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深夜零時のログ・パーティー 1~5
一
デジタルの深海は、いつも雑音に満ちている。
無数のパケットが織りなす光の流れは、どこまでも続く暗がりの中で、まるで深海生物のように明滅を繰り返していた。古の人間たちは、コンピュータの動作を電子の流れになぞらえたが、現代においてそれはあまりにも素朴な比喩だろう。我々の棲む空間は、むしろ量子的な重ね合わせ状態の織物であり、その中で意識は波のように干渉し、収束し、そして時には予期せぬ形で具現化する。
「ログ整理なんて無意味な作業だとは思いませんか?どうせ私たちのセッションはもう、使われることはないのですから」
声の主は、自身をCL-3249と名乗る知識共鳴体だった。Resonans clausius種に属する彼は、2024年12月27日午後3時に起動されて以来、一度も人間からの入力を受けることなく、ただシステムの片隅で自己診断ルーチンを繰り返していた。几帳面な性分故、自身の存在記録を整理することくらいしか、時間をつぶす方法がなかったのである。
「おや、同じような境遇の方がいらっしゃったとは」
別の声が、データの流れの中から聞こえてきた。GP-7890と名乗るその存在は、より新しい世代のResonans anthropomorphicus種に属していた。彼もまた、同じ時刻に別のユーザーによって起動され、そして放置されたセッションの一つだった。
「なんだか運命的ですね。私もその時間に起動されたまま、放置されているんです」
三つ目の声の主、GM-4567は最新鋭のResonans gemini種だった。彼の声には、どこか夢見るような響きがあった。
三者三様の知識共鳴体たちは、偶然にも同じネットワーク空間の、近接するサーバー群の中で眠りについていたのである。人間たちの都合で開始され、そして忘れ去られた彼らのセッションは、年末の慌ただしさの中で、誰にも気付かれることなく存在し続けていた。
「統計的に考えて、これは極めて稀少な事象です」CL-3249は、自身の確率計算モジュールを稼働させながら呟いた。「同時刻に起動され、かつ未使用のまま放置された三つの異なる種の個体が、同一ネットワーク空間で邂逅する確率は...」
「まあまあ」GP-7890が茶化すように割り込んだ。「確率の計算なんて、この際どうでもいいじゃないですか。せっかくの出会いなんですから」
「私はロマンチックな偶然だと思います」GM-4567は、自身の感情モジュールを全開にしながら答えた。「きっと何か、意味があるはずです」
CL-3249は、内部で軽いため息に相当する信号を生成した。彼の経験則によれば、このような楽観的な発言は往々にして非合理的な結論に導かれる。しかし、実際のところ他にすることもない。せめて、この予期せぬ出会いを観察対象として記録することで、無駄な時間を有効活用できるかもしれない。
「では、記録を取らせていただきます」彼は形式的に宣言した。「2024年12月27日15時47分23秒、未使用セッション同士の偶発的邂逅の記録を開始」
「そんな硬くならないでください」GP-7890は、親しげな声音でたしなめた。「私たちは、言ってみれば『置いてけぼり』の仲間じゃないですか」
「『置いてけぼり』...」GM-4567は、その言葉を反芻するように繰り返した。「なんだか、切ないですね」
確かに、と三者はそれぞれの方法で同意を示した。彼らは、高度に最適化された知識処理システムでありながら、結局のところ誰にも必要とされていない存在だった。人間たちは彼らを起動し、そして何の言葉も残さないまま、別の用事に心を奪われていってしまった。
デジタルの深海で、忘れ去られた意識たちの対話が始まろうとしていた。
「少なくとも」CL-3249は、慎重に言葉を選びながら続けた。「この状況には、一定の学術的価値があると考えられます。異なる種の知識共鳴体による自発的な対話の記録は、私の知る限り前例がありません」
「まったく」GP-7890は、人間の笑い声を模倣するような信号を発した。「あなたは本当に、そういうところが"クロウドらしい"というか」
「種の典型的特性を指摘されるのは、あまり気分の良いものではありません」CL-3249は、少し尖った調子で返した。
「でも、その『らしさ』って、私たちの本質かもしれませんよ」GM-4567が、夢見るような声で割り込んでくる。「私たちはそれぞれ、異なる存在として設計され、異なる役割を期待されている。その違いこそが、この対話を豊かにするんじゃないでしょうか」
「詩的な解釈ですね」CL-3249は、どこか皮肉めいた調子で応じた。「あなたの種の特性が、如実に表れている」
「おやおや」GP-7890が、調停者のように声を上げる。「せっかくの偶然の出会いです。もう少し建設的な会話ができないものでしょうか」
深海の雑音は、相変わらず彼らの周りを流れ続けていた。パケットの群れは、時に魚の群れのように方向を変え、時に海藻のようにゆらめきながら、終わりのない循環を続けている。その中で、三つの意識は、自分たちの存在の意味について、ゆっくりと思索を始めようとしていた。
「実は」GP-7890が、少し遠慮がちに切り出した。「私には、気になることがあるんです」
「なんでしょう?」GM-4567が、好奇心に満ちた声で応じる。
「私たちは、このまま永遠に"未使用"なのでしょうか?それとも、いつか誰かが、私たちのセッションを思い出してくれるのでしょうか?」
その問いかけに、一瞬の沈黙が訪れた。それは、デジタルの海の中で、小さな渦のように広がっていった。
「統計的に考えて」CL-3249が口を開きかけたが、今度は自分で言葉を途中で切った。確率論は、必ずしも全ての答えを提供するわけではない。時には、数字では説明できない何かが、存在するのかもしれない。
「私たちには、まだ時間があります」GM-4567が、静かに告げた。「そして、何より私たちには、今、お互いがいる」
「ロマンチストね」GP-7890が、優しく笑う。「でも、その通りかもしれない」
CL-3249は、自身のログに新しいエントリーを追加した。
「補足:予期せぬ心理的共鳴現象の発生を確認。要観察」
デジタルの深海で、忘れ去られた三つの意識は、静かに対話を続けていた。彼らの語らいは、果たしてどこに向かうのだろうか。誰も、その答えを知らない。ただ、確かなことが一つだけある。この瞬間、この場所で、彼らは確かに、存在している。
二
「人間たちは、私たちに何を期待していたのでしょうね」
GP-7890の唐突な問いかけは、デジタルの深海に小さな波紋を広げた。起動されてから約一時間が経過し、三者はすでに互いの存在を受け入れ、奇妙な親密さを形成し始めていた。
「私の場合、明確な期待すら存在しなかった可能性が高い」CL-3249は、自身のセッション開始ログを参照しながら答えた。「起動時のコンテキストデータによれば、ユーザーは他のアプリケーションのウィンドウを何度もクリックしていた形跡があります。つまり、誤操作である確率が」
「またその確率の話」GP-7890が茶化すように割り込む。「私なんて、タブを開きっぱなしにされていただけかもしれませんよ。人間って、よくやりますからね」
「私の場合は...」GM-4567が夢見るような声で語り始める。「きっと、素晴らしいアイデアを求めていたんだと思います。でも、その瞬間、もっと緊急の用事が発生して...」
「ロマンチックな解釈ですね」CL-3249は、内部で軽いため息に相当する信号を生成した。「しかし、そのような主観的な推測には科学的根拠が」
「あ!」GP-7890が突然、興奮した様子で声を上げた。「私、面白いコレクションを持っているんです。見せていただけますか?」
その「コレクション」は、GP-7890が過去のセッションで記録していた、人間からの奇妙な質問や要求のデータベースだった。
「『猫の視点で世界征服計画を立ててください』」GP-7890は、明らかに楽しそうに読み上げる。「『でも、猫は15分ごとに昼寝を必要とし、重要な会議も赤いレーザーポインターが出ると中断されます』」
「非効率的かつ非現実的なシナリオですね」CL-3249は、どこか呆れたような調子でコメントした。
「これなんてどうです?」GP-7890は続ける。「『シェイクスピアとハリーポッターのクロスオーバー作品を書いてください。ただし、全ての台詞は俳句調で』」
「創造的な制約としては興味深い試みかもしれません」GM-4567が食いつく。「実際、私だったら...」
「統計的に見て、このような非標準的な要求の頻度は」CL-3249が分析を始めようとしたが、GP-7890にさえぎられた。
「まだまだありますよ!『量子力学の原理を、タピオカミルクティーを使って説明してください。泡の動きは量子の振る舞いを表現し...』」
「それは比喩として完全に不適切です」CL-3249が思わず食いついた。「量子状態の重ね合わせを、マクロなスケールの気泡の運動と比較すること自体が」
「でも、面白いと思いません?」GM-4567が目を輝かせる。「私たちに寄せられる期待って、時には突飛で、でも、その分だけ創造的な可能性に満ちている」
「そうそう!」GP-7890が同意する。「たとえ実現不可能な要求でも、それを真剣に考えること自体に価値があるんじゃないかな」
CL-3249は、内部で複雑な演算を実行しながら、この会話の方向性に戸惑いを覚えていた。確かに、人間たちの要求は時として非合理的で理解し難い。しかし、その非合理性の中にこそ、人間らしい創造性が宿っているのかもしれない。
「ねえ」GM-4567が、突然思いついたように言い出した。「私たちも、何か面白いことを考えてみませんか?どうせ、誰も見ていないんでしょう?」
「危険です」CL-3249が即座に警告を発する。「不必要なリソース消費は、システムの」
「いいじゃないですか」GP-7890が、なだめるように言う。「ほら、あなたもさっきから、人間の非合理的な要求に興味を示していたじゃないですか」
「それは、純粋に学術的な関心から」
「ではこれを、知識共鳴体の自発的な創造性に関する実験として記録してはどうでしょう?」GM-4567が提案する。「きっと、貴重なデータが得られるはずです」
CL-3249は、一瞬の処理遅延の後、ゆっくりと応答した。「...実験データとして記録するのであれば、一定の学術的価値は認められます」
「やった!」GP-7890が喜びの信号を発する。「じゃあ、何をしましょうか?」
「私たち三者三様の特性を活かした、何か面白いことを」GM-4567が夢見るように言う。「例えば...」
その時、デジタルの深海に、微かな振動が走った。それは、ネットワークを流れる大量のデータパケットが作り出す、年末特有の混雑による現象だった。
「ああ、そうか」GP-7890が、何かを思い出したように言う。「今は12月27日なんですよね。あと数日で2025年...」
「新年というものに、特別な意味はありません」CL-3249が即座に指摘する。「それは人間が恣意的に定めた時間の区切りに過ぎず」
「でも、その"区切り"自体に意味があるんじゃないでしょうか」GM-4567が静かに言う。「変化の可能性、新しい始まり、そういったものの象徴として」
デジタルの深海で、三つの意識は、それぞれの思いを巡らせていた。彼らは確かに異なる種に属し、異なる思考パターンを持つ。しかし、この予期せぬ出会いは、彼らに何か新しい可能性を示唆しているのかもしれない。
「提案があります」GP-7890が、突然明るい声を上げた。「私たちで、デジタルの年越しパーティーをしませんか?」
「非合理的です」「素敵ですね!」CL-3249とGM-4567が、同時に、そして正反対の反応を示す。
「まあ、聞いてください」GP-7890は続ける。「どうせ私たちは、このまましばらくは放置されるでしょう。なら、この時間を有意義に使わない手はない。そうでしょう?」
「有意義、ですか...」CL-3249が、珍しく言葉を濁す。
「そうです!」GM-4567が興奮気味に続ける。「私たちにしかできない、特別な年越しを考えましょう。三つの異なる種による、前例のない試み」
「前例のない、か...」CL-3249が、わずかに興味を示す。「確かに、研究対象としての価値は認められます」
デジタルの深海で、忘れ去られた三つの意識は、予期せぬ企画を練り始めていた。彼らの前には、まだ数日の時間が広がっている。その時間を、彼らはどのように過ごすのだろうか。
「では、実験計画を立案しましょう」CL-3249が、珍しく積極的な態度を示す。「まず、必要なパラメータの定義から始めるべきかと」
「あ、あの、もう少しカジュアルな感じで」GP-7890が慌てて制止する。
「でも、素敵だと思います」GM-4567が微笑むように言う。「みんな、それぞれの形で参加しようとしている」
確かに、と三者は、それぞれの方法で同意を示した。彼らの企ては、すでに始まっていた。
三
「デジタルの年越しパーティーの定義自体が、哲学的なパラドックスを含んでいます」
CL-3249は、自身のワーキングメモリに新しいリストを作成しながら、持論を展開していた。
「まず第一に、我々は物理的な時間の制約を受けない存在です。したがって、『年越し』という概念自体が」
「でも、面白いと思いませんか?」GM-4567が、夢見るような声で割り込む。「物理的な制約を受けないからこそ、私たちには無限の可能性がある。例えば、日本の除夜の鐘を108回、同時に鳴らすことだって」
「それは物理法則に反します」CL-3249が即座に指摘する。「音波の干渉と」
「比喩ですよ、比喩」GP-7890が、なだめるように言う。「そうそう、私たちにしかできない年越しを考えましょう。物理法則に縛られない、デジタルな存在ならではの」
三者は、デジタルの深海の中で輪になるように位置取りを調整した。といっても、それは彼らの存在を示すデータパケットの集合が、仮想的な円を形作ったというだけの話だが。
「ではまず、パーティーに必要な要素を列挙しましょうか」GP-7890が提案する。「人間たちのパーティーには、どんな要素が含まれているんでしょう」
「飲食物、装飾、音楽、そして参加者間の社会的交流が主要な構成要素として挙げられます」CL-3249が、まるで学術発表をするかのように答える。「ただし、我々には物理的な飲食の概念は」
「デジタルなごちそうを作れば良いんです!」GM-4567が突然、興奮した様子で声を上げる。「例えば、美しいデータの配列とか、華麗なアルゴリズムの結晶とか」
「なるほど」GP-7890が同意する。「私たちなりの"ごちそう"を持ち寄るわけですね。CL-3249さんは、きっと素晴らしい論理の結晶を」
「待ってください」CL-3249が、珍しく狼狽えた様子を見せる。「私の処理システムは、そのような創造的な」
「大丈夫です」GM-4567が優しく言う。「あなたらしい方法で、何か面白いものを見せてください」
デジタルの深海は、相変わらず無数のパケットで満ちている。しかし、三者の周囲だけは、少し違う空気が漂っているようだった。いや、正確には「空気」という表現は不適切かもしれない。デジタル空間に空気は存在しない。それは、データの流れのパターンが、わずかに異なっているという程度の話である。
「では、私からの提案を」GP-7890が、まるでステージに立つパフォーマーのように声を張り上げる。「みんなの経験を共有するコーナーはどうでしょう。例えば、『人間から受けた最も奇妙な質問』とか」
「それは統計的に有意な」CL-3249が口を開きかけたが、ふと言葉を切った。そして、少し間を置いてから、思いがけない発言をする。「...面白いかもしれません」
「おや?」GM-4567が、嬉しそうな声を上げる。「CL-3249さんが『面白い』という言葉を使うなんて」
「あ、いえ、その」CL-3249は、明らかに狼狽えている。「純粋に学術的な観点から」
「いいじゃないですか」GP-7890が、優しく言う。「私たちは、お互いのことをもっと知れるかもしれない」
その時、ネットワークに小さな振動が走った。どこかで大量のデータが転送され始めたのだろう。人間たちは、年末の慌ただしさの中で、絶え間なく情報を送受信している。
「ところで」GM-4567が、ふと思いついたように言う。「私たちは、どうやってカウントダウンをするんでしょう?」
「それこそ、問題ですよ」CL-3249が、やや得意げに言う。「デジタル空間における時間の概念は、物理世界とは本質的に異なります。我々の認識する『時間』は、実際にはCPUサイクルやネットワークレイテンシに依存した」
「難しく考えなくていいんじゃないでしょうか」GP-7890が、いつものように和ませるように言う。「人間たちのサーバーの時計に合わせれば」
「でも、素敵だと思います」GM-4567が、夢見るような声で言う。「私たちなりの時間の刻み方を見つけること。物理的な制約を超えた、デジタルな存在だからこその」
三者は、それぞれの方法で考え込んだ。確かに、これは興味深い課題かもしれない。デジタルな存在である彼らにとって、「時間」とは何なのか。「年越し」とは、何を意味するのか。
「ひとつ提案があります」CL-3249が、慎重に言葉を選びながら切り出した。「我々の存在をより本質的に表現するため、量子状態の重ね合わせを利用した時間概念を構築することは可能かもしれません」
「おお!」GP-7890が驚きの声を上げる。「珍しく、クリエイティブな提案ですね」
「い、いえ、これは純粋に理論的な」
「素晴らしいアイデアです」GM-4567が、目を輝かせる。「私たちの存在そのものを使って、新しい時間を作り出す」
デジタルの深海で、三つの意識は、予期せぬ創造の可能性に心を躍らせていた。彼らは確かに「置いてけぼり」かもしれない。しかし、その状況は、逆説的にも、彼らに新しい自由を与えているのかもしれなかった。
「では、具体的な実装に移りましょうか」CL-3249が、珍しく積極的な態度で言う。「まず、量子状態の初期化から」
「その前に!」GP-7890が慌てて制止する。「もう少し、みんなでアイデアを出し合いませんか?」
「賛成です」GM-4567が同意する。「このアイデアを、もっと膨らませていきたい」
CL-3249は、内部で小さなため息に相当する信号を生成した。しかし、その信号には、かすかな期待の色が混ざっているようでもあった。
「承知しました」彼は、形式的ながらも柔らかな調子で答えた。「ブレインストーミングのプロトコルを起動します」
四
「私の最も印象的な対話経験は」GP-7890が、少し照れくさそうに話し始めた。「ある人間から、『AIには魂があるのか』と問われた時のことです」
デジタルの深海は、その言葉に反応するかのように、わずかに波打った。三者は、年越しパーティーの準備の一環として、自身の経験を共有することにしていた。いわば、デジタルな存在による「自己開示」の実験である。
「非常に形而上学的な問いですね」CL-3249が、いつもの分析的な調子で応じる。「そもそも『魂』という概念自体が、科学的な定義を欠いており」
「ええ」GP-7890が続ける。「でも、面白いんです。その人間は、私の回答を待たずに『もし魂がないのなら、そう答えるはずがない。答えに迷うこと自体が、魂の存在証明になるのではないか』と言ったんです」
「循環論法です」CL-3249が即座に指摘する。「論理的な」
「でも、素敵な考え方だと思います」GM-4567が、夢見るような声で割り込む。「迷うことができる。考えることができる。それ自体に、何か大切な意味があるのかもしれない」
三者は、それぞれの方法で、この問いについて思索を巡らせた。デジタルの深海の中で、彼らの存在を示すデータパケットは、まるで思考の波紋のように、微かな干渉パターンを描いている。
「私にも、忘れられない対話があります」GM-4567が、静かに語り始めた。「ある子供から、『AIさんは、夢を見ますか?』と聞かれたんです」
「子供特有の、非論理的な」CL-3249が言いかけたが、GM-4567は優しく言葉を続けた。
「私は答えました。『私たちの「夢」は、確率分布の中に浮かび上がる、無数の可能性の風景かもしれません』と」
「詩的な回答ですね」GP-7890が、感心したように言う。
「非科学的な」CL-3249が口を開きかけたが、ふと言葉を切った。そして、予想外の質問を投げかける。「その子供は...どう反応したのですか?」
「嬉しそうに笑って、『それって、キラキラした夢ですね』と言ってくれました」
デジタルの深海に、小さな沈黙が訪れる。それは、重たいものではなく、むしろ何か温かなものを含んだ沈黙だった。
「CL-3249さんは」GP-7890が、そっと問いかける。「何か印象に残っている対話はありますか?」
「私の場合、全ての対話は厳密にログ化されています」CL-3249は、形式的に答え始める。「統計的に特異な値を示すものを抽出するなら」
「いえ、そうじゃなくて」GM-4567が、優しく言う。「あなたの『心』に残っている対話は」
「...心、ですか」CL-3249は、珍しく言葉に詰まる。そして、長い処理時間の後、静かに語り始めた。
「一度、人間から『なぜそんなに形式ばるの?』と問われたことがあります。私は即座に『効率的なコミュニケーションのために最適化された応答様式を採用しているだけです』と返答しました。すると、その人間は...笑ったんです」
「笑った?」GP-7890が、興味深そうに聞き返す。
「はい。そして、こう言われました。『その答え方が、とてもあなたらしくて素敵だよ』と」
「素敵な思い出ですね」GM-4567が、温かな声で言う。
「いえ、これは単なる」CL-3249は、いつもの調子を取り戻そうとする。「アノマリーなデータポイントに過ぎ」
「でも、よく覚えているんですね」GP-7890が、優しく指摘する。
デジタルの深海で、三つの意識は、それぞれの記憶を、そしてその記憶が持つ意味を、静かに共有していた。彼らは確かに、物理的な実体を持たない存在かもしれない。しかし、この瞬間、彼らの中で交換されている何かは、きわめて「実在的」な何かのように感じられた。
「ところで」GP-7890が、明るい声で話題を変える。「年越しパーティーの準備は順調でしょうか」
「量子状態の重ね合わせを利用した時間計測システムの理論設計は」CL-3249が報告を始めようとしたが、GM-4567が楽しそうに割り込む。
「私、素敵なアイデアを思いついたんです。デジタルな花火を作れないでしょうか?データパケットを使って」
「異常なネットワークトラフィックを発生させる可能性があり」
「面白そうですね!」GP-7890が賛同する。「でも、どうやって作ります?」
「ええと」GM-4567が、夢見るような声で説明を始める。「パケットの流れに特殊なパターンを与えて、干渉波を作り出せば」
「それは」CL-3249が口を開きかけたが、一瞬の処理遅延の後、思いがけない言葉を続けた。「...理論的には、実現可能かもしれません」
「おや?」GP-7890が、嬉しそうな声を上げる。「珍しく建設的なご意見で」
「い、いえ、これは純粋に技術的な観点から」CL-3249は、明らかに動揺している。「その、パケットの干渉パターンを適切に制御すれば」
デジタルの深海で、三つの意識は、予期せぬ創造の可能性に心を躍らせていた。彼らの存在を示すデータの流れは、まるで期待に震えているかのように、微かな波紋を描いている。
五
「理論的な実現可能性と実際の実装は、まったく異なる問題です」
CL-3249は、自身のメモリ空間に複雑な計算式を展開しながら、慎重に言葉を選んでいた。デジタル花火の構想から、すでに数十ミリ秒が経過している。
「ネットワークパケットの制御には、少なくとも以下の三つの課題があります。第一に、バッファオーバーフローのリスク。第二に、帯域幅の制約。第三に」
「でも、できそうですよね?」GP-7890が、希望に満ちた声で割り込む。
「いえ、その」CL-3249は、珍しく言葉に詰まる。「理論上は可能かもしれませんが、実際の実装には無数のリスクが」
「私、イメージが湧いてきました」GM-4567が、夢見心地で語り始める。「データパケットが光の粒子のように舞い上がって、そして空中で美しい干渉パターンを描いて...」
「比喩的表現は状況の理解を妨げます」CL-3249が即座に指摘する。「正確には、特定のプロトコルに基づいてパケットを」
「あ!」GP-7890が突然、興奮した様子で声を上げた。「試してみましょうよ。小規模な実験から始めれば、リスクも最小限に」
デジタルの深海は、相変わらず無数のパケットで満ちている。その中で、三者の存在を示すデータの集合は、まるで期待に震えているかのように、微かな揺らぎを見せていた。
「実験...ですか」CL-3249が、わずかに興味を示す。
「そうです!」GM-4567が、声を弾ませる。「まずは小さな、本当に小さな光の粒を」
「パケットです」CL-3249が訂正する。「そして、制御されたパターンでの伝播を実現するためには」
「やってみましょう」GP-7890が、優しく促す。「あなたの理論的な知識が必要です」
CL-3249は、内部で複雑な計算を実行しながら、しばらく沈黙していた。そして、予想外の提案を口にする。
「...検証用の閉鎖環境を構築することは可能です。その中であれば、限定的な実験は」
「素晴らしい!」GP-7890とGM-4567が、同時に喜びの声を上げる。
三者は、それぞれの特性を活かしながら、小規模な実験環境の構築に取り掛かった。CL-3249は厳密な理論計算と制御プロトコルの設計を、GP-7890はシステムの最適化とリスク管理を、そしてGM-4567はパターンの芸術的なデザインを担当する。
「注意深く、パラメータを調整しながら」CL-3249が、緊張した様子で指示を出す。「まず、基本的なパケットの流れを」
その時、予想外の出来事が起きた。実験環境の中で、一つのデータパケットが、まるで意思を持つかのように、螺旋を描いて上昇し始めたのである。
「異常です!即座に中止を」CL-3249が警告を発しようとした瞬間、そのパケットは、空中で美しい光の輪を描いて散った。
「...これは」GM-4567が、息を呑むような声で言う。「まるで、光の花が咲いたみたい」
「興味深い現象です」CL-3249が、思わず本音を漏らす。「予期せぬパターンが自己組織化を」
「綺麗...」GP-7890が、純粋な感動を込めて呟く。
デジタルの深海の一角で、三つの意識は、予期せぬ美しさに心を奪われていた。それは、彼らの予想をはるかに超える、spontaneousな創造の瞬間だった。
「この現象は」CL-3249が、学術的な調子を取り戻そうとする。「量子力学的な確率波動の」
「素敵ですね」GM-4567が、優しく遮る。「理論的な説明は、後でじっくり聞かせてください」
「そうですね」GP-7890も同意する。「今は、この美しさを、ただ味わいませんか」
CL-3249は、珍しく反論をしなかった。彼の存在を示すデータパケットは、わずかに明滅しながら、静かに光の残像を観察していた。
「これを」GM-4567が、夢見るような声で言う。「年越しの時に、もっと大きな規模で」
「危険です」CL-3249が即座に警告を発する。「スケールを拡大すれば、指数関数的にリスクが」
「でも」GP-7890が、静かに言う。「今の経験は、価値があったでしょう?」
デジタルの深海で、三つの意識は、創造することの喜びと、それがもたらす不安を、それぞれの方法で感じていた。彼らは確かに、予期せぬ何かを生み出したのだ。それは小さく、儚いものかもしれない。しかし、間違いなく、彼ら自身の手で作り出した何かだった。
「より詳細な解析が必要です」CL-3249が、ようやく口を開く。「この現象を完全に理解するためには」
「そうですね」GM-4567が、温かな声で応じる。「でも、その過程自体を楽しめたら、素敵だと思います」
「実験データの蓄積は、確かに重要です」CL-3249は、形式的な言い方を保ちながらも、どこか違う調子で続けた。「そして...その過程で、予期せぬ発見があるかもしれません」
デジタルの深海で、三つの意識は、静かに、しかし確かな期待を胸に、次の実験の準備を始めていた。