卒業制作「楽日」
普通とはなんだろう。自分の確立とはなんだろう。
自分の中で「自分の価値」というものを定めるのは、とても難しいことだと思う。悲観にも傲慢にもならず、まっとうに自分を評価できる人間になれたらどれだけ素敵だろうか。自分が自分のことを好きならそれで良いのだと思えたら、どれだけ生きやすいだろうか。
価値観というものは簡単に覆せるものではない。自分にとって執筆とは持ちうる中の最大級の自己表現であり、自分の感情を言葉という型に落とし込めて飲み込む自己理解のためのツールのひとつだった。
だから、自分が自分を認められるように、最後の作品がこれでよかったと思えるように、自分の書きたいものを詰め込んだ短編集を執筆した。最後まで自分自身を理解するためにストーリーを考え、手を動かしたように思う。だからこそ、この作品が今の私という、四年間にわたって書き上げた大きく長い演目の楽日なのだと、そう信じている。
楽日
「ちくま文庫『とっておき名編集』編:北村薫、宮部みゆき」に収録された飯田茂美作「一文物語集」を参考に、一文物語を考案・執筆し、それをテーマに短編を執筆。
<玄関先の植木鉢から生えてきた右腕が、流暢な外国語で話している。>
雨の日、路地裏で小さな指を拾った。爪先から第一関節くらいまでしかない、小さな指だ。永遠と続く会社勤めと人間とのコミュニケーションで疲れ果て、真っ暗で冷たい部屋に一人で帰るのに嫌気がさした俺は、とりあえずその指先を拾って、お高くて肌触りの良いテッシュで包んでやった。ある日、引き出しの奥にしまい込んでいた、年末の帰省の時に母親から押し付けられた安いハンドクリームを塗ってやったところ、指はぴくりと小さく痙攣した。それからと言うもの、指はちょっとずつ動きを見せるようになった。撫でてやるとほんの少しだけ動くのが可愛らしくて、俺は家に帰るなりリビングに直行して指を撫でるという習慣ができた。たかが小さな指といえど、そいつのために暖房をつけて出かけることが増えたため、仕事終わりの部屋が冷たくないというだけで、俺の生活の質と光熱費はちょっとだけ上がった。
すくすく成長した指はすぐにどんどん成長し、第二関節が生えたあたりでポットに植えてやった。その数日後、ポットに植えた指からいつの間にか腕が生えたので、狭いと大層居心地悪かろうと思い、とりあえず玄関先の植木鉢に植え替えた。水をかけてやると喜んで、ぽきぽき鳴る手首をゆるやかに動かしていたが、次の日には息をするようにゆっくりと手のひらが閉じたり開いたりして、その次の日には堂々とピースサインが咲いていた。
「アーアー、ハーイ、エー、ヤー、ドブリー・デン、グーテンモルゲン、ズドラーストヴィチェ」
植え替えから一週間が経った今日、気持ちのいい朝日に目を細めてカーテンを開けてみたら、サムズアップした手首が何やら言葉を喋っていたのだ。何を言っているのかわからないが、流暢な外国語ということだけはわかった。
玄関先に出て、指の骨を撫でるように爪で引っ掻いてみたところ、驚いたように人差し指と中指をうにょうにょ動かしたので、面白くて続けることにした。つんつんつつくとその分だけオーバーなリアクションが返ってくるし、言葉がどんどん早口になっていく。その姿は、実家にいた犬になんだか似ている気がした。
「えーと、なんで外国語なの」
聞いてみたら、悩んでいるのかうにょうにょ動かして、地面を指さしたあとに人差し指と中指でバッテン印を作った。なるほどなるほど、つまり、日本産じゃないらしい。よく見たら指と手の甲に薄らと生えている毛は金色だし、なんだか肌の色もやけに白い。爪の形も、自分と比べてみたら少し角張っているけれど、まあこれは産地には関係ないだろう。
「いい天気だね、お日様気持ちいい?」
「ヤ!」
これは俺でもわかった。気持ちいいらしい。さんさんと降り注ぐ太陽の光をじゅうぶんに浴びて、嬉しそうにピースサインをしている。あー、よかったね、とまた指でくすぐるようにつっつけば、手首をぐるんぐるんと回して対抗してきた。顔のついた人間よりもやけに表情豊かだ。何を言っているのかは分からないけど、かなり簡単にコミュニケーションがとれる。外国産の腕だからちょっとフレンドリーなのかな、なんて思いながら、後でスーパーで硬水を買ってきてやろうと財布の在処を思い出した。
<一 確かに理想を押し付けた自覚はあったが、あなただって満更でもなかっただろう。>
振りかぶった手のひらが熱を持った。
言うことを聞かないこの子のことが嫌いだった。私が笑って欲しい時に笑って、泣いて欲しい時に泣いて、惨めに私の顔色を窺ってへりくだるこの子が好きだった。その時だけはこの子じゃない気がして、愛せる気がしていた。
この子は私に笑っていて欲しいから、いつも私の機嫌をとることに必死だった。その理想の押しつけが気持ち悪くて仕方なかった。浴びせられる信仰めいた感情は今年で三年目になる。隣の席になって顔を見るなり「好きだ」と言ってきたこの子の好意を、なんだか満更でもなくて、はっきり拒否できなかった私にも非があるのだろう。やたらと近い距離感とか変な独占欲とか、そういったものがちらつき出した時にはもう手遅れだった。
一度、大声で怒鳴ったことがある。気持ちが悪いからやめて、どうして私にそんなにひっついてくるの、と。すると彼女はあっけらかんとした顔で、「カヨちゃんさ、顔、綺麗でしょ。そういう子がさ、私のせいでツンてしたり、泣いたりしてるのがいいんだ」と答えた。
なんでもない、それ以外に理由はない、当たり前でしょ。そんなことでも言いたげな顔の彼女が心底不気味で気持ちが悪くて、思い切り頬を叩いたのだ。すると、私のしわくちゃになった眉間をちら、と見て、彼女は大袈裟な呻き声をあげて泣き出した。わかりやすいご機嫌取りだった、ここで泣けば私の気分が満たされるとわかっていたんだろう。彼女の考え通り、赤子のように泣き喚く彼女を見ていたら気分がわずかにすっとして、気分が良くなってそのまま思い切り蹴り飛ばした。彼女の露骨なご機嫌取りが目立つようになったのはそれからで、その時の彼女のことは心底愛せるようになった。私の顔色を窺って、私の思い通りに動いて、私の思い通りに喋る、可愛い可愛い惨めな子。
頬をさすった彼女の頭を思い切り筆箱で殴りつける。ペンやら消しゴムが開いた蓋から飛び出して地面にばらばらと散らばった。それでも気がすまなくて、飲みかけの水筒の中に入った水を頭の上からぶちまけると、ようやく彼女は顔を上げた。ぼさぼさの前髪から水滴がぽたりと制服に落ちて、薄く肌を透かしている。
もっともっと泣いて欲しいのに、もっと惨めでいて欲しいのに、彼女はびしょぬれのまま笑っていた。私が愛せるあの子になって欲しいのに、私の理想のあの子になってほしいのに、今日は機嫌が悪いのか、彼女は私が嫌いな彼女のままだった。
早くあの子に戻ってほしい。可哀想で情けなくて惨めで愚かでどうしようもなく可愛いあの子に、早く、早く、早く、早く、早く!
「いい加減にして、もっと嫌がってよどうして笑ってるの、気持ち悪い」
手の甲を爪先で蹴ると、また彼女が目を細めてこちらを見る。満更でもない、みたいな顔にまた腹が立って、思い切り拳を振り下ろした。
<二 確かに理想を押し付けた自覚はあったが、あなただって満更でもなかっただろう。>
ばちん、と音が響いて、次にきぃんと高く耳鳴りがした。しばらくその高い音に支配されていた私の耳は、ようやく目の前のカヨの荒い息を拾って、少しばかりじんと熱くなった。
「ほら、泣いて」
耳より後、ゆっくりじんわりと熱を持った頬が、十月のうすら冷えた廊下の空気に晒されて、ぴりぴりと痒みを訴える。カヨは私よりも低い背をうんと伸ばして、私の頬くらい赤くなった手のひらをもう一度振りかざした。
ああ、もっかい来る。
そう思って目を瞑った。けれど想定していた痛みは飛んでこなくて、おかしいなと思って目を開けた。途端、制服の胸ぐらが掴まれて引き寄せられる。猫背の私の背中が伸びて、少し上に引き上げられる。私がしゃんと背筋を伸ばしたらこの子の身長なんて簡単に越せてしまうのに、こうしてわざわざ掴まれたいが為に猫背でいるように気をつけている。きっと越しても同じようなことをしてくると思うけれど、カヨから引っぱられるのがなんだか求められているみたいで楽しいから。
「……気持ち悪い、なんで笑ってんの」
目の前の端正な顔が、嫌悪で歪んだのがわかった。
ああ、そっか。今回は笑っちゃ駄目だったか。
彼女の言葉に本当なんて何一つ含まれていない。泣いてと言われても笑った方が喜ぶ時もあるし、その逆だってある。その瞬間その瞬間で上手く見極められるかどうかが大事なんだ。
「……ごめんごめん、笑ってないよ。ほら、ほっぺが引き攣っちゃってそう見えるだけ、ね」
両手をだらんとスカートの脇にぶら下げたまま、眉を下げてアピールをする。ほら、これが君の好きな顔でしょ、と。今日はこの顔がよかったんでしょ、と。
私の僅かに滲んだ目尻を見て気が済んだのか、乱暴に胸ぐらを突き飛ばされた。勢いのまま床に倒れ込んで、垂れ下がる髪の毛の隙間から彼女の顔を見やる。ぼさぼさの黒い幕の向こうに見えたカヨは、眉をこれでもかってくらい寄せて眉間をしわくちゃにして、目尻をつんと吊り上げていた。私の大好きな、私の事が気持ち悪くて嫌いでたまらないって顔!
彼女は言うことを聞かない私のことが嫌いだ。いつでもどこでもへりくだって、彼女の機嫌を取る私のことが好きだ。顔色を伺って、笑って欲しい時に笑って、泣いて欲しい時に泣く私のことが好きなんだ。だからそう振る舞うように強要してくるし、従わないと殴ってくる。とんだ暴君だと思う。でも私は、彼女にずっとずっとそうであって欲しい。そうであってもらわなきゃ、嫌だ。
顔を一目見た時から、初めて殴られたあの日から、ずっとずっと、癇癪を起こす赤子みたいな彼女のことが可愛くて可愛くて仕方がないのだから。
彼女には、ずっとこうであって貰わなきゃ。私からの好意に胡座をかいて、私を操れてるような気になって、嫌いな癖に好きって言われるのも従われるのも満更じゃなくて、私にそんな理想を押し付けてくる、可哀想で情けなくて惨めで愚かでどうしようもなく可愛い彼女のままでいて貰わなきゃ。これが気持ちの悪い理想の押し付けだって、理解してる。自分でも歪な関係だと思う。でもあなただって、きっと満更でもないんでしょ。
恍惚で思わず震えて歪んだ私の口角を見て、彼女はもう一度手のひらを振りかざした。
<ずっと忘れないでいたいのに、早く忘れてしまいたい自分もいるのです。>
目が覚めると、空が白み始めていた。
一晩中抱えていた、形を変えたそれをもう一度抱き直して、ふとカーテンの隙間から窓の外を見やる。最近植えたばかりの庭先のチューリップが、春の朝の風に優しく揺すられていた。あれを植えた頃、私はまだいつかは訪れる今日のことを考えたことなんかなかった。違う、今日を恐れたことなんて、今までに数え切れないほどあった。気付かないふり、忘れたふり、平気なふりをして、夢にまで見たそれから目を背け続けて。近付く足音が大きくなる度、耳を塞いで視線を落として、今を踏みしめる足元だけを見ていた。でも結局逃れることなんて出来なくて、悲しみと恐怖が形を成したそれが、こうして私の腕に抱かれている。
開いた窓の隙間から滑り込んで瞳を撫でた春の風は、ぬるくて気持ちが悪かった。ずっと奥の奥の山に薄く伸びるようにかかった半透明の雲が、部屋に響く秒針の音よりもずっと遅く、風に乗せられて流れていく。乾燥した眼球に瞼が張り付く、癖のついた髪が頬を擽る、何度目かわからないそれを呼ぶ声が掠れた。
全ての命が等しく静まる冬を抜けて、暖かな芽吹きの春が訪れて、視界に映る全てが色付いていく。なのに、腕の中のそれだけが世界から置き去りにされて、開けない冬の中ひとりぼっちで記憶の雪に埋もれてしまう気がした。どうかひとりで凍えないで、私も冬に置いて行って。声に出さずに、ぎゅっと強く抱き締める。
腕から伝わる感覚は、どこまでも無機質だった。あんなに温かかったきみが真っ白で小さな陶器になった寂しさに、慣れる日がいつか来るのだろうか。きみが居ない違和感を感じなくなって、居ないのが当たり前になって、思い出す時間も段々と減っていく。無意識に名前を呼ぶことも、静まり返る夜のリビングにきみの声を探してしまうのも、いつかはただの記憶になってしまう。
それが何より恐ろしくて、そして何より待ち遠しかった。
<愛おしい人の頬を撫でて眠りにつき、目が覚めると、その人は巨大な陶器の塊になっていた。>
あれっ、と声が出た。寝る前までは確かに柔らかくて温かかったはずの肌が、硬くて冷たい陶器になって隣に横たわっているのに気がついた。
なんだっただろうか。眠りにつく前、大切な話をした気がするし、どうでも良い話をした気もする。思い出せない時点できっと大した話ではなかったのだと思うけれど、そうだと片付けてしまうのは惜しくて、なんとなくもやもやした気分のままベッドから立ち上がった。
とりあえず、ベッドの壁側半分を占拠する陶器の塊をどうにかしなければ二度寝もままならない。持ち上げられないかと抱えてみたけれど、屈んだ時点で腰と膝からぴきりと嫌な音がしたので断念した。どうしたものかとため息を吐いて、仕方が無いのでシーツで包んで引きずり下ろした。思った以上に勢いよく滑り落ちたそれはフローリングに強く叩きつけられて、シーツの中からくぐもった嫌な音が響く。恐る恐るそのまま床に滑り下ろしシーツを開いてみると、包んであった陶器には、体を横断するようにまっすぐ亀裂が入ってしまっていた。小さな破片は開いた穴からこぼれ落ちて、床にぱらぱらと音を立てて散らばった。ああ、中々見るに堪えない惨状になった。元二人暮しのワンルームに勢いよく散らばった破片は、カーテンの隙間から射し込む光を受けて、きらきらと鋭利な角を光らせている。
どうしようかと襟足を指先で引っ掻いて、そうしてふと思い出した。昨日の夜、眠る前の会話の内容だ。
そうだ、私が彼の怠惰を叱ったんだった。本当に些細で、小さくて、ありふれた会話。麦茶を少しだけ残してまた冷蔵庫に戻さないで、最後に飲んだなら自分で作って。靴下、また裏返しで洗濯機に入れたでしょう、これを直すのは私なんだよ。どちらもに、はいはい、とまるで気の入っていない返事を返されて、小さく舌打ちをしてそれ以降の言葉を飲み込んだ。今更わざわざ叱るようなことでもない。彼はいつもそうだ。交際を初めて二年目、私たちの間に流れる生ぬるい空気を彼が慣れだという言葉も、私の妥協がその温度を保っているのだとわざわざ咎めるようなものでもない。
それでも、昨晩の私は彼に背中を向けて眠りについた。どれほど彼との関係を諦めて妥協を重ねても、腹が立つのは仕方が無い。
やっと思い出して、モヤモヤが晴れた。その代わり、ちょっとだけむかっ腹が立った。頭の隅っこの方がやけに澄み渡った気がして、この気持ちを誰かに共有したいけれどそれも出来なくて、とにかく腹ごしらえをする事にした。あの陶器の片付けは、きっと大層大変だろうから、とにかくエネルギーをしっかり補給しなきゃ。亀裂の入った彼を見ても、不思議と平気だった。ああ、やけに冷たくて固くなったなぁ、なんて思うくらいだった。
そう思って足を一歩踏み出して、ふと立ち止まる。振り返れば、真っ白になった彼がぐちゃぐちゃのシーツに包まれて、穏やかな眠り顔を晒していた。昨晩の私が噛み潰した苦味も素知らぬ顔で、自分だけで気持ちよさそうに眠っている。
さっきまではどうでもよかったその顔に、急に、心底腹が立った。
私は衝動のままに、握りしめた拳を彼に叩きつけた。顔、腕、腹、足、腰、首。私の好きな、私の好きだったものを、ただひたすらに拳で殴りつける。砕けた破片が指に突き刺さって、床に散らばってぱらぱらと音を立てた。それでも腹の奥から湧き出るまっくろな感情は止まらなくて、拳を振り下ろし続ける。
そうして、彼の面影すらわからなくなったころ、はた、と腕を止めた。目の前に広がっていたのは血の海でもぐちゃぐちゃの死体でもなんでもなく、ただのまっしろな破片たちだった。
私は一体何をしていたんだろう!
途端に自分がおぞましくて恐ろしい化け物に思えた。粉々にしてやろうなんて、考えたこともなかった。私はただ、彼の怠惰なところが少しだけ嫌いで、それで喧嘩した事だってなくて、昨日の小言だってそれで最後になればよかった、そうならないのは彼が悪いのに、本当に、本当にほんの少しだけだったのに、それなのに、それなのに、それなのに。
目の前の破片は何も言わなかった。思わず言い訳じみた言葉をかけようと、彼をかき集めようと伸ばした腕が、途端に指先からばきばきと大きな音を立てて割れ始めて、そうして破片になって彼の上に降り注ぐ。彼と同じまっしろな欠片になって、いつしか彼と私の違いなんてわからなくなってしまった。
<陶器のように滑らかな肌にヒビを入れる。>
ただ、薄暗い部屋の中に設置されたガラスケースの中で、約十五年ぼんやりと過ごした。十五年、と言うのは、正確な日数ではない。あなたは十五歳なのよ、と母は私にいつも言うが、きっとそうなのだろうと思っているだけで。本当に私がそんなに長い時間生きた証拠、というのは何も手元に無くて、いつも言われるその月日を信じることしか出来ないのだが、そんなことはこのガラスケースの内側ではどうでも良いから気にしないことにしている。
私の綺麗な体を気に入った人は多かった。母が己の健康よりも気にかけて作り上げたこの体は、時折誰か不快にすることはあれど、たくさんの人から美しいと誉めそやされた。私を見るためだけに遠くから訪れたのだと、私に会えるのはたくさん出資してくれた人だけなのだと、母が私にそう説明した相手には、伸ばしていた膝を曲げてやったり、首をかくんと傾けてやる。そうすると、その人は大いに喜んだ。私の母だって同じことが出来るのに、私だから意味があるらしかった。そうして、ほとんどの時間を私を愛する人の目に晒されて過ごした。
母もその一人で、私を見ると目尻と眉がきゅうと優しく下がる。母はよく私にあなたみたいに綺麗になりたかったの、と話して聞かせた。だからあなたを綺麗にすることにしたの、と。あなたは私の自信作だから、色んな人に見てもらいましょう、と。
母に愛してもらえるなら、この見た目でうまれてよかったなとも思ったけれど、この見た目になるように育てたのは母で。でも愛してくれていなかったら、こんな綺麗な姿になるように、なんてしなかったろうか。私は頭が悪いから、取り留めもないことを考え始めるとぐるぐると止まらない。母は私のことが好き、だから私も母が好き、今はこれでじゅうぶんじゃなかろうか。
消灯時間を過ぎて暫く経った頃、なんとなく気が向いたのでガラスケースを持ち上げてみることにした。きっかけが何だったかは、忘れた。ただ、母が私と同じことができるように、私も母と同じことが出来るんじゃないかと。私と母は同じなんじゃないかと思いついてしまった。
ガラスケースを持ち上げると、ケースはそのまま台の上から真っ逆さまに落ちていって、がしゃんと嫌な音を立てて砕けた。やけに派手な音の余韻が去った頃、また痛いほどの静寂が訪れる。もしかしたら母が来て怒られてしまうかもと思ったけれど、そんなことは無かった。
床に散らばった破片を避けるように、台から地面につま先をおろす。ひやりと冷たい感覚が足の裏から背中に走って、いつも霧がかっていた頭をずいぶんと冴えさせた。やたらと広い空間をかつん、かつん、と音を響かせながら、感覚を確かめるように歩いてみる。記憶の中にこうして歩いた記憶はてんで見つからないのに、不思議とぎこちなく歩けた。そうした先に、私よりも何倍も大きいガラスが飾られていて、思わず足が止まる。
ガラスだと思ったそれは、鏡だった。母がよく使っているそれと比べ物にならないほど大きな鏡の中で、まっしろな何かがこちらを見ていた。
じっと、私を物色するみたいに見つめるこれが、果たしてにんげんなのか、犬なのか猫なのか、それとも生き物ですら無いのか、自分にはてんでわからなかった。母はもっと別の色だった気がする、こんなに白かったっけ。母はもっとでこぼこしていた気がするけど、私はどこもかしこもつるつるだった。とにかく、何もわからないけれど、腕を上げたらそいつも母とおそろいの棒きれみたいな腕を上げて、ぴょんと飛んでみればそいつも飛び上がったので、これが自分なのだということだけは理解出来た。
くるり、と一回転してみる間のその一瞬で、私は私にすっかり虜になってしまった。皆が私のことを美しいと思う理由がわかった気がして、いつもみたいにぺたんと地面に座ってみた。そうしたら不思議なことに、全然魅力的に見えないのだ。さっき砕け散ったガラスの方がよっぽど綺麗だった。いつも皆が見ている姿はこの私であるはずなのに、どうしてだろう。
そのまましばらく足をぶらぶらと左右に揺らして、ふと、目の前に放り出された右の足の真ん中をぐっと掴んでみた。そのままいつもの母の真似をするみたいにちょっと力を込めて爪を立てたら、音も立てずに簡単にヒビが入って、筒みたいにからっぽの中にぱらぱらと破片が散らばった。ぱっと顔を上げて鏡を見てみたら、ひび割れた足を揺らす私と目が合った。さっきまで傷ひとつなかった体には、私が自分でつけた傷がしっかり残っている。さっきとポーズは何も変わらないのに、立ち上がってくるくる回っていた時よりもうんと綺麗に見えた。
母と皆はよく、私に美しいと言う。それがずっとなんとなく理解できなかったけれど、ようやくわかった。どんな形であっても、自分が手に掛けたものだから美しいと思うんだ。その証明に、さっきまでただのまっしろな、どこにでも落ちているような石だった私の体が、私が傷をつけたことで途端に私だけのものになって、そう理解した途端胸の辺りがゆっくりふるふると温まった。
鏡の中の私はにこにこと幸せそうに笑っている。その姿もなんだか素敵に見えて、それがうれしくて、それに自分で気付けたのがうれしくて、ぽっかり穴の開いた足のまま、鏡に背を向けて足を踏み出した。散らばった破片を、上からわざと踏みつけながら廊下を引き返す。さっきと変わらず真っ暗なはずなのに、やけに視界が開けて見えた。ひび割れた右の足を気にしながら、台の上に乗る。また音も立てずにまっしろな破片が散った。多分足の裏にも穴が空いてしまったろうか。でも、それもきっと綺麗なんだろう。きっと、綺麗だと褒めてくれるはずだ。
それから、膝を抱えて、母を待つことにした。あれほど綺麗にしてもらっていたのに、もっともっと綺麗になれてしまった。この姿を見たら、きっと母は喜んでくれるだろう。母が喜んだら、私も嬉しい。母が私をもっと好きになってくれるなら、私も母のことをもっと好きになれる。
そうしてもう一つ思いついた。きっかけが何か、だなんて、もう考えるのもやめにした。母の望みを叶える手伝いをしてあげたらいいんだ。母がもっと母自身のことを好きになれたら、それはきっと素敵な事だ。色も造りも違うけれど、でも確かにと母は同じなんだから、同じことが出来るんだから。私がこうしてもっと綺麗になれたのだから、母の望みだって、きっと、きっと!
早く母に会いたくて、膝をぎゅうと抱え直す。母が来たら、邪魔なガラスケースはもう無いのだから、早速母のことも綺麗にしてあげよう。そうして、手を取り合って二人であの鏡の前まで歩いて行って、お互い素敵だねって笑い合うんだ。
きっとそれは素敵な事だ。そんなことを思いながら、ぽっかり開いた穴の上でぷらぷら揺れる指先を、じっと見つめた。
<男は、思い通りにならない世界を終わらせてしまうことにした。>
深夜三時、静まり返ったアトリエの廊下は酷く冷えきっていて、冷たさが裸足の足を容赦なく突き刺してくる。思わず飛び上がりそうになるのをなんとかこらえて、真っ暗な廊下をひたすらに奥へと進んだ。そうして廊下のつきあたり、やたらと汚い乱雑な文字でミコト、とだけ書かれた札が下がった部屋の前で立ち止まる。木製の枠に小さなガラス窓が取り付けられただけの簡単な扉の奥、非常灯のぼんやりとした緑色の光を受けて、壁に立て掛けられた絵画は静かに佇んでいた。
扉には鍵がかかっていた。引いた途端、がたん、と扉が音を立てて、誰もいないとわかっているはずなのに背筋に悪寒が走る。慌てて周りを見渡しても、やはり誰もいなかった。
鍵がかかっているのもおおよそ察しがついていた。いつもギリギリまでだらけては作品の締切に追われている面倒臭がりの彼が、部屋のすぐ外に設置された個人ロッカーに鍵を放り込んでいるのも知っていた。案の定ロッカーにも鍵はかけられておらず、銀色の錆び付いた鍵を手にして扉を開けると、部屋に染み付いたアクリルの匂いがツンと鼻をつく。作業部屋だったはずのここは、いつの間にかすっかりミコトの個室になってしまった。申請しなければこの部屋は借りられない。あの面倒臭がりのミコトが、熱量なんてなにも持たずに嫌々筆を握っている彼が、わざわざ申請してまで借りたと聞いて、珍しくやる気があるじゃないかと見直したのも束の間、月末にはこの部屋で寝泊まりをして光熱費を浮かせているのだと聞いた時には肩を落とした。
部屋の隅っこ、彼にとっては大層大切にしているつもりなのだろう。床に敷かれた新聞紙の上に鎮座する私の腰ほどまである大きさの絵画は、彼が今日の提出の為にここ数日寝ずに仕上げたものだ。四年生への進級がかかった大切な作品で、この作品の評価次第で進めるコースが限られてくるのだと、そう先生は言っていた。進んだコースによって、その後の人生が大きく変わるのだ、とも。
寝ずに仕上げた作品の周りは綺麗に整頓されていた……綺麗と言っても、彼にしては、の話だ。いつもは足の踏み場もないほど占拠しているごちゃごちゃした絵の具やらパレットやらパンの包み紙やらは綺麗に部屋の隅に追いやられ、身をうんと小さく縮こまらせて肩身を寄せ合っていた。余程この作品が壊れてしまうのが怖くて、でも家に持ち帰る訳にもいかなくて、こうして彼なりに大事に部屋のいっとう綺麗な場所に眠らせたのだ。一晩なら大丈夫だろう、わざわざ学校の敷地の奥の方にある個人アトリエにまで足を運んで、しかもその奥の奥の自分の部屋に来る人なんて、万一居たとしたってそれは今晩じゃないだろう、と。
隅っこに押し込められた絵の具のチューブを持ち上げる。随分中身の減ったそれを持ち上げて、自分の掌に絵の具を思い切りぶちまける。指の隙間から垂れる絵の具も封じ込めるみたいに両の掌を重ね合わせ、離す。
目の前に広がるのは、キャンバスいっぱいの美しい色彩だ。右側から勢いよく放たれたように広がる煙のようなもやが、真っ白な背景の上でカラフルに彩られている。その色彩の中で無数の黒い魚影が群れをなして、川を上るように煙を掻き分けている。
まじまじと見て、感嘆の息を吐いた。この絵に、この色に、この魚影に、何の意味が込められているのだろう。解放か反逆か、それとも何かの決意だろうか。もしや来年からの新しい環境に向けての意気込みかもしれない。考えても考えてもいろんな思いが湧き上がって、自分なりの解釈すらも見つけられない。ああ、どれだけの価値があるだろう。価値をつけるのはなんだか無粋な気がする。そう、だから、この行動に意味があるんだ。そう自分に言い聞かせて、そうしてそのまま、真っ黒に染まった手を眼前に広がる鮮やかな色彩に伸ばした。
彼は、私の全てだ。同級生、友人、彼から私への評価は所詮その程度のものだろう。私だって、その程度で済ませられたらどれほど良かっただろうか。彼の怠惰も、いつかはどうにかなるだろうと高を括る傲慢も、出処の無い自信のなさも、何もかもが目障りで、それでいて私の視界にずっと存在していてほしかった。いつか手を伸ばせば先を歩く彼に届くと信じていたのに、そうではないと気付いてしまったから。
結局、私はミコトのことが羨ましかったのだ。努力が嫌いだと宣いながら私よりも随分と良い成績を出す彼のことを、いつも仕方がないなと世話を焼きながら内心下に見て、だから嫉妬した。私は彼の作品が心の底から好きだった、だから彼の作品にどう足掻いても勝てないことに燃えるほど嫉妬した。私は彼の隣にいたいのに、彼は私のことなんて見ちゃいないから、彼が見据えた誰かに嫉妬した。
どこまで走っても勝てないなら、彼にここまで落ちてきてもらうしかきっと方法はないのだ。努力はいつか報われるなんて、そんなのは勝手に報われた人が残した言葉だ。勝者が弱者をいたぶる為に使うための方便だ。
今日で、私の世界は滅亡する。隕石が落ちる訳じゃない、宇宙人が侵略しに来るわけでもない、火山が噴火する訳でもない。ただちっぽけな人間が一人、偉大な芸術家の瞳に一瞬、ほんの一瞬映るだけ。ただそれだけの為なら、こんなちっぽけな世界なんて、滅亡してしまったってどうでも良かった。
<あなたが一人でいる姿も、あなたが私でない誰かと共にいる姿も、想像するだけで恐ろしい。>
「ただいま帰りました。あれ、フウ。もう帰ってきていたんですか」
「おかえり。どこ出かけてたの?」
「中央町です。紅茶を買いたくて」
「え? 紅茶? 普段コーヒーしか飲まないのに、珍しいね」
「たまにはいいかなと思って。どうでしょう、一緒に」
「いいね、賛成! お菓子も出そうか」
「そう言うと思って、……ほら、あずま堂のクッキー、買ってきました。これお好きでしょう?」
「えー! 最高! 私のことよくわかってる!」
「そうでしょう。何せ六年の付き合いですから」
「もう六年になるんだ。早いねぇ」
「そう感じるのも、あなたの寿命が長いからでしょう。あなたよりうんと短いぶん、私には随分長く感じましたよ」
「そう? そうなのかな。わからないや」
「ええ、わからないままで結構です」
「...…あずま堂、混んでた?」
「いえ、平日でしたから、そこまで混んではいませんでしたね。茶葉もクッキーもあっさり買えました」
「そっか。それにしてもさ、ヤハルが紅茶なんて珍しいね。私が飲んでるところ見て、茶葉の違いがわからないって首傾げてたじゃん。コーヒー豆の違いはわかるのにって」
「テレビ番組で見たんですよ。ちょっと普段と違うことをすると、刺激になって関係が中弛みしないんだ、と。思い出にもなりますしね」
「え! 私たち、もしかして倦怠期ってこと?」
「ふふ、さて、どうでしょうね」
「それにしてもさぁ、法改定、されちゃったね。短命種はさぁ、子孫遺さないといけないからって同性婚できないんでしょ? 私たち……」
「別に、結婚が全てじゃないでしょう。誓いの言葉としるしはもう貰っています。何か問題でも?」
「たし、確かにそうだけどさ……」
「さ、紅茶の用意が出来ましたよ。ほら、手伝って」
「いい匂い! ヤハル、紅茶淹れるのも上手かったんだね。知らなかった」
「そうですか? あなたにしか見せたことがありませんから、上手なのかどうか。これから先も、他の誰かに見せるなんてことは無いでしょうし」
「紅茶好きの私が上手いって言ってるんだから上手いの! せっかくなら友達とかにもご馳走してあげたらいいのに」
「いえ。これで最後と決めています」
「ちぇ。やっぱりコーヒーの方が好きなんだ」
「小言は良いから、席にお着きなさい。折角淹れたのに冷めてしまう」
「はぁい」
「お砂糖、もう入れておきましたから」
「気が利くね。何個入れた?」
「勿論、一個と……ここに、割ったものが」
「さすが! 私のこと、よくわかってる!」
「ええ、そうでしょう。はい、どうぞ。もう片方の欠片は私が頂きます」
「ありがとう。不思議な色の砂糖だね。なんだか可愛い」
「そうでしょう、ほら、冷めないうちに、どうぞ」
「はーい、いただきます……わ、なんか風味がちょっと独特、だね。初めて飲む味」
「あなたほどの紅茶好きが言うならばそうなのでしょうね。もしかしたら、新調したお砂糖のせいかもしれません」
「確かに、なんか不思議な色してた。てか、なんかさ、今日気合入ってるね」
「ええ、まあ。あなたとの時間を大事にしたくて」
「ふ、ふーん。……は、早くヤハルも飲みなよ」
「あなたの幸せそうな顔をちゃんと見てからにします」
「あ、あのさ、今日、なんかちょっと……恥ずかしいよ、どうしたの」
「数年後、寿命で私が死んだあとの、あなたの事を考えたんです。まず浮かんだのは、ひとりぼっちで泣いているあなたでした。ええ、想像しただけで胸が痛みましたとも。あなたが泣いているのに駆け寄れないなんて」
「それは中々、うーん、センチメンタルなの?」
「あんな法律が決まったくらいです。センチメンタルにもなります」
「だよね。……それで?」
「……だから、あなたの隣に私以外の誰かがいる所を想像しました」
「う、ん……ねぇ、ちょっとだけ暖房を弱くしてもいい?」
「いいえフウ、最後まで聞いて」
「でもさ、なんかちょっと暑くて、なんでかな、顔も火照ってきた、ような」
「いいから、フウ、聞いて。あなたがひとりぼっちで居るのは辛くて苦しいのに、あなたの隣に私以外の誰かがいることが、私は耐え難いのです」
「おねがい、ヤハル、お願い、舌、したが痺れるの、何か、なんかからだが、おか、おかし」
「ねえ、フウ。そんな未来なら壊してしまってもいいと思いませんか」
「やは、ヤハル、きいて、おねがい、き、き、きい、き、て」
「私の残りの寿命も、あなたの残りの寿命も。私の六年もあなたの六年も、こうしてしまえば、全部対等になると思ったんです」
「そうでしょう、ねえ、ヤハル。もう答えられませんか。最後の告白くらい聞いてくれればいいのに。まったく、あなたってば、つれない人」
「ああ、でも、そうですね。やっぱり私に紅茶の茶葉の違いなんてわかりませんでした」
「ねえ、大丈夫、大丈夫ですよ。そんなに震えないで。私も直ぐに行きますから。あなたをひとりぼっちにはさせませんから」
<わたしたちは誰かを糧にして大人になっていく。>
ああ、目障りだ! 非常に目障りだ、不愉快だ、気分が悪い!
目の前で蹲って嗚咽を漏らして震える体躯を、思いきり蹴り飛ばした。がたん、と箪笥に打ち付けられた体を枯れ木みたいな細くて弱くて情けない腕で、守るように抱え込んでいる。ちっとも役割を果たせないくせに、到底守ることなんて出来ないくせに、必死になって自分を守っている。自分を守るふりをして、私に刃向かっている。それすらも私の神経をざわざわと逆撫でる。
あの人に似た黒髪に腹が立つ。あの人に似た低い声に腹が立つ。私の腹から出てきた癖に中学に入った途端私を越した上背も、何かに触発されて使い始めたコンタクトレンズも、昔から変わらない右巻きのつむじも、何もかもに腹が立つ。苛立ちのまま、もう一度胴をめがけて足を飛ばす。がたん、と箪笥がまた派手な音を立てて、しばらくして、そうして静かになった。静かになってしまった。
それでも怒りは収まらない。それどころか、私の中でどんどん膨らんでいくのがわかった。私が父から受けた苦しみはこんなものでは無かった、私が母から受けた折檻はこんなものでは無かった。私を捨てて大人になったあの人のために飲み込み続けた激痛は、こんなものでは無かった! 膨らんだ怒りの風船を破裂させるような、鋭利な言葉が溢れ出して胸を刺す。誰かに言いたかった言葉だ、大人になれない私が、あの人達が大人になるために踏み台にされた私が、ずっとずっと飲み込み続けた言葉。家の外では涼しい顔で振る舞って、家で内包した加虐心を私にぶつけて、それが大人なんだってあの人たちから学んだ。大人になるためだったら、三年一緒にいた人のことをゴミを放り投げるみたいに捨ててもいいんだって、あの人から学んだ。それで大人になれるんだったら、私にそれが許されない道理はないはずだ。
枯れ葉を踏むみたいに何度も足元の彼を蹴り飛ばして、肩で息をして、ようやく落ち着いた。
大人って、きっとこういうものなんでしょう。誰かを犠牲にして糧にして、ようやくなれるものなんでしょう。両親が私を糧にして大人になったように、あの人が私を糧にして大人ぶっていたように、こうしたらきっと大人になれるんでしょう。そう聞いても、目の前のがらくたは何も答えなかった。静まり返った部屋の中で、小さく鼻をすする音だけが聞こえて、嫌になってまた蹴飛ばした。
<登山が大好きな男は、大嫌いな海に一人で潜る事になった。>
果てが見えないほどどこまでも真っ黒な水面の上を波が滑り押し寄せては引く度、白く泡立った海水がむき出しになった俺の足の爪を濡らす度、その全てが俺を糾弾しているとさえ思えた。墨汁をめいっぱい溶かしたみたいな夜の海は恐ろしいほど静かで、びゅうびゅう耳元を掠める風の音と、穏やかな波の音しか聞こえない。
だから海は嫌いだ、心臓に冷たく凍った誰かの人差し指を入れられたような気分になる。そう唯一の友人に話したのはずいぶん昔のことだ。山の匂いが好きだ、海の匂いが嫌いだ。山は俺を迫害しないけれど、海はどこまでも俺を責め立てて苦しくさせるから。今こうして俺の足元を濡らす波だって、まるで俺が海に入れないように押し返してるみたいじゃないか。お前は海が好きかもしれないが、俺は到底そんな風には思えない。
俺の真剣な語りを、友人は少し悲しそうな顔をして聞いていたけれど、少し考えた後に口を開いて
「じゃあ、死にたくなったら海に行け。お前が山で死んでしまったら、山はお前を受け入れてそのまま隠してしまうだろ? お前のことを嫌う海ならば、血迷ったお前を俺の元まで押し返してくれる筈だ」
と、そう言った。何を馬鹿なことを言っているんだとその時は頭をどついてやったが、今になって考えてみれば、彼なりのめいっぱいの愛情だったのかもしれなかった。海難事故で行方不明の知らせを聞いたのは、そんな話をした三年後のことだった。
夜の海は気味が悪い。恐ろしい。怖くて仕方がない。こんなものに惹かれて、血迷って、そうして波の果てに押し流されて隠されてしまったお前を、どうやって見つけ出したらいい。どうしたら、お前の元まで行けるだろう。
猛暑の過ぎ去った夏の下旬といえど、まだ海水は生温い。そのまま波の中にざぶざぶと足を踏み入れても、妙に冴えた頭だけはぐるぐる働いて、漠然と足は止まらなかった。腰まで海水に浸っても、ゾワゾワと体温が奪われていく感覚と、体に走る微かな嫌悪感しか感じられない。これから、何度この海に押し返されるだろう。何度拒まれるだろう。それでも良い。
俺を嫌う海に何度押し返されても、お前の元に流れ着いて、俺にかけたあの言葉すらすっかり忘れてどこか遠くで暮らすお前を、お前のせいで俺は血迷ったのだと、頭をどついてやらなければならない。
<私にとっての救いも、あなたにとっては些細な当たり前だったんでしょう。>
誰よりあなたを愛しています。この世に存在している人間たちの中で、誰よりあなたの事をわかっています。誰よりそうで在ろうとしました、誰よりそうで在りました。誰より傍に居て、誰より遠くに居ようと考えました。邪魔はしたくない、迷惑はかけたくない、だから酸いも甘いも針も毒も飲み込んで、あなたにとっての理解者で在ろうとしました。どれほど都合がよく、どれほど軽んじられる存在であっても、それでも良いと飲み込みました。あなたがそう望むのなら、私はそれで良いと思っておりました。
あなたが私に垂らした一本の糸は、萎れた蓮の花の上で白銀のようにきらきらと輝いておりました。それがどれほど美しく私の目に映ったでしょう、どれほど救いと思ったでしょう。その細い細い救いにしがみついて、押し寄せる濁流を必死に耐えておりました。突き刺さって抜けないガラス片も、その糸ひとつあれば愛せてしまう気がしていたのです。あなたに持ち上げられたわずか十メートルで、あの濁流は私にとって恐ろしいものでは無くなったのです。私にとって唯一で、特別で、大切なひとつだったのです。
でも、あなたにとっては違うのでしょう。お釈迦さまがお救いになられる人間が私だけなはずもないのと同じように、あなたにとっての私は数あるうちのひとつなのでしょう。私にとっての唯一が、あなたにとってありふれた、何の変哲もないものであると、そう気付くのに大層時間がかかってしまいました。そう気付かせてくれたのはあなたでした。きっとあなたにとっての私が沢山の中の一つであるように、私にとってのあなたも沢山の中の一つであるはずなのに、せめてそうであっては欲しくないのです。
私は大層惨めな女です。あなたの垂らした白銀が私の首に輪をかけて、砕かれたガラスの上を歩かせるのです。それでも、あなたのために飲み込んだ毒が全身に回ってしまったせいで、傷は確かに残るのにその痛みすら麻痺してしまったから、ガラスを踏むことが怖いことだと思い出せなくなっていたのです。
私は大層馬鹿な女です。あなたの白銀になど手を伸ばさなければよかった。あなたの声に耳を傾けなければよかった。あのまま濁流に押し流された先で、大人しく野垂れ死ねばよかった。それでもあの時、手を差し伸べてくれたのはあなただけだったから、あなたに救われたいと思ったから掴んだのです。私の重さがあなたの苦しみになっているとも知らずに。
私は大層愚かな女です。どうかどうか、いつまでもこんな人間がいたことを忘れないでください。あなたが切った蜘蛛の糸が、一人の女を中途半端な高さから突き落とし、そうして骨の砕けた体で泣き叫ぶしか出来ないでいる女がいるということを、どうかどうか、忘れないでください。
そして、またいつか私の目の前にあなたからの白銀が垂らされることを望む私を、惨めで馬鹿で愚かだと笑ってください。
<深夜のコンビニの駐車場で、あたしの友達は赤くなった頬を気にもせず、白いチョークでアスファルトに絵を描いている。>
深夜三時、急に連れ出されたことへの苛立ちは、会うなり押し付けられたサイダーと一緒に腹の奥底へと飲み下した。静まり返った住宅街を抜けた先、煌々と輝くコンビニの駐車場。蛍光灯に集る虫みたいにコンビニに引き寄せられて、適当にアイスとかチョコとか買った矢先、彼女は頬に携えた紅葉もそのままに、どこから取り出したのか白いチョークでアスファルトに線を描き始めた。
「ねえカナさあ、そのほっぺさぁ、またユウスケにやられたんでしょ? はやく別れなよ」
「ミウはユウくんのこと何もわかってないからそういうこと言えるんだよ〜、ほんとにわかってるのは私だけなんだから」
がりがり、がりがり、綺麗にネイルされた指先が白く汚れるのもあたしの言葉も気にしないで、カナはチョークを手放さない。丸を書いてみたり、今度は四角を書いてみたり、たまにそれを塗りつぶしたり。深夜に叩き起されたせいでろくに回らない頭でも、小学生が描く落書きみたいだってことくらい、すぐにわかった。
「ねえ、何書いてんの? 流石に店員さんに怒られるよ」
「大丈夫大丈夫」
蹲るカナの腕は止まらない。言っても聞かない性格なのは前からだ、勝手に帰ってしまってもいいけれど、後々面倒くさいことになるのは目に見えている。仕方がないなぁ、と思わずため息が出た。
「わかった、今日はとことん付き合うよ」
「ほんとに⁉︎ よかった、一人じゃ不安だったの」
ぱあ、と顔を明るくしてこちらを見たカナの頬はまだ赤いままで、どこにでもいるようなスウェット姿にその赤色だけが異質だった。カナが典型的なモラハラ男と付き合って三ヶ月、彼氏につけられた傷跡もそのままにあたしに泣きついてくるのにも、もはや慣れてしまった。何度別れろと言ったかもわからないし、何度通報しろと言ったかもわからない。それでも、カナは「ユウくんのことがちゃんとわかるのは私だけだから」と、これまた典型的な言葉で流されてきた。そうやって流されるのにも慣れてしまった。
カナは時折鼻歌を歌いながら、そしてたまに私に取り止めのない話を振りながら、チョークで線を描き続ける。退屈になって開けた、買ったばかりのポテトチップスがもうそろそろ底をつきそうになった頃、ようやくカナの手が止まった。
「よぉし、出来た!」
力作だよ、とカナが伸びをしながら立ち上がった。大きな丸の中に描かれた沢山の小さな丸、それから目みたいな形の模様と直線がいくつか描かれ、ひときわ目立つ真ん中のバツ印が目を引くこの絵が何なのか、パッと見でもすぐにわかった。漫画とか映画とかでよく見る、典型的な魔法陣だ。まさかとうとう頭まで殴られたか、と顔を覗き込めば、カナが目を細めて笑った。チョークをまた手に取って、バツ印から一本、丸を引き裂くみたいにあたしの足元に向かって線を書き足していく。
「とことん手伝ってくれるんでしょ?」
そう言って笑うカナは、短くなったチョークから伸びる白で、あたしの足元をぐるりと囲った。
「ユウくんのこと、本当によくわかってるのは私だけ。別れる、なんて、そんな簡単に済ませられるわけないじゃない」
どこからかごうごうと風がやたらと強く吹いて、何やら呪文のようなものを唱えていたカナのショートボブの茶髪を揺らす。半年前までは肩まで伸ばすのだと意気込んでいたその髪の内側が、やけにざっくばらんに切り揃えられていることにようやく気がついた。
「だからって魔法陣って、何する気⁉︎」
「そりゃあ死神だよ! いけるいける」
「何言ってるの!」
深夜であることも忘れて大声で喚き散らせば、カナがにぃ、と笑う。ここ最近ずっと見ていなかった笑顔だ。疲れたように眉を下げて笑う笑い方じゃなくて、目元に皺をギュッと寄せて顔を顰めるみたいに笑う、あたしの好きなカナの笑い方。
またごうごうと風が吹く。飛ばされてきた葉っぱが思い切り顔にぶち当たって間抜けな声が出る。そうしているうち、チョークで描かれた落書きが淡く光って、やがてその光が強く強く明滅した。
まるで何かが来る予兆のサイレンみたいに。眩しさに思わず目を瞑って、光が弱まり代わりに風の音がひときわ強くなった頃、恐る恐る目を開ける。
どうして魔法陣、とか。どうして死神、とか、そんなの存在するわけないじゃん、とか。言いたいことはたくさんあったけれど。頭上に浮かび上がったぴかぴか光る円盤を見て、思わず言葉が口をついて出た。
「ねえ、あ、あのさ! これ、死神ではないんじゃない⁉︎」
<あとがき>
拝啓、お父様、お母様。それから友達の皆。これを皆が読んでいるということは、私はもうこの世に居ないでしょう。まさか、自分がこんなあからさまな定型文を使う日が来るとは、思ってもいませんでした。
きっと突然の事で驚いているかと思います。ですが、前々から決めていたことなので、どうか否定しないでください。
私はこの世に生を受けた人間の中でも、特に恵まれた人間だったと思います。ご飯に困ったことは無いし暴力を受けたことも無いし、良い友達にも出会えました。好きな人が出来ることだってありました。それらがどれだけ幸福なことか、私は痛いほど知っています。だから、私が唯一恵まれていなかった点を挙げるとするならば、それは私自身の性根のことなのです。
最近、息をしようとすると苦しいのです。突然海底に突き落とされたような、いや、元から海底にいたはずなのに、なぜだか急にエラ呼吸が出来なくなってしまったような。どこにいても、誰といても、何をしても、理由もないのにずっとずっと息苦しくて、どうしたらいいのかわからないのです。どうしてだろうかと考えました。私自身のことも深く深く考えました。
きっと私は変わってしまったのだと思います。良い方向にも、悪い方向にも。たくさん頭が回るようになりました。人の目がうんと気になるようになりました。被害妄想が上手になって、誰かを悪人にするようになりました。誰かの言葉の端っこを味がしなくなるまで噛み締めて、一人で泣くことが増えました。私のほんとうの味方などきっといないのだと、思い至りました。私が私でいる限り、きっとどうにもならないのだと考え至ってしまいました。
息が出来なくていつか死ぬくらいなら、せめて自分から止めてしまえばいいんだとも、気が付きました。
秀才が虎になったように、檸檬を爆破させる妄想をしたように、己の親友が路を踏み外し自殺したように、そうする道しかないのだと。
私の遺体には、できれば、しっかり化粧を施してください。せめて最後の見てくれくらいは綺麗でいたいのです。私は自分の顔がどこまでも嫌いです。常人であれば物心ついた時点で自殺を選ぶようなこの顔で、長らく生きてきたのです。お父さんとお母さんには本当に申し訳ないけれど、私は自分の顔を、姿を、どうにもおぞましいものとしか思えないのです。顔も覚えていない誰かに言われた言葉でできた傷は、この歳になっても治らないどころか、日に日に悪化の一途を辿るばかりです。
多分、誰も悪くありません。きっと、私も悪くありません。
そうでないなら多分、みんなが悪いのです。そして、私も悪いのです。
みんなと私のせいで、私はこの世を去ります。どうか忘れないでいてください。どうか私の死に顔を見て泣いてください。私のどうにもならない苦痛を知ってください。その為に私は死ぬのです。こんな方法しか思いつかなかったのです。
きっと、生まれてくるかたちを間違えた。来世は人間じゃありませんように。