世宗完顔烏禄〜金朝の最盛期〜
前置き
はじめまして。
野生の歴史好きと申します。
まず簡単に自己紹介を。
と言っても個人情報はそこまで出したくないので…、簡単にですが。
学生の頃からやたら歴史が好きで、小学生の頃から歴史の本であれば活字の本を読んでいました(その内容はちょっとは覚えてたり)。中学生の頃にその熱は一時的に冷めたものの、高校時代に入り再燃。春秋左氏伝、史記列伝、三国志なんかを読み漁ったりしておりました。高校卒業後は何を思ったか、農業に挑戦して大失敗し…、紆余曲折あってプログラミングスクールに入ってウェブ制作の勉強を始め、今はなんとかフリーランスでやれないかともがいているところです。
ここではプログラミングとは全く関係ない、個人的に気になった歴史上の人物を調べて、それを記事にしていこうと思っております。
完全な思いつきなので…投稿速度は月1出ればいいかもしれないくらいに考えています。
暇な時に読んでいただければと思います。
記事内では大半が敬体、いわゆる「ですます調」ではなく、常体で書くつもりです。
その方が書きやすいので…。
本題
前置きはここまでにして、本題に入ろうと思います。
今回取り上げるのは表題の通り金朝第五代皇帝「世宗完顔烏禄(セイソウワンヤンウル)」を取り上げます。
と言ってもそもそも金王朝とはなんぞやとなる人の方が多いと思うので、そこから話していきます。
金王朝とは
金王朝とは、漢民族ではなく、女真(女直)族の完顔部の族長完顔阿骨打(ワンヤンアグダ)により、当時モンゴル高原や現在の満州付近までを支配していたモンゴル系の契丹族による王朝遼(大契丹)の抑圧に反旗を翻す形で1115年に打ち立てられた王朝である。
※建国については⬇️の動画がわかりやすくておすすめです。
この女真族は漢族から「靺鞨五部(まっかつごぶ)と呼ばれていた集団の一部族の自称とのこと。
阿骨打が1123年に没すると、その弟呉乞買(ウキマイ)が即位した。彼は1125年に遼を滅ぼし(実質的には1123年にほぼ滅んでるが)、その後北宋と対立し、1127年に北宋を滅ぼす(いわゆる靖康の変)。
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画像引用元: https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D))
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(画像引用元:https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:%E5%8D%97%E5%AE%8B%E7%96%86%E5%9F%9F%E5%9B%BE%EF%BC%88%E7%B9%81%EF%BC%89.png#)
その後呉乞買が、1135年に没すると、阿骨打の嫡子合剌(ホラ)が即位した。これが熙宗である。
彼は漢族の制度に倣い、中央集権化を進め、南宋と紹興の和議を結んで和約を結ぶとアルコール中毒などの影響により、妃を殺したり家臣を誅殺するようになり、人心は離れ孤立化。そんな中、1150年熙宗は従弟の迪古乃(テクナイ)と彼の腹心「十大悪人」により殺された。
海陵王は死後今回の主役世宗完顔烏禄により、「皇帝の資格なし」と見做され、「海陵郡王」に、その後「王たる資格もないよね」ということで「庶人」に降格された。海陵王は、熙宗の帝位を剥奪したが、熙宗の路線を引き継ぎ、漢族の政権に倣い中央集権化を進めるとともに、都を現在の北京にあたる中都に遷都するなど功績が大きい。
が、彼は好色であり、その淫乱ぶりを物語る逸話が多い。その上性格は冷酷だったという。
※海陵王について詳しくは、⬇️の動画がわかりやすくておすすめです。
今回の主役完顔烏禄が表舞台にはっきりと姿を見せるのはこの海陵王の時代からである。
完顔烏禄の生い立ち
完顔烏禄(以下、烏禄とする)は、1123年にまだ太祖阿骨打が生きていた頃に生まれた。父は阿骨打の庶子である五男訛里朶(オリド)、母は側室の李洪願(諡号は貞懿皇后)である。
金史によると、烏禄は容姿が格別に立派で、美しい髭を蓄え、物静かで頭脳明晰、その上騎射が得意だったという。性格は仁孝と記されている。しかしながら、海陵王が烏禄の妻に関係を迫り、妻が自殺するという悲劇に見舞われた。
これに対して烏禄はあえて何も不満がないかのように振る舞ったため、海陵王の猜疑の目から逃れ、「こいつはバカだ」と思わせることに成功した。1161年、海陵王は南宋との盟約「紹興の和議」を一方的に破棄し、南宋に侵攻した。しかし、この侵攻作戦は契丹族の反乱を招き、国内は混乱した。
南宋を滅ぼし天下統一を果たそうとする海陵王の野心もあったようだが、「劉貴妃」という美女が南宋にいるという噂も、動機の一つだったと言われている。
完顔烏禄の即位と統治
海陵王の南伐により国内外混乱している最中、「反海陵王派」の貴族、皇族らが烏禄の即位を求め、彼らの支持を受け1161年10月に即位した(以下烏禄を世宗とする)。そして、元号を「正隆」から「大定」と改元するとともに海陵王の廃位を一方的に宣言した。海陵王は、この報に焦り南宋攻めの将らに対して「三日以内に渡河できなければ諸将を皆殺しにする」と脅したところ、部下に殺された。享年40。
金はこの世宗の治世、大定年間(1161年~1189年)に最盛期を迎えることになる。この世宗の治世は後世「大定の治」と呼ばれ、大いに称賛された。海陵王が死んだことで、金における皇帝は名実ともに世宗ただ一人となった。その後、皇帝と称する者が出てきた契丹族の反乱を鎮圧し、1164年(大定五年)には南宋と乾道の和約を結び、南宋との関係を改善させた。
その後は政治改革に注力し、科挙制度の整備(これは海陵王の時代から進めていたことだが)、学問の奨励、漢族と女真族の間の賞罰を適正にするよう努めた。また、税負担の軽減のため、遼の時代から続いていた租税を寺と官(国)に二分して納めさせていた制度を撤廃し、富裕層と貧困層の課税が公平になるよう努めた。
さらに、彼の治世中に女真族が怠惰な生活を送り、農作業に従事しない状況が問題となった。もともと狩猟採集民族であったため、これはある意味必然とも言える。これを受けて世宗は、農繁期の飲酒を女真族に禁じたり、女真族の移住政策を実施して農業に従事させようと策を講じた。
彼は政治に積極的に取り組むとともに、大臣たちに政治への取り組み方についてたびたび注意を促したことが史書「金史」に記されており、大臣たちに「一つでも実行すれば一年で大きな成果を上げられる政策を献じよ」と求めたこともあった。彼は公正さを大臣らに求め、貧民の救済のための物資を富裕層に送った官僚の官位を三等級削減し、救済を監督していた地方長官の俸給を三か月間剥奪したこともあった。
世宗の政治姿勢
また、汚職に対しては厳しい態度で臨み、汚職した官僚が再度汚職に手を染めるなら、その額にかかわらず全員を罷免するという姿勢を取った。汚職に関して調査を受けている地方官吏がいる場合、彼らを解任するよう命じたこともあった(日本もこの点を見習ってほしいものです)。彼は質素な生活を心がけ、華美なものを好まず、泥酔しないように節度をもって酒を嗜んでいた。
彼は質素な生活を心がけ、華奢なものを好まなかったし、彼は泥酔しないように節度をもって酒をたしなんでいたという。
そんな彼だが、仏教については批判的であり、仏教に傾倒し国を傾けさせた南北朝時代の南朝梁(502年~557年)の初代皇帝武帝蕭衍(在位:502年~549年)や、遼(916年~1125年)の八代目皇帝道宗(在位:1055年~1101年)の事例を挙げて「仏教は迷信である」と批判した。
また、彼は阿諛追従を嫌悪し、忌憚なく意見を述べるよう大臣らに求め、官吏の腐敗を戒める詔を出すなど、綱紀が緩まぬように努めた。その姿勢は終生変わらず、1189年、66歳で没した。諡号は光天興運文徳武功聖明仁孝皇帝、廟号は「世宗」である。
負の側面
世宗は名君としての評価が高いが、完全無欠な統治ではなかった。清代の考証学者趙翼(1727年~1814年)は、史書「金史」において世宗の時代に反乱の増加を示す記事があることを指摘しており、その原因は増税にあったと見られている(「金史」からだけでは読み取れない面もあるが)。また、長く泰平の世が続いたことは金の軍事力を弱体化させる大きな要因となり、後のモンゴル帝国初代皇帝チンギス・ハンの侵攻で金朝が大打撃を受ける一因ともなった。
余談だが、後に金をめちゃめちゃにするあのチンギス・ハンは大定二年(1162年)に誕生している(諸説あり)。
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画像引用元:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1227_Southern_Song.jpg
世宗の時代が終わってからわずか20年ほどで金は上図のような有様となり、1234年、モンゴル帝国二代目カアン(ハーン)、オゴデイの時代にモンゴル軍は侵攻を受け金は完全に滅んだ。
終わりに
今回は日本において知名度が低い金の世宗を取り上げました。
参考資料は主に金史(原文はhttp://www.guoxue.com/shibu/24shi/jingshi/jsml.htm)です。意外にchatGPTの翻訳がしっかりしてたので、情報収集は特に苦労しませんでした。
次回は日本史の物部麁鹿火か蘇我馬子あたりを取り上げたいですね。