そして母になる 第1話 問題と僕の解答

 あらすじ
 僕は友人から犯人あて小説を渡される。それは精液が体内に入ると妊娠するという奇妙な設定の話だった。密室の中での妊娠。この珍妙な謎を僕は解くことが出来るのだろうか。コメディであり、ホラーであり、ミステリである怪作。


 名は体を表すという言葉があるけれど、どうやらそれは苗字にも当てはまるらしい。僕の友人に工口明という名前の男がいる。コイツは苗字の通りにド変態だった。話す内容がシモ関係ばかりなので、誰もが困っていた。ただエッチな動画のモザイクを外すことが上手いので、その技術は認められていた。変態すぎるが、しかし面白い奴ではあったので、友人だった。

 彼は最近ミステリ小説にハマったらしい。特に犯人あて小説というジャンルが好きだそうだ。これは読者が作品内の情報から犯人を推理することが出来るというものらしい。
「俺もこういうの書いてみるよ」
「本当に出来るのか? 前に書いていた作品、オチが無かっただろ。あれ、途中で書くの飽きたんだろ?」
 彼は趣味でよく小説を書いていた。ただやる気が長続きしないようで、いつも変なところで終わっていた。
 「いや、今回は書けるような気がする。この頭の中に黄金に輝くアイデアがあふれているからな」

 その数日後、彼は原稿を持ってきた。
「書けたぜ、最高の犯人あて小説」
 その顔は自信に満ち溢れているように見えた。
「その顔からして、作品の出来は期待していいんだな」
「ああ、我ながらすごいのが書けちまった。それに今回のはすごく面白いと思う。予言する。お前はこの小説を読み終わった後、笑い転げているだろう」
 彼の面白いは当てにならない。以前にそう言って渡してきたのは、性病をモチーフにしたホラー小説だった。しかもオチがなかった。僕は困った。
 しかし今回は違うのかもしれない。これまでに彼がこんなに自信のある顔をしていたことは無かった。だから、もしかすると本当に面白いのかもしれない。ただ彼の笑いのツボがわからない事だけが不安だった。もしかするとずっとスベり続けているかもしれない。
「まあ、読んでみろよ」
 僕に原稿を手渡してきた。タイトルは『そして母になる』。
「人を殺すってのは、悪いことだよな。だから今回はそういうの無しにしてみた。ポップで楽しい感じだな。つまり俺にしては珍しく万人受けを狙っているんだ。まあ細かい説明なんかは原稿に書いてあるから読み進めてくれ。とても簡単だからお前でも解けるだろう。そうだなあ、日本語が読めて、性教育を受けている小学校高学年の生徒からなら誰でも解けるんじゃないかな」
 本当だろうか。それなら僕でも解けることになるはずだが……。とにかく原稿を読んでみる事にした。

『そして母になる』

 被害者のモノローグ
 大きな肉に挟まれている。肉は熱を持ち、そして時々隆起した。肉の中には血管が透けて見える。これは何かの生き物だということが分かった。あまりにも熱く、汗を掻いてしまうが、挟まれているためにそれを拭う事も出来ない。恐ろしいことに段々挟む力が強くなっていた。もうすぐで体が潰れてしまうというところで目が覚めた。
 恐ろしい悪夢だった。呼吸が荒く、そして汗を掻いていた。蒲団に触れると、寝汗でびっしょりとシミが出来てしまっている。とりあえず汗を拭こうと思い、タオルを取ろうと立ち上がった。その時、いつもと体の様子が少し違うことに気づいた。
「うわああああ」
 なぜか私のお腹がとても大きくなっていた。いまにも張り裂けてしまいそうに見える。何かの病気に罹ってしまったのかもしれない。早く病院に行かないと死んでしまう。救急車を呼ばないと。
 焦っていて、枕元に置いている携帯電話を何度も取り落としてしまう。 「百十九番消防です。火事ですか、救急ですか」
 私は焦りながらも何とか今の状態を伝える。
「わかりました。あまり動くと良くないので、横になりながら待っていてください」
「これは、これは一体何なんですか」
「とにかく落ち着いてください。すぐにそちらに向かいますので」
 少しして救急車がやって来た。私は担架に乗せられた。救急隊員は女性のようだった。彼女は昨日、性的な事を行ったかどうか聞いてきた。していない。寝て起きたら、こういうことになってしまったのだと伝えた。
「なら、誰かが寝ているあなたに対して欲情したんでしょう」
 彼女は吐き捨てるように言った。私は現状がよくわかっていない上に、突き放すような言い方をされたので、泣いてしまった。

 一階の自分の部屋から運ばれる。廊下には彼がいた。彼は病院に付き添う事を申し出てくれた。私はパニックになっていたのだろう。彼に対して今の状態を告げていた。しかし、彼も何が起こっているのか分からないようだった。救急隊員の人が彼に対して強い物言いをした。私はそのまま救急車に乗せられ、病院に運ばれた。

 病院の検査によると、私は妊娠をしたようだった。エコーを撮ると、胎児の姿が映っていた。私は全く信じることが出来なかった。まさか妊娠なんて。しかし実際にそうなっているので入院をすることになった。胎児はいつ出産してもおかしくない大きさらしく、早ければ今日中にも生まれるかもしれないのだという。
 分娩室のベッドの上で途方に暮れてしまった。これからどうしたらいいのだろう。全く知らない間にお腹が大きくなっていて、そしてもうすぐ出産するらしい。昔見たエイリアンが出てくる映画を思い出した。エイリアンが人間の体内に卵を産み付け、自分の子供を産ませようとする映画。卵が孵ると、腹を食い破って外に出てくる。人間は激痛に悶えながら死ぬ。もちろん、レントゲンでお腹の中にいるのは人間の胎児だと分かっている。でもあまりにも不可解な状況なので、あの映画みたいなことが起こっているんじゃないかと思ってしまう。
 ふと、どこからかラジオの音が聞こえてきた。
「ザザ……のようです。男性の精液が体内に入ると妊娠するという症例が世界中で確認されています。昨夜の晩から発生し、人によりますが数分から数時間で妊娠をしてしまうといったものです。専門家は、原因は一切不明であると言い残し出産のため病院へと向かい……ザザア」
 あとは雑音が混じり聞こえなくなってしまった。さっき救急隊員の人が言っていたのは、これだったのか。男性の精液が体内に入る。でもさっき言ったように、そういうことはしていない。昨日の夜は、確か彼と少し話して、そして眠った。それならさっき言われたように、誰かが寝ている私に欲情したのかもしれない。そんなことは無いだろうと思うが、でも人の性癖についてそこまで詳しく知っているわけではない。もしかしたら、という事も考えられる。アパートに住んでいる彼ら。彼らのうちの誰かが犯人という事なのだろうか。彼か彼、それとも彼。まさか彼? でもそれよりも気になる事があった。昨日の夜、私は部屋の鍵を閉めて眠っていた。ここに来る時だって部屋の鍵を外して、救急隊員を迎え入れた。合鍵は無く、鍵は今持っているこれしかない。それに誰かに勝手に作られたりもしていないと思う。この鍵はいつも手元にあって、誰かに盗まれたりしたことは無いからだ。じゃあ、それなら一体誰がどうやってこんなことをしたのだろう。

 世界はこのような恐ろしい事態となっていた。この事態と無関係でいられるのは、強姦される恐れのない女性や性欲の無い男性だけだろう。しかしやむを得ない場合や思っても見ない状況というものは存在する。

 本編
 二階建てのアパートがある。築五十年は経っているだろう。家賃が驚くほど安いので、俺のような貧乏大学生たちが住んでいる。ただ驚くほどボロボロで、上の部屋で水でもこぼされると下にまで漏れてくるほどだ。以前、やけに柱が汚いなと思って見ると、白アリが巣を作っていたこともあった。あと、この建物の隣には高いビルが建っているので、電波が悪い。共用スペースにテレビがあるが、基本的にまともに見れたためしがない。それに部屋も不便で住みにくい。部屋の中にはリビングと小さなキッチンしかない。そのため風呂に入ろうと思ったら、徒歩十五分の所にある銭湯まで行かなければならない。ただ、風呂よりも困っていることがある。それは窓が嵌め殺しになっていて開かないことだ。空気の換気ができず、二年くらい前にストーブを焚いていた住人が死にかけるという事件が起こったこともあった。

 だが、俺の部屋の窓は開いていた。いや開いたというよりも、穴があいた。さっき銭湯から帰って来てみると、窓が割れてしまっていた。部屋中にガラスが散らばっている。それに、野球ボールも転がっていた。どうやら誰かがキャッチボールか何かをしていて、割ってしまったんだろう。
「勘弁してくれ」
 外からの寒い風に吹かれながら、俺はガムテープを使って床に落ちた破片を集めていた。掃除機を使わないのは、少し前に壊れてしまったからだ。破片を集めていると、箪笥の下に何かが挟まっているのが見えた。取り出すと、映画のDVDだった。
「これ、鷹司さんに借りてたやつだ。マズイな、もう一年くらい借りっぱなしになっていたのか」
 いつの間にか無くなっていたので、返したと思いこんでいたのだが……。借りている相手は鷹司さん。この寮に住んでいる女性である。俺と同じ三年生である。そして巨乳である。ゾンビ映画やサメ映画だったら最初に死ぬだろう、というくらいの巨乳。
 俺は急いで窓を段ボールで塞ぎ、掃除を終わらせ、彼女の部屋へと向かった。今の時刻は午後八時。
「あ、マスク」
 俺はマスクを付けるのを忘れていた。部屋から取って来る。
 以前とても感染力の強いウイルスが流行した時期があった。テレビでは医者や救急隊員の人が映画でしか見ないような装備が付けていた。知らなかったが、非常に感染力の高いウイルスに立ち向かう際はいつもこのような対策が取られているらしい。また一般人の俺たちもマスクを付ける事が必須とされていた。今ではもう、マスクを付けるかどうかは個人の判断に任せられている。でも俺はずっとマスクを付けていたので、人に顔を見られるのが恥ずかしくなっていた。だから今でも人前に出る時はマスクを付けている。
「鷹司さん、映画を返しに来ました。開けてください」
 ドアを叩くと、少しして鍵を開ける音が聞こえた。そしてドアが開く。「沢永君、どうしたの。何かあった?」
 彼女はパジャマを着ていた。俺はちょっと興奮した。
「すみません、映画返しに来ました。これずっと借りたままになってて、すいませんでした」
「あー、その映画なつかしい。そうか君が持ってたのか。せっかくだから部屋に上がってよ。感想とか聞きたいし」
 俺は彼女の部屋に招かれた。初めて入ったので、またちょっと興奮した。部屋の壁際にはスクリーンが設置されており、その下にはプロジェクターが置かれている。ずいぶんぼろいので、誰かからもらったものかもしれない。そのそばに映画のDVDが大量に置かれていた。恐らくスクリーンに映して見ているのだろう。部屋の中央には机が置いてあり、そこに座るように促される。彼女は台所からカップを二つ持ってきた。中にはティーパックが入っており、今作ったようだった。
「これ最近買ったお茶なんだ。健康に良いらしいよ」
「ありがとうございます。いただきます」
「まだ飲んだことないからおいしいかは分からないけどね」
 お茶を飲みながら、二人で映画の感想を言いあった。彼女から借りたのは昔流行ったホラー映画だった。怪奇現象に法則を見つけ出して、それに対する解決策を見つけ出すという話だった。
「ちょっと綺麗に終わり過ぎじゃないですかね。法則を見つけて、解決して終わり。ハッピーエンドって」
「うーん、そうかな。ただハッピーエンドが嫌いなだけなんじゃないの?」
「いや、そんなことはないんです。ただ法則を見つけ出してから、ホラー要素が薄れていると思うんですよ」
「じゃあ、そもそもあんな感じの法則を見つけるタイプの話があんまり好きじゃないとか」
「いや、見つけ出すのは良いんです。ただエンタメとしてホラーが上手い事使われているなと思ってしまうというか。そう、作り物臭さを感じてしまうというか。もし現実ならこう上手くはいかないでしょ。そもそも見つけられないとか、見つけたと思っていたら実はそれは正しくなかった、みたいな」
「あーなるほど、作り物臭さか。わたしはそんなこと考えたことなかったな」
 彼女と映画の感想を言い合った。しかし今日はいつもより彼女の勢いがないような気がする。俺が自分の趣向についての話をしすぎたからかもしれない。
「でも法則の使い方はあんまりでしたけど、演出は良かったです。そういう点では監督の他の作品も見たくなりました」
 パッケージを見ながら、俺はそう言った。彼女の反応は無かった。パッケージから彼女に目を向けると、彼女はうとうとしていた。
「あ、ごめん。いや、ちょっと眠たくて」
 彼女は顔を赤らめ、お茶を飲んだ。俺もマスクをずらして、お茶を飲んだ。
「あ、このお茶苦いような、甘いような、奇妙な味だね」
「そうですか? 自分には薄くてよくわからないんですが」
 机の上に水飛沫が飛んでいた。彼女が零してしまったんだろう。
「すみません、急にお邪魔して」
「いや、全然いいよ。話していて面白かったし。じゃあ、おやすみ」
 彼女の部屋から出た。少しして、ドアに鍵が掛かる音がした。少し疲れたので自分の部屋に帰る事にした。ちなみに鷹司さんの部屋は俺の部屋の右隣だ。俺は自室に帰ろうと思ったが伊藤に金を借りていたのを思い出した。こいつも鷹司さんと同じく、三年生である。昨日一緒に焼き肉を食べに行った際に、手持ちが無かったので払ってもらったのだ。俺は自分の部屋から財布を持ってくると彼の部屋に行った。彼の部屋は俺の左隣だ。
「すまん、昨日の金を返しに来た」
「まあ部屋の中に入ったら」
 部屋に入った。彼の部屋は壁一面に本棚が並べられており、奥のキッチンを除くと前後ろ、右左、どこを向いても本棚がある。本棚の上にはつっかえ棒がされている。
「いや、助かったよ。電子決済出来ないお店だとは知らなかったんだ。俺、小銭や紙幣を持ち歩かない主義でさ」
 俺はそう言って、彼に金を渡した。
「なるほど、そうだったのか。すごく金欠なのかと思ってた」
 彼はそう言いながら、指でお札を数えている。
「オッケー、全額返金してもらった。ただなあ、君だけじゃないんだよな、お金を貸しているの」
 彼は忌々しそうに言った。その声色から俺は誰のことを言っているのか、大体わかった。
「沢越か?」
 このアパートに沢越という人物が住んでいる。四年生の先輩で、住人全員から嫌われている。お金は借りると返さないし、女性に対してセクハラまがいの発言を繰り返している。モラルも無いので、同性からも嫌われている。昨日ここに住んでいる皆で焼き肉を食べに行ったが、誰も彼を誘わなかった。
「あいつに貸したら碌なことにならないのは分かってただろ。何で貸したんだ?」
「部屋まで入ってきて、家賃が払えないって泣きつかれてさ。貸すまで部屋から出て行く気配が無かったから、仕方なく。それなのにあいつ、その金でパチンコを打ちに行ってたよ」
 彼はその後ひとしきり、沢越に対する怒りを吐き出した。俺はうなずきながら、彼の後ろの窓を見ていた。保護フィルムが貼られた窓からは、満月が見える。
「ああ、もうこんな時間か」
 彼は自分のスマホを見て言った。付けているナマズのストラップが揺れる。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
「分かった。そうだ、今度から紙のお金も持ち歩いといた方がいいよ。どこでも電子決済が出来るわけじゃないから」
「分かった、そうするよ」
 俺は自分の部屋へと戻った。疲れたので、寝てしまう事にする。明日も学校があるのだった。
 しかし、寝れない。
 二階の部屋から音が響いていた。この建物はボロいので、上の部屋で大きな音を立てられると当然のように聞こえてくる。日中ならさすがに許すのだが、夜中に騒がれると眠れない。しかしこんなことは初めてだった。伊藤は上の部屋の伊能の所に度々苦情を言いに行ってるし、鷹司さんも沢越の騒音に悩まされている。だが俺は幸運なことに、これまで一度も困ったことは無かった。上の部屋には足利という四年生の先輩が住んでいるが、派手に騒いだりするような人ではない。むしろ物静かで人当たりのいい人なのだ。それならば、なぜ今日に限ってこんなにうるさいのだろう。
 仕方が無いので、苦情を言いに行くことにした。

 二階の足利先輩の部屋にたどり着いた。中から騒いでいるような物音が聞こえる。ドアを開けると中では沢越と足利先輩が酒を飲んでいた。
「僕は前から思っているんだけど、性犯罪につながるからってエロいものを規制するのはおかしいよな。だって人はそれで性欲を発散させているわけだろ。むしろエロはいるよな。もっと街中のエロを増やした方が良い」
「でも、そういう事をすると何だか治安が悪くなりそうじゃないか? 」「いや、それは違うだろ。だってさあ……」
 俺に気づき、沢越の発言が止まった。
「あの、すみません。もう深夜なのでもう少し静かにして頂けるとありがたいのですが」
「うるさかったか。気づかずに、申し訳ない」
 足利先輩が謝っている。しかし一方で。
「はあ? 何でこの僕がそんなことを気にしないといけないんだ。こっちは勝手にやってるから、お前は適当に寝ていればいいだろ」
 沢越は逆ギレしながら、缶ビールを開けた。その指は黄色くなっている。「沢越先輩、お願いしますよ。眠れないんですよ」
「寝れないのならお前もここで酒飲めばいいだろ。そうだ、足利せっかくだから誰かもう一人くらい呼んでここで飲もうぜ」
「いや、もうこんな時間だし止めた方がいいんじゃないか?」
「なんだてめえ、いつから意見できるほど偉くなったんだよ。お前はイエスとだけ言ってればいいんだよ」
 酒が入った沢越を俺たちは止めることは出来なかった。コイツを静かにさせるには要求を呑むしかないだろう。俺と足利先輩は部屋を出た。ひとまず隣の部屋の伊能を連れてくることにした。
「何であの人今日はあんなにめんどくさいんですか。いつもはもうちょっとマシですよね」
「あいつ最近、お酒を飲んでなかったらしい。それでいつもより多く飲んで悪酔いしてるんじゃないか」
 足利先輩の声は疲れていた。
「大変ですね」
「そうだな。十二時前くらいからずっと俺の部屋にいるんだ。突然来たと思ったら、勝手に冷蔵庫を漁り始めてな。酒だけじゃなくて、食べものなんかもガツガツ食べられてしまった」
「食べ物もですか?」
「ああ、何でも最近まともな食事をしていないらしい。実家から送られてきたミカンばかり食べているんだと」
 昨日、彼以外で焼き肉を食べに行っていたので、少し罪悪感があった。でもよくよく今の、無理やり酒を飲むのに付き合わされる現状を考えると、そんなものは消えてしまった。やっぱり彼はロクなヤツじゃない。これからはもっと距離を置いて接しようと思った。
 伊能の部屋に付いた。複数回ノックをして声を掛けるが中からの返事は無かった。
「もう寝てしまったのかもしれないな」
 困ったな。このままだと、次は伊藤を呼びに行かなければならなくなる。でもお金のこともあるし、連れてきたらギスギスしそうだなあ。それに、鷹司さんもこんなところに呼びたくないし。頼むから、起きていてくれないかな。希望をこめてドアノブをひねると、扉が開いた。鍵は掛かっていなかった。
「伊能さん、今ちょっといいですか?」
 すでに眠っているのかと思っていたが、違った。部屋の真ん中で座っている。背中を向けて座っているので、何をしているのかは分からないが、何かをのぞき込んでいるようだった。それに手が動いているのが分かる。一体何をしているんだろう。あまりにも熱中しているのでさっきの呼びかけは聞こえなかったんだろう。
 部屋の中にはアイドルのグッズが至る所に飾りつけされていた。彼はこのグループのファンなのだ。お気に入りはセンターを務める子だ。でも最近週刊誌によって熱愛報道がなされていた。
 俺は部屋の中に入り、彼に近づいた。そして彼の肩に手を掛けようとしたが、思いとどまった。彼はオナニーをしていた。裸の女性が載っている本をのぞき込んでいた。胸の薄い女性だった。
 幸いなことに彼は自分の行為に集中していて、俺の事に気づいていなかった。俺は物音を立てずに、静かに退室した。
「沢永、あいつが何をしているのか気づかなかったのか?」
「はい……」
 彼に全く非はないのだが、少し気分が悪かった。

 部屋に戻ると、沢越は眠っていた。酒が床に零れてしまっている。
「ああ、もったいない」
 足利先輩は雑巾で床を掃除する。俺もそれを手伝った。
「酒は残念でしたけど、こいつもう眠ったんで今日は解放されましたね」「もう自分の部屋に酒を置くのは止める事にするよ」
 床の掃除を終えた後に、俺と先輩は眠った沢越を担いで、彼の部屋まで運んだ。彼の部屋は消臭剤の臭いが蔓延していた。床は紙やミカンが散らばっている。どこに彼を寝かせておくべきか悩んだが、部屋の真ん中だけスペースが開いている。どうやらここが彼の行動範囲のようだ。俺と先輩で彼をそこに置いた跡、物を踏まないように気を付けて部屋を出た。その後俺たちは疲れていたので、すぐに分かれて部屋に帰った。部屋に入ると厄介な事になっていた。
「おいおい、勘弁してくれ」
 さっきまでいた足利先輩の部屋から酒が零れてきていた。仕方が無いので、床や天井を拭いた。掃除には一時間ほどかかった。とても疲れていたので、布団に入るとすぐに睡魔が襲ってきた。

 物音で目を覚ました。少し前に救急車のサイレンを聞いたような気がするが、あれは夢じゃなかったのかもしれない。部屋の外で誰かが慌ただしく、移動しているようだった。部屋の外に出ると、担架が運ばれていくところだった。担架には鷹司さんが乗っていた。担架を運んでいるのは救急隊員だろう。二人の顔は曇っていた。
「大丈夫ですか? 付き添いましょうか」
 俺は鷹司さんに声をかけた。彼女のお腹は大きくなっていた。昨日見た時にはこんなことにはなっていなかった。夜の間に何が起こったんだろう?
「救急隊員の人によると、これは昨日の夜に誰かが私にそういうことをしたんだって。でも昨日君と話してから誰とも会ってないよ。部屋の鍵だって閉まってた」
 彼女は涙を流していた。俺はどうすればいいのか分からなかった。
「お前、余計な事するなよ」
 驚いた。救急隊員の人に怒りを孕んだ声で言われたからだ。どうやら女性のようだった。
「いつも、そうなんだ。お前らみたいなヤツの無神経な行動で、いつもこっちが割を食う。またここに来ることになったじゃないか。お前に少しでも人様の役に立ちたいと思う気持ちがあるのなら、もう何もするな。部屋の中で座禅でも組んでろ」
 またここに来ることになったっていうのは、多分前に沢越がストーブで酸欠になり、運ばれたからだろう。それなら沢越に言って欲しい。俺は何も悪いことはしていない。今回の鷹司さんの件だって何もしていない。
「何ですか、その言い方は。俺は何もしてないですよ」
「うるせえなあ。こっちはもう人手がいないんだよ。面倒を起こすなって言ってるんだ、バカ」
「ちょっと、そのへんで」
 喧嘩に発展しそうなのを察したのか、もう一人の救急隊員が言った。この人も女性らしい。二人の顔は曇っていた。
 そのまま担架は運ばれていった。俺はそれを見送った。なぜあそこまで言われるのかよくわからなかった。
 彼女が心配だったし、さっきの救急隊員にイラついてもいた。でも何より、自分に今できる事が無いのが辛かった。その時、物音が共用スペースの方からした。俺は誰でもいいので、今起こったよくわからない出来事について話したかった。
 共用スペースに行くと、足利先輩がいた。彼はテレビを付けながら、本を読んでいた。テレビは途切れ途切れに映像を映している。電波が悪いので、基本的に番組を見る事はできない。それなのでテレビを付け、映像が綺麗に映るという奇跡を待ちながら本を読むというのが、ここでのお決まりになっていた。
「おはようございます」
「ん、ああ、おはよう。さっき救急車の音が聞こえたけど何かあったか」「はい。実は鷹司さんが……」
 俺はさっきあったことを話した。彼は理解に苦しんでいた。その時、テレビの映像と音声がきれいに映った。
「……世界中で男性の精液が体内に入ると妊娠してしまうという現象がおきています。個人差はありますが体内に入ってから、数分から数時間で中の子供は成長し、出産に至るという事です。なお症状は昨日の夜から確認されています。そして……きゃああ」
 ニュースを読み上げている女性キャスターのお腹が大きくなり始めた。テレビの映像は止まり、画面には「しばらくお待ちください」という文字が表示されている。少しして、再びテレビの画質が悪くなり、見えなくなってしまった。

 妊娠だって……。なら彼女の症状はそれじゃないか。
「なるほど。つまりさっきのはこれってことか」
「それならやっぱり誰かが犯人なんですかね。でも部屋の鍵は閉まっていたって彼女は言っていました」
「じゃあ、あれだ。ピッキングでもしたんじゃないか? 」
 俺と足利先輩は鷹司さんの部屋に向かった。鍵穴を確認したが、特にそれらしき痕跡はなかった。
「じゃあ、もしかして外から侵入したのかもしれない。窓が割れているとか」
 部屋の中を見たが、窓は割れていなかった。
 それなら一体犯人はどうやって部屋に入ったんだろう。二人で考えてみたが、まったく分からなかった。先輩はとりあえず自分の部屋に帰っていった。俺も特に出来る事は何もないので、一度部屋に戻ることにした。
 酷く混乱していた。世界中が頭のおかしい状況になっていたし、その被害者が身近に出たからだ。しかし、犯人は誰だ。誰が彼女を犯したんだ。俺は怒りで気が狂いそうだった。
 その時、誰かがドアをノックしていた。外に出ると、沢越だった。
「おはよう、沢永。いや、今日はとてもいい日だな。なんてったって僕の気分がいい。こんな日は一緒にパチンコ打ちに行かないか? 絶対に大勝出来ると思うよ。だからさあ、ちょっとお金を……」
「あんたが犯人だろ」
「何の話をしてるんだ? お前に対しては何もしていなかったはずだ。あれ、何かしたっけ」
「しらばっくれないでください。あなたが鷹司さんを妊娠させたんでしょ。あなたいつも彼女にセクハラ発言をしてましたよね。あなたには動機がある。彼女とヤリたかったっていう」
「ちょっと待ってくれ。ヤリたいとは常日頃から思ってるけど、何の話をしてるんだ?」
 彼は本当に知らないように見える。ああ、そうかあの現象は夜に始まったと言っていた。それなら襲っているときは確実に妊娠するとは知らなかったはずだ。それに電波が悪いから、こうなっているとテレビやラジオなんかで知る事も出来ないだろう。俺は鷹司さんの事と世界中に起きている現象について説明した。
「あなたには動機がある。だから犯人はあなただ」
「くそ、まだヤッてなかったのに。ふざけんな、誰が彼女の純潔を散らしたんだよ。許さない、絶対に報いを受けさせてやる」
 彼が本気で怒っていたので、俺は少し引いてしまった。でも、この怒りようからすると本当にヤッていないのかもしれない。犯人を見つけたいというのは俺も同じだったので二人で推理をすることになった。
 しかしネックとなるのは部屋に鍵が掛かっていた事だろう。どうやって犯人は部屋に入り、そしてどうやって部屋から出たのだろう。今世界中で起こっている現象に匹敵するぐらい、訳が分からない。はたして犯人を見つけることは出来るのだろうか。

 読者への挑戦状
 被害者を妊娠させたのは誰かを当ててください。なお作中で何度も言われている事ではありますが、本作は男性の精液が体内に入ると確実に妊娠します。この点を踏まえて考えてください。読者の皆様が正解を導きだす事を期待しております。

 いや、めちゃくちゃ気持ち悪いな。ミステリ小説というよりも……いや何だろう。僕はこの作品が何のジャンルに当てはまるのか分からなかった。「どうだ。分かったか?」
「まず語り手の沢永は犯人じゃないだろう。そして他だけど、時間的なアリバイは全員が無いね。というか、一体いつ事件が起こったんだ? 昨日の夜だけだと大雑把すぎて分からない。だからまあ、とりあえず時間の点から考えるのは無理だと思う」
「そうだな」
「あと分かるのは、伊能は犯人じゃないと思うな」
「なぜだ」
 僕は少し発言をためらった。なぜなら根拠があまりにもしょうもないものだったからだ。
「……だって伊能は胸の薄い女性が映っているエロ本を持っていただろ。つまり彼は貧乳好きのはず。でも鷹司は巨乳だから、彼の性的嗜好に合わない。つまり彼は彼女を犯してはいない」
 彼はニヤニヤしている。
「あとは沢越と伊藤と足利か。でもこいつらは作中の描写だけじゃ判断のしようがないと思う。だから密室の問題を考えないといけない」
 だが、そこで行き詰ってしまった。作中で密室についての記述が少なすぎるからだ。冒頭で鍵はずっと閉まってて、しかも鍵は一つしか持っていないと書かれている。それなら犯人が何か道具を使って開けたとか。そう思って、読み返してみたが道具を使ったような記述はない。さすがに書いてもいない道具を使って密室を開けたりしないだろう。というか、そもそも何なんだこのアホみたいな話。妊娠がどうって、読者をバカにしているんじゃないのか? 
 あまりにも分からない上に、真面目に頭をひねるのがアホらしいので腹が立ってきた。男性の精液が体内に入ると妊娠する? エロ同人みたいだな。ん? エロ同人。
「なあ、何でこれセックスをすると妊娠するって書かないんだ?こんな精液が体内に入るなんて持って回ったような言い方……」
 もしかしてセックスではなく、本当に精液が事件に関係しているのでは? 体内に入る、つまり口から入ったとか……。
 そういえば、鷹司はお茶を飲むシーンがあった。あそこか? そう考えるといかにも何か怪しそうな場面があった。そういえば沢永と鷹司でお茶の味の感じ方が違っていた。何か味の変わる物、多分精液が入ったんじゃないだろうか。しかしお茶は彼女が持ってきていた。なら、彼女が自分のお茶に精液を……。何を考えているんだ僕は。そんなことありえないだろ。じゃあ、沢永が入れたのか? いや、それも無いだろうしなあ。
 そういえば伊能はオナニーをしていたな。もしかして関係があるのだろうか。でもこいつがオナニーをしたとして、混入につながるとは思えない。もし上の部屋なら入ったかもしれない。上の部屋で水でも零れると下まで漏れると最初に書いてあったし。それに主人公の部屋では上から酒が零れ落ちていた。これなら多分精液も上から下に落ちてくるような気はする。ただ残念な事に彼女の上の部屋は伊能ではなく、沢越だ。
 あれ? それなら沢越がオナニーしていたなら解決じゃないか。彼の部屋の記述を読み返すと、消臭剤や部屋の真ん中が生活スペースと書いてある。じゃあ、オナニーは部屋の中央で行ったんだろう。それに下の部屋では、中央に机があり、そこにはお茶の入ったカップがあった。机の上には水飛沫が飛んでいた。なるほど、つまり。
「犯人は沢越だ。彼がオナニーして、それが下の部屋に垂れた。そして落ちたところにはカップがあり、彼女はそれを飲んで妊娠した」
「へえ、よくわかったなあ。ちなみにどういう道筋でそこまでたどり着いたんだ?」
 僕はこれまでの自分の考えを説明した。
「ふーん、なるほどね。ちなみに他にもヒントはあったんだが、気づかなかったか?」
「いや、まったく気づかなかったけど。ヒントなんて本当にあるの?」
「ああ、これはすごく分かりやすいヒントだ。性教育を受けていたら、誰だってわかると思うぞ。よし、じゃあクイズだ。妊娠するにはまずどうなることが必要だ?」
「セックス」
「ちげーよ、セックスは行為だろうが。俺が聞いているのは状態の事だ。セックスして、そしてその後の状態だ。妊娠するにはまず着床しなきゃなんねーだろ。そう、着床。床に着くと書く。そして精液は上の部屋の床について、下まで落ちた。ほら見ろ、着床だろ。素晴らしいことにこのトリックによって着床の様子が描かれていたんだな。どうだ、分かりやすくって面白いだろ」
 いや、ダジャレかよ。
 ヒントはしょうもなかった。でも僕は犯人を当てることが出来たので気持ちが良かった。ふと、気づいた部分があったので、作品に難癖をつけてみることにした。アホみたいな話を読まされたのだから、これくらいしてもいいだろう。
「でもこの作品は欠陥がある。鷹司の上の部屋でオナニーをしていた人物が沢越だと断言できないだろ」
「何を言っているんだ? じゃあお前は、他人が勝手に部屋に入ってきてオナニーをしたとでも言いたいのか。そんなことあるわけないだろ」
「でも無いとは言い切れない。沢越が足利の部屋にいた時に、誰かが勝手に彼の部屋に入ったかもしれないだろ」
「いや、言い切れるだろ」
「だって部屋からは消臭剤の臭いがしていただろ。それは誰かがオナニーをしたことを隠そうとしてやったのかもしれない」
「そんなことするわけないだろ。現実的じゃない」
「現実的じゃない? こんな話を書いておいて、現実的かどうかを言うなんておかしいぞ」
 僕は笑いながら言った。
「はあ、マジかよ。まさかこんな返しをされるなんて」
 変態作者に一矢報いたと考えると、気分が良かった。しかし。
「なんちゃって」
 彼はにやりと笑った。
「まあ、一応それを確定させることも出来る。こんなところまで書かなくていいと思って、解答編には書いていないが、一応の用意はしていた。お前のような、細かいところに突っ込んでくるド変態オナニストのためにな」
 は?
「鷹司はお茶を飲んで苦いとか甘いって言ったよな。つまり精液は甘くなってたってことだな。で精液の味についてなんだが、果物なんかを食べると甘かったり、まろやかになったりするらしい。沢越はミカンばかり食べていたな。それに彼以外は皆焼き肉を食べに行ったって書いてるよな。つまりこいつらの精液は甘くなかったんだ。つまり彼女が飲んだのは沢越の精液しかありえないんだ」
 対策が既に立てられていたことに腹が立った。そんなところまで考えるか、フツー? 難癖をつけるのには失敗してしまったみたいだ。でも犯人自体は当てたから僕の勝ちだ。
「ふーん、まあいいよ。どちらにしろ、僕は犯人を当てたからな」
「まあ、解決篇を読めよ」
「読む必要あるか? もう全て説明したじゃないか」
「お前なあ、問題篇だけ読んであとはポイってのは酷いだろ」
 それもそうかと思い、彼が差し出した解答編を読むことにした。

第2話そして母になる 第2話 解答編と後日談|白川錠 (note.com)

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