毛利軍戦略拠点『和久羅城』探訪
いつも趣味の登山をする松江市の嵩山(だけさん)の隣に鎮座する、和久羅山(わくらやま)。
正月の二日に嵩山頂上にある布自伎美神社(ふじきみじんじゃ)に参拝したのだが、隣の和久羅山が毛利氏の砦であったことをその時初めて知った。
今までただ単にブラブラ登っていたが、城跡だと知ってその痕跡を探って見たくなり、今日登って見た。
今回は和久羅城についての探訪記事を書いてみようと思う。
毛利と尼子の戦い
山陰の雄「尼子家」と安芸の国人「毛利家」は元々同盟関係だったが、毛利家の家督騒動に尼子氏が介入したため毛利は尼子を見限り、尼子と対立する周防・長門の「大内家」の配下となった。
その後、毛利家が旧大内領を手中に収め、山陰の巨大勢力である尼子氏と数々の死闘を繰り広げる。
出雲をはじめとする、8か国の太守と言われた尼子晴久の存命中は毛利も侵攻できなかったが、息子の義久の代になって尼子領を犯しはじめ、尼子の本拠地富田(現在の広瀬)に迫ったため山陰の地で数々の戦いが行われた。
和久羅城
尼子の兵站線を切る戦略に出た毛利は、日本海から境水道を通り富田(とだ)に運び込まれる物資運搬船を配下の児玉水軍によって襲撃する作戦を開始する。
和久羅山は日本海から境水道、富田川が流れ込む中海まで一望できる絶好の高台だ。
ここに砦を作り、兵站攻撃の拠点にしたのである。
和久羅山の山容 和久羅城の考察
和久羅山は単独峰で、近くの山々に連なる連山ではない。
隣には嵩山という山があり、和久羅山と嵩山の間の谷間に駐車場があって登山口となっている。
ここからの登山道は、はっきり言ってシンドイ。
入り口からいきなり急登となって、ロープを手繰りながら登らなければならない。
尾根道に出るまでに、何度もズルズルの地面で足を滑らせてコケかけた。
ここを攻め登るのは容易ではない。
ようやく尾根道に出ると、和久羅山の二つのピークの片方である弥勒山に向かう。
狭い尾根道を歩きながら、尾根伝いに攻めてくる敵を足止めするための堀切らしき痕跡を探すが、それらしきものは見つからなかった。
長い年月の間に埋もれてしまったのかもしれないし、毛利軍が堀切は不要だと判断したため造られなかったのかもしれない。
この砦は、防衛拠点というより監視所的な要素が強かったためだ。
やがてピークの弥勒山の頂上に出る。
昔は曲輪があったらしいが、狭い場所なので大勢の兵が詰めることのできる拠点ではなさそうだ。
弥勒山から和久羅山への尾根道
弥勒山頂上から和久羅山へ向かう分岐までは緩やかな尾根だ。
ここらには軍事拠点らしき痕跡はない。
分岐点から和久羅山頂に向かうと、とたんに道が険しくなる。
和久羅山までは尾根ではなく山腹が続いているが、所々平坦な広場があり曲輪ではないかと思わせる山容が続く。
よくみると、明らかに人が作ったと思われる小径が各所にあり、山頂まで何本も見ることが出来た。
残念ながらここにも堀切らしき跡はない。
和久羅城本丸ひろば
最後の急登を登りきると広場が現れる。
ここが和久羅山の山頂で、和久羅城本丸だ。
ここに来ると和久羅山に毛利が砦を築いた意味がわかる。
東に日本海・境水道・中海を見渡すことができ、西は松江市街地と宍道湖が一望だ。
ここほど出雲の重要拠点を一望できる場所は他にない。
抜け目のない毛利、よくぞ絶好の場所を見つけたものだ。
尼子は陸からの兵站を立たれ、海路日本海から境水道を抜けて中海に至る兵站を生命線とした。
そのため境港市対岸の島根半島に海路の防衛拠点「簾ヶ岳城(すだれがだけじょう)」を築き、境水道の制海権を争って現在の境港市内で毛利を迎え撃った。
弓浜合戦というが、尼子優勢に終わったものの後が続かず、最後には本拠地である月山富田城が兵糧攻めにあって降伏した。
つまり兵站線を切られたため尼子軍は降伏せざるを得なかったのだ。
ここ和久羅城は毛利による尼子打倒の、最重要拠点といってもいいのかもしれない。
出雲・伯耆の城郭
この他にも尼子、毛利の戦いに連なる城郭は山陰・山陽にたくさんある。
歴史好き、城郭好き以外の人には申し訳ないが、関係城郭を探訪し記事に上げたいと思っている。
つぎは月山富田城を守る尼子十旗の中の一つ、『白鹿城 しらがじょう』と山中鹿介率いる尼子再興軍の拠点『真山城 しんやまじょう』をたずねてみようと思う。
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