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餓鬼道現る! 鳥取城

鳥取県に住みながら地元の鳥取城に行ったことがありませんでした。
今回鳥取市に用事があり、チャンスとばかり鳥取城に登城です。

ここ鳥取城は戦国時代、血塗られた過去を持つ城として有名です。
今回は、鳥取城で感じたことを記事にしたいと思います。


風雲 鳥取城

ここ鳥取城は幾人もの城主のもと、たくさんの歴史を刻んできましたが、中でも羽柴秀吉の『鳥取の飢え(かつえ)殺し』と言われる兵糧攻めによる籠城戦が有名です。

たくさんの櫓跡があり、複雑な造りの鳥取城

織田家中の中国戦線司令官、羽柴秀吉は山陰道の要衝鳥取城の攻略に着手します。
守る城将は毛利家一門の吉川経家(きっかわ つねいえ)。
石見の吉川家から派遣された名将です。

力攻めでは攻略できないと判断した秀吉は、近隣住民も追い立てて城内に押し込めます。

城の周囲に柵をつくり、食料の搬入を不可能にして兵糧攻めに着手しました。
ご丁寧に城内の備蓄米をあらかじめ近隣住民に買い取らせ、鳥取城の米蔵を空にしてから包囲するという周到ぶりです。

経家が石見から着任するまで秀吉の意図に気付かず、米蔵を見た経家は籠城戦を控えている現状を考えて驚愕したといいます。

戦が長引き、食料が尽きて軍用馬や雑草、果ては人間の死肉までも喰らったのです。
逃げようと柵に登ると羽柴軍から鉄砲で打たれ、その兵士にまだ息がある状態で味方の城兵が群がってとどめを刺して肉を食べたといいます。

まさに地獄、まさに餓鬼道 !

三の丸から見た城下。秀吉は一般人も城に追い立て、飯を食う口数を増やしたという

ついに吉川経家も自分の切腹を条件に城兵の助命をし、降伏後自決しました。
解放された城兵も、粥の一気食いをしてショック症状を起こし、多くの者が死亡しました。

階段地獄、現代の鳥取城

すぐ近くの県立博物館の駐車場に車を止め、さっそく城跡に登ります。
私の他にも高齢のご夫婦が数組、石段を登っておられました。

しかしこの石段が曲者で一段がすごく高いし、急だし、登りにくいと言ったらありません。
登山をしている私も、この階段には閉口しました。

一段一段が高く、登りにくいったらありゃしない!

三の丸、二の丸、と登ってふと説明板を見ると、丸形石垣という説明文が目に入りました。
どうやら変わった形の石垣があるようです。

案内表示に従って進むと、丸く突き出た石垣が目に入りました。
全国でも鳥取城にしかない、たった一つの石垣の形状とのことで、背後の石垣が崩れないようにするための石垣だそうです。

全国でただ一つの丸形石垣 石垣の崩れ防止だが攻める方は登りやすいぞ?!


天球丸にて想う

二の丸からキツネが祀ってある小さな神社の脇を通って、城山の中腹の最上段『天球丸』に登りました。

ちなみにこのキツネは、江戸時代の城主池田家に仕えて一日で江戸の藩邸まで手紙を運んだとか、配下のキツネのいたずらをきつく叱った上で殿様に謝罪をしたとかいう伝説があります。

池田家に仕えたキツネを祀る祠 この脇に上に登る階段がある

天球丸は広々とした気持ちの良い場所でした。
しかし鳥取攻城戦の時には、屍が累々とあった場所のはずです。
明るく天気も良い日でしたが、何だか背筋が寒くなりおもわず手を合わせました。

元来ポンコツ霊能しかない私です、鳥取城跡でも何も感じないと思っていましたが、ひもじく苦しい当時の城兵たちの思いが伝わってくるように感じたのです。

もしかしたら歴史を知っていたため意識過剰となり、城兵の思いが伝わったと勘違いしたのかもしれません。
ですが、なぜかそれだけとは思えないのです。

戦国ロマンの陰に

戦国時代や幕末動乱にロマンを重ねる人は多くいます。
私もその一人です。

しかし、実際の戦国の世は飢え死にあり、婦女子の略奪あり、人身売買あり。
生きた人を殺して肉を喰らったという事実は、とてもロマンなどと言えるものではありません。

名将の名高い吉川経家公 彼も毛利家の捨て駒にされたと言える

今日私が登った鳥取城は、江戸時代の構築物が残っているのみで、戦国鳥取合戦の時代の物は見た限りではありませんでした。
しかし、やはり飢えて死んだ人たちの気配はあるように思います。

祟られるとか、霊障があるなどの話はまゆつば物ですが、少なくとも無念のうちに死んでいった兵士に対して心で手を合わせるのは、人としての道だと思うのです。

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