12月9日放映「世界ふしぎ発見」
私は2015年「日本中の人にポルトガル菓子を食べてもらう。そして100年後の日本にポルトガル菓子を根付かせる」そのために
リスボンのバイシャ地区から京都へ店ごと引っ越してきた。
そうです、私はポルトガル菓子屋です。
でもお菓子を作って売るだけじゃ、満足できません!
ポルトガル菓子の一つ一つにスポットをあてて
その歴史的背景や文化を説明して
日本の方に楽しんでもらいたい。
ポルトガル菓子を提供する際も
ポルトガルのアルコバッサ柄の布地をテーブルの上に敷き
ポルトガル産の紅茶で、
ポルトガルのボルダロのお皿で
ポルトガルの音楽ファドを聴きながら
召し上がっていただけるように
している。
修道院で作れらていたお菓子の説明も、
カステラのルーツと考えられる伝統菓子パォンデローも
地方によって特徴があることも
しっかり、きっちりと説明させてもらっている。
説明するたびに
なんだか体全体が温かくなり
口角が上がり
自然と笑みがでる。
今、目の前にいらっしゃるお客様が
ポルトガル菓子の話をきいてくださっている。
嬉しい!
素直に嬉しく、有り難い気持ちになる。
ポルトガル菓子パォンデローが16世紀長崎にやってきたポルトガル人宣教師たちによって作られ、それらを日本人が懸命に学び、その技術や文化を継承し、改善改良して作り上げたのが現在の長崎カステラだと考えられる。
元々パォンデローは教会へのお供え物として、キリスト教から生まれた菓子だ。
「神様、息子が病気です。どうぞ治してください。
一生けん命にパォンデローを焼いてきました。私の祈りの気持ちとしておおさめください。」
こんな風にパォンデローには祈り、感謝の気持ちが込められている。
ポルトガル北部ミーニョ地方のパォンデローはキリスト教の精神にのっとって今も手でちぎって食される。
2023年11月30日、TBSのスタジオで「世界ふしぎ発見のポルトガル・シュガーロード」の収録が行われた。
今朝、京都の店の奥の工房で焼き上ったパォンデローやパステル・デ・ナタ(エッグタルトの原形)さらには修道院菓子の数々を新幹線に持ち込んだ。
もりろんアローシュ・ドース(甘い米)もソロリ、ソロリと運んだ、
出演される方々のお土産も忘れてはいない。
黒柳徹子さん、草野さん、藤田ニコルさん、城田優さん、土田晃之さん、野々村真さん、石井アナウンサー。
スタジオではポルトガル北部ミーニョ地方のパォンデローをお召し上がりいただくので、お持ち帰りいただくものは
リスボン北部のリバテージョ及びエストレマドゥーラ地方の伝統的なやや半熟のパォンデローといたしました。
特に徹子さんには楽屋までおしかけて、
挨拶をさせていただきました。
私の感覚の中ではマリアさまのような
菩薩さまのような優しさのオーラが溢れていらっしゃいました。
御着物でのメイクの途中でなければ
しっかりとハグさせていただきたかった。
でも手は握らせていただきました。
温かな小さな手。
ところで、
「世界ふしぎ発見」は2024年3月で終了するそうだ。
番組制作会社テレビマンユニオンの工藤加奈子プロデューサーが
温めてこられたポルトガルにまつわる番組つくり。
・13世紀、デニス王(別名 農民王)が国民を飢饉をから守るために国中に栗の木を植林させたこと。
・パステル・デ・ナタはエッグタルトの原型でポルトガルで1番愛されているお菓子であること。
・ポルトガルのクリスマスは、各家庭にお菓子テーブルが設置され1/6の大様の日まで延々とお菓子をたべつづけること。
ボーロ・レイは当たりとはずれのはいるクリスマスのイースト菓子であること。
クリスマスに良く食べる揚げ菓子「フィリョース」は日本ではがんもどき(関西では「ひろうす」)の姿をかえていること。それまでの日本には
油で揚げる、という料理法は存在しなかった。
・信長が宣教師フロイスから献上されたものがコンペイトウ(ポルトガル語でコンフェイトは砂糖菓子の総称)
・長崎の伝統砂糖菓子 有平糖 のルーツはマディラ島やアソーレシュ諸島で現在も作られるアルフェニンだ。長崎では“おくんち”というお祭りのお供え物として作られている。
・お菓子は外交をスムーズにするための大きな手段として大いに役立っていたことが伝わってきました。
そりゃー、そうだ。
あまーーい、お菓子を口の中に含んだ信長は
(こんなええもんをもろたからには、褒美をとらせにゃいかん、と思ったに違いない。)と思ったに違いない。
でも日本で1番最初にコンペイトウを食べたのは
信長じゃなくて、彼のお毒見役の方だったのでしょうね。
ポルトガルから出発した砂糖は長崎がそのシュガーロードの終点であったことを番組内で語ってくださいました。
工藤ディレクターが選んだテーマは、まさに私の日本で伝えるべきことをまとめてくださった ようなものだ。
日本にきて8年半で
こんな番組を作ってもらえて、その番組の収録にも参加させていただけて
有り難いったらありゃしない。
ポルトガルで順調に業績をのばし、知名度、認知度を右上がりであげていた
カステラ ド パウロでした。
でも最近は日本の大企業さんもポルトガル菓子について講習してください、とかいうてきはるし
もうそろそろ日本でポルトガル菓子を作っても売れる時期がきているのかもしれへんなぁ。
と感じていた。
そんな時に
サンマルクホールディングスの片山社長と出会った。
この時はアンデルセンの当時の高木誠一社長が片山社長にリスボン滞在1週間をご招待され、アンデルセンさんに講習をさせてもらっている私にコーディネーターの仕事を依頼されたのだった。
私は自分の店が終わってからと日曜日しか
旅の同行はできひんよ。
釘をさして言っておいた。
レストランやカフェや菓子屋に同行し
この料理の作り方はこうこう云々で、このお菓子はこんな風に作っているんですよ、と解説していきました。
そして「しゃちょー、私の店にも来て下さいよ!」と
売り込みをし、ご来店というか連れ込みましたところ
「智子さん、もし日本でなにかやる気があるなら
私が協力しますよ。」
「しゃちょー、ほんまですか?男に二言はありませんよね」
と、言いました。
実はずーっと前から自分の心の中の引出に
“いつか日本でポルトガル菓子で勝負したい!”という思いがあった。
でも毎日の忙しさにかまけて
そしてリスボン店にもたくさんのお客様がついてきてくれているのをいいことに
引出のなかの何所にしまったのか、すっかり忘れていた。
片山社長の
「智子さん、もし日本でなにかやる気があるなら
私が協力しますよ。」
この言葉で
その引出が開かれ、奥にしまわれていた探し物がパッと現れた。
私は、
私とパウロならば
本物のポルトガル菓子を日本で伝えられる
という思いのままに
行動に移した。
リスボンの常連のお客様からは
「勝手なことするなー!」と
怒られた。
「これから土曜日はどこへいったらいいんだよー」とも
言われた。
「まぁ、きいてえな。私とパウロとで本物のポルトガル菓子の良さをつたえてくるから。勝負させてぇな。必ず日本でもたくさんの人に愛される店をつくるから。」
いよいよリスボンのカステラ ド パウロを閉めるときに
お客様が小さな手作りのアルバムを作ってプレゼントしてくれた。
そのお客様がうちでお菓子を食べてお茶をしたメモリーの塊だった。
大切にしようと、今そのアルバムは京都の店に置いてある。
そしてコロナ禍の前にはリスボンの店のお客さまが京都まで足を運んでくれた。せっかっく京都のカステラ ド パウロにご来店くださったのに
いきなり私から叱られるの。
「えぇーー、なにしにきてんのん?
あほやなぁ。ほんまは抹茶のお菓子とか日本らしいもんを食べなあかんのに、、、、。」(貴重な旅の時間を使って、、、、うちの店にきてくれるなんて有難すぎる。)
リスボン店のお客さまの帰り際、
「どうやった?ポルトガルを感じられた?合格やった?」
と尋ねる。
「楽しい日本の旅にしてな。」と
おもいっきりハグしてお見送りをしていた。
ありがとう、ありがとう。
私は必ずポルトガルのお菓子を日本中に広めるで!
お菓子から伝わる温かな心意気も伝えるで。
みててや、みててや、みんな。