「そんなのわかんないよ!」
エルフの少女の反応は直接的だった。
それは彼の怒りの炎の姿でもある。
エルフの少女は吹雪の中を駆けていく。
「何をするつもりだろう」とは思わなかった。
ただしエルフの少女の背中を追うことはできなかった。
なぜならその背中こそが彼自身の怒りの形だったから。

「後悔は拭うものだ」
エルフの少女が去るのを見送ったドルイドは自らに問いかけ、答えを得た。
同じだからこそ、救うことができるかもしれない。
かつて彼ができなかったことを、今やるべきだった。
彼は吹雪の中を裸足で走り出した。
自然守護主義者であるドルイドは靴を履かず、道具も使わない。
自然の守護者を任じる彼らは自然から収奪しないのだ。
焚火の炎は火の精霊であり、家は自然の洞穴である。
彼らのほとんどは菜食主義者でもある。
もっとも彼らはエルフ族のように自然の恵みを自在に得ることはできず、また肉食を禁じているわけでもない。
猛々しき獣が、優しき獣を狩るように必要とあらば、食べて生きるためであればそれは自然な行為とされる。
衣服についても贅沢は許されないが防寒や防暑のために着ることは許されてる。
強靭な肉体であれ、人は自然の猛威の前に裸で挑めるようにはできていないからだ。
このようにドルイドは自然守護を自身の生存とのバランスを取りながら達成しようと努力することを惜しまない集団なのだ。
それだけにエルフ族のように魔法を使い樹木の家を作るような行為には激しい嫌悪感を抱く。
同じような主義を掲げながらエルフ族とドルイド集団が対立に近い関係にあるのは近親憎悪では決してなく、その生活制限の違いだ。
自然を支配できるものとそうでないものの自然守護に対する考え方の違いであり、体質や能力の違いこそが対立を深めている。
不老長寿の者が持つ命と時間の価値と老化し百年を生きることも難しい者が持つ命と時間の価値が違うのは当然だ。
違う生物が同じ感覚を持つことは難しい。
互いに言葉を持つがゆえに誤解の余地がないというところも争いの原因であろう。
それぞれが孤立し、集落にこもっているために他の考えを咀嚼する思考的な寛容さを持つ機会が少ないことがそれに拍車をかけている。
だからエルフ族も、ドルイドも結局は人に追われ、住み家を失うことになる。
ドルイドの青年は吹雪の中を走りながら、そんなことを考える。
ずっと考えてきたことだ。
集落を追い出されたあの日から、ずっと。

人は森を駆ける速度ではエルフには決して敵わない。
吹雪いている森となればなおさらだ。
「仕方がない」
ドルイドの青年はローブの下から短い杖を取り出した。
彼が自身の手で作り出した「魔術師の杖」である。
神と見まがう魔力を有するエルフ族と違い、魔力の低い人間はこの杖なくして魔法を使うことはできない。
青年は吹雪の中、目を閉じると朗々と不可思議な言葉を紡ぎ始める。
魔力を紡ぎ、魔法へと変換する技術である魔術行為である。
人の魔力はエルフ族に遠く及ばないが、それを使うための技術体系でははるかに勝る。
それが人独自の生物的優位性なのか、短き寿命のあがきが生み出した奇跡なのかはわらかない。
ただ意識を凝らし、呪文を唱えれば、エルフ族のそれに近いことはできる。
才能があればエルフ族に勝ることさえ可能だ。
「風雪を遮る見えざる壁となれ!」
杖が輝き、青年の周囲を舞っていた雪がその音を消す。
魔法の障壁によって、風雪がドルイドの青年に届かなくなったのだ。
目前に張り付くように舞っていた雪から距離を取ったため、視界も開けてくる。
しかしドルイドの青年の、自然の中で生きることによって高い視力を持っている青年の視界の中にエルフの少女の姿はない。
視力を拡大する魔法もある。
だがドルイドの青年はそれを使うことを選択しなかった。
その魔法で見える範囲は広く、そこまで距離が離れていればどんなに速く走っても追いつくことはできない。
到底間に合わない。
ドルイドの青年が細い息を吐いたとき、前方に激しい炎の竜巻が吹きあがった。

集落に戻ったエルフの少女は訴えていた。
友達のやさしさを。
だがそれを見るエルフたちの目は冷たい。
いや嫌悪に満ちている。
「何と言うことを」
そう言葉を発したのは長老の一人だ。
神々の時代を生きたエルフにもっとも近い時代に生まれたエルフだ。
神々の時代が終わって初めて生まれたエルフとさえ言われている不老長寿の祖である。
「誇り高きエルフ族が自然の法を自らの手で破るとは」
静かな声には抑えがたい怒りと侮蔑がたゆたっている。
「この子たちは私の友達だよ! 悪くない!」
エルフの少女の言葉に長老は不思議なものを見る目をした。
「当たり前だ。邪悪なのは自然の法を自らの利益のために捻じ曲げたお前に決まっている。水を、風を、自然の法から切り離し、苦しめて何が楽しいのだ。何がうれしいのだ。私には、私たちには到底理解できない」
長老の言葉に広場に集まっていたエルフたちが頷いた。
「自然を捻じ曲げる法を行使して、世界を苦しめ、理解不能な弁解をする者よ。お前が何がしたいのだ? 善なる私たちを滅ぼすとでもいいたいのか?」
「違うよ」
エルフの少女は長老の言葉を否定した。
彼女は自然の法を捻じ曲げたわけではない。
声をかけてくれた友達に応えただけだ。
そしてその友達たちは彼女にとってかけがえのない存在なのだ。
だから認めて欲しかった。
自分の友達を。
「長老が嫌いでも私はこの子たちが好き」
ずっと友達と一緒にいることを。
「自然の法に反する道を行くと言うことか。それは邪悪なるダークエルフと同じ道を行くと言うことだ」
そんなわけはなかった。
エルフの少女は鉄の刃を持つつもりも、致死毒を使うつもりもない。
そんなことを少しも考えていない。
「違う!」
エルフの少女は否定した。
だが長老にとっては彼女の傍にいる火蜥蜴と風乙女こそが、邪悪なる道へのみちしるべに他ならない。
「この集落が生まれて初めてのことだ。自然の法を捻じ曲げることを承認する言葉を吐く者が生まれたのは」
長老の口調は苦渋に満ちていたが、同時に激しい嫌悪にも彩られていた。
「バーク」
語源はわからない。
だがそれはエルフ族にとってもっとも侮蔑的な言葉だ。
その一言によって生死が問われるほどに。
エルフの少女は自身の口がその言葉を吐いたことに気づいていた。
気づきながら自らの口を抑えることも、慌てることもなかった。
彼女を見ている長老の顔が、エルフたちの顔が本当に汚らわしく、不快であり、その言葉こそがふさわしいと信じたから。
彼女はこの言葉以外に彼らを評する言葉がないように思えた。
エルフたちの顔が一斉に朱に染まった。
神々の使いとまで言われる長命種である長老さえ、顔色を変えた。
「この者に罰を!」
激しい感情の渦が向かってくるのがエルフの少女にはわかった。
感情も自然の法に従うものであるがゆえに精霊術に触れたエルフの少女にはその形さえ見える気がする。
それはまさにおぞましいとしか言いようのないものだ。
エルフの少女の頭に、人間の矢によって無益に殺された友達の姿が浮かんだ。
母鹿に抱かれる五匹の小鹿たちはこんな感情に殺されたのかもしれない。
天に向かい指を突き出したエルフを長老は止めなかった。
そういうことだ。
あの人間の言った事は正しかった。
異端である自分は黙って集落を去るべきだったのだ。
永遠に友達を失うことを受け入れることができないのならば。
天へと指を突き上げたエルフは鋭く呪文を唱えた。
人のそれとは違うエルフの魔法だ。
指先に電光がきらめき、エルフの少女へ向かって突き出される。
命を奪う禁忌の魔法だ。
エルフの森を犯したものを罰する魔法だ。
しかしその電光はエルフの少女に届く前に消滅する。
風乙女が両腕を一杯に広げて、電光の前に立ちふさがったからだ。
エルフたちの間から怒りの声が上がる。
それの怒りは風乙女にではなく、風乙女を盾にしたエルフの少女に向けられたものだ。
風乙女の消滅に、エルフの少女は涙を流していた。
悲しみ以上に怒りが彼女の心を震わせて流させた血の涙だ。
エルフの少女は友達を殺したエルフを睨みつけた。
友達を苦しめ殺した相手に、同じ苦しみを与えなければならない。
彼女の初めての友達が無残無益に殺されたとき、彼らエルフは何もしてはくれなかった。
彼女自身も何もできなかった。
友達の痛みを知らしめるのに他人の手を借りることしか考えられなかった幼い自分はみずから矢を射ることをしなかった。
だから。
赤い涙を流す、空色の目が一瞬虹色に変化した。
瞬間、指を突き出していたエルフが火柱と化した。
赤熱の揺らぎの中に巻き込まれたエルフは恐怖に慄く間もなく消滅した。
「同胞殺し!」
「違う!」
エルフの少女は叫んだ。
だがそれは自身の罪に慄いてのことではない。
友達を殺すような連中と同じではいたくないという強い意志が生み出した純粋な叫びだ。
もはや彼女には同胞はいない。

風をまとった火柱は恐るべき力でエルフの集落を守る結界をも焼き尽くしたようだった。
そうでなければエルフ族ではない自分がこの集落に足を踏み入れることはできなかっただろう。
天を焦がそうかという火柱の正体は火蜥蜴サラマンダーに見えた。
ただし至極巨大で恐ろしくも見える。
おそらくは風だろう。
ドルイドの青年が学んだ元素魔術エレメントマジックと呼ばれる技術体系の応用にこうある「風は火を極大化する」と。
元素魔術は微細なものを対象としている魔法体系で、その中で地水火風の精霊の関係にも言及がなされている。
もちろん精霊術で呼び出される精霊がそれに準ずるのかはわからない。
だがあのエルフの少女の傍にいたのが、火蜥蜴と風乙女であったことを考えるとそれが正しいように思える。
集落に踏み込むとエルフたちが恐れおののいていた。
火勢は激しく、まるで巨大な炎の竜巻が集落を飲み込もうとしているようだった。
中心にある巨大な炎の竜巻の周囲にいくつもの火柱が出現し、エルフ族を松明へと変えていく。
炎の竜巻と同化している火蜥蜴は風の翼を得て、火竜のごとき姿となっている。
ただし風に散らされながら拡大したその身をよじる姿に火竜の凶悪さと恐ろしさはない。
「まるで苦痛に耐えながら子鹿を守る母鹿のような」
慈愛に満ちた猛々しさだけが感じられる。
風に散り舞う翼持つ火蜥蜴とほんの一瞬、目が合った。
その視線は炎の竜巻の中心を差し、再びそれる。
「そういうことか」
青年は炎の竜巻の発生源に小さな人影を見つけた。
それは吹雪の中でわかれたエルフの少女ではなかった。
だがその姿はあの少女そのものだ。
巨大な火蜥蜴の首が天を指し、いななくように震えた。
精霊の声を聴くことができない青年にもその声の意味が理解できたような、いや彼以外には理解できないような気がした。
後悔を拭うには遅すぎたのだ。
そうしている間にも火柱は生まれ、エルフは消えていく。
破れた結界のせいで常若の集落に、白い雪が降り注ぎつつある。
火蜥蜴の幻影が再び、震える。
それを見て、ドルイドの青年は決意した。
かつての後悔は拭われなかった。
ならば今、後悔を残さないようにするべきだろう。
いや、したい。
青年は魔術師の杖を掲げると朗々と呪文を唱える。
その声に長老たるエルフが驚きの声と罵りの声をあげる。
人間の魔術師が我らが若木を惑わした。
そんな内容だ。
そうかもしれなかった。
しかしそれを悔いている暇はない。
青年は呪文を完成させると空中でのたうっている火蜥蜴に目を合わせ、口を動かす。
「頼む」と。
火蜥蜴が頷いたような気がした。
そして魔術師たる青年はその杖を押し出し、炎の竜巻の表面に触れ、その扉なき扉を、炎の竜巻の壁を押し開けようとする。
退炎の魔法をもってしても退けられぬ炎は明らかに常軌を逸している。
青年はすさまじい圧力を感じながら、水弾の魔法を放ち、消炎、耐炎、耐衝撃の呪文をわが身に重ねる。
元素魔術の使い手である彼にはそれ以外の手段はなかった。
まだ若い彼には複合して暴走しつつある精霊の力を完全に打ち消すような実力はまだない。
呪文を見ればわかる通り、彼に襲い掛かったのは炎だけではなく、突風の起こす熱を帯びた衝撃や風の刃、さらには炎と風に混ざった崩壊した木の家の破片や巻き上げられた石礫までもが敵となった。
硬い樫木で作られ、長い儀式によって鍛えられた魔術師の杖が音を立てて折れる。
竜巻を起こす精霊術が高位に据えられている理由を青年は疑問視していたが、今、その身で理由を知った。
ほんの数十センチに満たない炎と風の壁を超えたとき、青年の意識は魔力の消費ではなく、肉体の損耗によって刈り取られそうになっていた。
それでも意識を保っていられたのは竜巻の中心で意識を失っているエルフの少女の肩をしっかりと抑える赤いかぎ爪が見えたからだ。
エルフの少女が口にした優しい友達が、彼女を守ろうと力を尽くしている。
ドルイドの青年はふらつきながらエルフの少女を抱きかかえるとそのまま大地へと引き倒し、その上にわが身を覆いかぶせる。
それ以上のことはできそうになかった。
そしてそれを確認した火蜥蜴の領分をはるかに超えた火蜥蜴ならざる炎の竜巻が四方に弾ける。
ドルイドの青年の意識はすでにない。

「炎が収まっていく」
エルフの一人が呆然と天を見上げた。
逆巻く炎の竜巻は、常春の空を貫き、砕いた邪法の力が永遠を失い揺らぎ消えていく。
銀色の風の冷たさにエルフは身震いした。
雪がその身に届くほど気温が下がっているのだ。
何が起こったのかはわからない。
だがエルフの集落の常春を奪い、数多くのエルフの命を奪った力を恐れる必要がなくなったことだけは確かだった。
自然の法を捻じ曲げる力の恐ろしさ、危険さを目の当たりにしたエルフは掟の正しさを再認識した。
森の侵入者に対して矢を贈るように、精霊術を使う者には死を贈らなければならない。
誰もがそう思った。
五十人いたエルフは長老を含め三十七人になっている。
「邪悪な人間が若木たる同胞をそそのかしたのだ」
何のために?
永遠の命を持つ我らを妬んでのことに違いない。
それに類する声は大きくなり、人間の魔術師へ罰を下すべきだとの声が続く。
人間の魔術師にそそのかされ、同胞を裏切り、世界を壊した裏切り者にも。
銀色の雪が激しくなり、炎の竜巻が完全に収まった。
激しい風で陥没した炎の竜巻の発生地に邪悪な人間の魔術師が倒れている。
エルフたちはためらいもなく、それに向かって魔法を放っていく。
罰とは死だ。
魔力の矢が、電撃が、水の槍が、炎以外の三十七の攻撃魔法が人間の魔術師を打つ。
高い魔力と修練を経た七長老の魔法をはじめてみる者は多かった。
人間の魔術師の体は砕け、裂け、そして命をとどめる力を失った。
正しい罰だ。
だが誰もが思っていた。
正しいが十分ではないと。

エルフの少女が息苦しさを覚えて意識を取り戻したとき、その体の上には温かいものが覆いかぶさっていた。
「気が付いたようだね」
エルフ族の優れた聴覚でもほとんど聞き取れない弱々しい声でささやかれ、エルフの少女はそれがドルイドの青年であることに気づく。
麻痺していた心に、感情がよみがえってくる。
激しい感情が収まっていくのかもしれない。
「わたし、あいつらは」
それでも強い感情に言葉が遮られる。
青年は苦しそうに微笑み、その体を固くした。
魔力の矢が、電撃が、水の槍が、あらゆる魔法が何度も叩きつけられているとはわからない。
だが青年の命の火が弱まっていくのははっきりと分かった。
エルフの少女は立ち上がろうと力を込める。
しかしそれ以上の力が彼女を地面に押さえつけた。
「君の友達は君に生きるように言っていたよ。私に頼むとも」
それがドルイドの青年の最後の言葉だった。
それっきり動かなくなった青年はもはや人間の形をしているとも言い難かった。
それほどに魔法を放ったエルフたちの怒りは激しく、容赦のないものだった。
ドルイドの青年の重さが増したような気がした。
しかし今度は立ち上がることができた。
彼女が立ち上がっただけで、ドルイドの青年の肉体はさらに人の形から遠いものとなった。
「悪魔だ」
立ち上がったエルフの少女を見て、誰かがそう言った。
かつて同胞だった敵が、魔法を放とうとしているのが見える。
エルフの少女は崩れた青年を見ていた。
輝く魔力の矢が放たれ――
こうしてエルフの少女の旅立ちの物語は終わる。
放たれた魔力の矢がエルフの少女に届くことはなかった。
精霊とは自然の法と繋がる存在であり、滅びることはない。
友達を傷つけようとした力を、友の体を借りて防いだ精霊たちは約束を守った。
ずっと一緒にいるという約束を。
エルフの少女の前に突き出されたのはかつてドルイドの集落を追い出され、火蜥蜴に少女のことを頼まれた青年の左手だった。
人の手ではあるが蜥蜴のかぎ爪を持ち、同時に魔術師の杖が張り付いている左手はもはや異形のものと言って良い。
その体は燃えた墨のように黒く、竜巻の翼を持っていた。
炎の髪を持ち、鹿の子たちが生やす機会を得られなかった生命力の象徴である二本の鹿角を額の辺りに生やしている。
それは奇しくもエルフの少女に投げかけられた「悪魔」という言葉を体現したかのような姿をしていた。

アルターブ王国の東に広がっていた森はこれから五年後に、エルフの名をはく奪される。
アルターブ王国新王ランザイアがエルフの森に巣くう妖魔魔獣退治の大号令をかけたからである。
そのときにエルフ族が抵抗したという記録はない。










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