【Face to Face】克服から共生へ
水害を克服するということは、将来、水と如何に共生するかを考えること
だと思う。克服とは将来の共生を目ざすための一手段であると考える。
夏休みやお盆休みなどが終わり秋の気配になる頃ですが、いまだに猛暑が続いています。また大気の状態が不安定であるため、突然の雷雨が頻繁に発生している状況です。そのため、山沿いで大雨になると平地では河川が増水したり、都市部でも雨水の排水機能が対応できずに道路が冠水したりしています。早く秋の爽やかさを感じるようになってほしいですね。この時期は帰省や旅行をされた方もいれば、混雑を避けて休みを変更するという方もいると思います。特に今年は台風の影響で、予定を変更した方も多かったのではないでしょうか。日本では、お盆やお正月、ゴールデンウィークといった年中行事に一斉に休みを取るという文化が強いと思います。しかし、働き方や生活の仕方は自由なので、個人個人の事情に合わせた休日の取り方を選んだ方が良いと思います。私は、8月のお盆の時期に生まれ故郷である富山へ行ってきました。年に数回は富山へ行くようにしているのですが、ある年から必ず足を運ぶ場所があります。それは自然と人が調和できるように造られた「富岩運河環水公園」です。
私は高校生の時まで富山市に住んでいましたが、その当時、この公園は存在していませんでした。この場所がどんな場所であったのかも記憶にありません。記憶にないというよりは、この場所へはほとんど行ったことがなかったということです。当時の富岩運河は、貯木場(木材置き場)になりつつあって運河としての役割を果たしていなかったようです。貯木場であったことで樹皮がヘドロ化し、それが堆積して悪臭を放ち、蚊やハエの発生源となっていたそうです。そんな場所だったので、当時の人たちは好んで訪れたりはしなかったのです。そんな場所が、どのようにして市民が集い、観光客にも知られるような場所に変わってきたのでしょうか。その成り立ちを探ることで「克服から共生へ」という言葉を考えてみたいと思います。
●神通川が富山城のお堀
「富岩運河環水公園」は、富山市の中心を流れる神通川と密接な関係があります。富山県を流れる代表的な一級河川(神通川、常願寺川、黒部川、庄川、小矢部川)は全て急勾配なことで有名です。日本アルプスから流れる雪解け水は、急勾配の川を下ってくることで上・中流部分は日本屈指の急流になっています。明治時代に川の工事のために来日したオランダ人技術者は、流れが速い川を見て「これは川ではない、滝だ」と驚愕したそうです。2024年のオリンピック・パラリンピックが行われたパリを流れるセーヌ川のゆったりとした流れとは、比べ物にならない急な流れです。これらの河川は、水運や水産資源などの豊かな恵みを与えてくれる一方で、水害という厄介な災いも一緒に与えてくれました。かつての神通川の川筋は、現在のような富山市の中心部を直線的に流れるものではありませんでした。現在の富山市磯部という所から大きく東側へ湾曲していました。これは、神通川の左岸側から流れ込む井田川が大洪水で神通川の右岸を突き破ったことで、右へ大きく湾曲した流れになったものでした。
戦国時代(織田信長や豊臣秀吉が活躍した時代)、越中(現在の富山県)の半国を与えられた佐々成政(さっさなりまさ)が、富山城に大規模な改修を加え、堅固な浮城にしようとしました。湾曲した神通川の川筋が洪水などで流れを変えないように、蛇行が始まる場所に巨岩を積み重ねた頑丈な石垣堤防を築き川筋を湾曲のまま固定したそうです。さらに下流には巨木を積んで天然のダムができるようにして、神通川を富山城の天然の外堀に仕立てたようです。
佐々成政が豊臣秀吉に降伏した後、富山城は前田氏の持城になりました。その当時は神通川を渡るには、渡し船を使っていました。前田氏が城主となってから、「船橋」という特殊な橋を造ったそうです。
「船橋」とは川幅に小さな木船を並べ、これを鎖で繋ぎ両河岸に固定し、その船の上に板を並べて渡れるようにしたものです。船は64艘並べ、その上に長さ9.5m、幅36cmの板を4〜7枚並べたそうです。この様子は歌川広重の浮世絵にも「越中 富山船橋」として描かれています。この「船橋」は大水で橋の船が流失する危険がある時は、船を繋いでいた鎖を外し流れないように船を保護したそうです。
このような橋は明治時代の中頃まで続き、その後は木製の木橋に架け替えられました。
●馳越線(はせこしせん)工事とは?
その後も蛇行した神通川は湾曲のために堤防の決壊が続いたそうです。さらに、架け替えた木橋は川の水を堰き止めることとなり水害が増していたようです。水害で多くの被害を受けていたにもかかわらず湾曲した流れを大切にしてきたのは、港と町を繋ぐ海運業により多くの恩恵があったからでもありました。しかし、毎年氾濫を繰り返していたので、これに掛かる費用も膨大なものになったことで、本格的な対応を検討したそうです。その結果、オランダ人技術者が立案した案の一つである分流計画を採用しました。この分流計画が「馳越線工事」と呼ばれています。「馳越」とは「山から馳せてきた川の水が堤防を越すこと」を意味する富山県だけで使われる用語のようです。「馳越線工事」は、川の湾曲部分から海へ向かって直線的に幅2mの分水路(これを馳越線と呼ぶ)を掘り、ここへ溢れた川の水を流すというものです。そして、流れ込んだ水の勢いを利用して水路の幅を広げていくというものでした。
人力で大きな水路を掘るのではなく、自然の水の力を利用した計画案であったということです。大きな洪水が発生するたびに分水路へ多くの水が流れ分水路の幅が広がり、ついに湾曲した川には水がほとんど流れなくなり、馳越線が現在の神通川の流れになったのです。
神通川の湾曲していた部分は、わずかな流れを残すのみとなり、これが現在の「松川」です。
旧川筋の周辺には、約170haにおよぶ廃川地と呼ばれる荒地が残され、街づくりの障害になっていました。
●富岩運河の変遷と廃川地の復興
この廃川地の活用については都市計画事業として行うことが決定され、東岩瀬港(現、富山港)から富山駅北まで約5Kmの運河を作り、運河を掘った時の土砂で廃川地を埋めることになりました。こうして完成した運河が「富岩運河」でした。運河作りにこだわったのは、港と町の中心部が繋がることで、船による物資や資材の運搬が非常に便利になり、運河沿岸を一大工業地帯にするという目的があったからです。この頃のビッグニュースとしては、埋め立てられた廃川地に神通球場(現、芝園中学付近)という野球場があり、日米野球大会が開催され、ベーブルースが出場しホームランを放ったというものでした。
さらに廃川地は、街路などの都市基盤が整備され、県庁や市役所、電気ビルなどのオフィスビルや学校、住宅が建ち、現在の富山の中心市街地として発展していきました。しかし、高度成長期になるとトラック輸送が交通手段の中心となり、人口の増加に伴い土地の宅地化が進むという状況になってきました。一大工業地帯としての工業立地の優位性はなくなり、「富岩運河」は本来の運河として利用されなくなりました。この状態が、冒頭述べた「ヘドロが堆積して悪臭を放ち、蚊やハエの発生源となっていた」ということでした。利用されなくなった運河は埋め立てて道路にする計画も作られ、「富岩運河」消滅の危機を迎えました。ところが時代の流れは、物よりも心のゆとりや潤いを求める時代になっていきました。都市部の貴重な水面として見直され、「ポートルネッサンス21計画」「とやま都市MIRAI計画」などの計画に基づき、運河緑地、都市公園として環境整備が進められ、「富岩運河環水公園」が完成しました。また、県の事業として水公園プランが推進され、「富岩運河環水公園」を中心としてイベントが開催されるなど、川や水に対する姿勢は大きく変わっていったそうです。川は「克服の対象」から「親水・共生の関係」へと転換したということです。
●長い年月のもとでの「克服から共生へ」
120年以上前の神通川の馳越線工事は、水害の克服だけではなく、富山の都市計画、街づくりの基点になったといえます。川は克服すべき対象から、ともに歩んでいく共生の対象となっていきました。過去の廃川地は富山市の中心部になり、「富岩運河」を活用するとともに「富岩運河環水公園」を整備し、市民や観光客が楽しく過ごせる新しい街へと発展していきました。困難を克服するという場面は、私たちの生活や仕事の中でも多くあります。私たちが生活したり仕事をしたりしている上では、常に大小様々な困難と闘う場面があります。小さな困難であっても、それを乗り越えるということは価値あることだと思います。それが大きな困難の場合は、全てを乗り越えることは難しく、段階的に乗り越える必要があり、時間と労力がかかります。長い時間の経過の中では、環境が様々な方向へ変化し、新たな道が見つかる可能性も出てきます。馳越線工事は全ての水害という困難を解決する手段ではありませんでしたが、困難を乗り越える一歩だったと思います。段階的に乗り越える過程では、環境の変化を認識し柔軟に対応したことで、現在の富山市の発展に繋がってきたと思います。「克服から共生へ」という言葉は、克服とは将来の共生を目ざすための一手段だといっているように思います。8月に富山へ行き、この馳越線工事に関連のある場所を観てきました。現在の景色からは、想像できない物語を知ることができました。
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