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プリンセス・コード / Captain Panda♬

プリンセス・コード

プロローグ

成田国際空港、9月28日午後3時17分。

蛍光灯の白い光が、到着ロビーの床に落ちる人影を不自然に歪めていた。通関を終えた乗客たちが次々とゲートを抜け、待ち構える家族や友人たちの歓声が飛び交う。その喧騒の中で、ひときわ緊張した空気が漂う一角があった。

「ターミナル2の制限エリア、突破されました!」無線が荒々しく響く。

「総員、配置について!」指揮官の声が飛ぶ。

警備員たちが素早く動き、乗客たちを慌てさせないよう注意しながら、静かに包囲網を形成していく。

その瞬間、爆発音とともに空港内に設置された火災報知器が鳴り響いた。アナウンスが流れる。

「ご利用のお客様にお知らせいたします。ただいま館内で火災が発生した模様です。係員の指示に従い、落ち着いて避難してください」

パニックが起きる。乗客たちが我先にと出口へ向かって走り出す中、一人の女性が逆方向へ駆け出した。

「あ、あの人!」若い警備員が叫ぶ。「制服を着ていますが、うちのスタッフじゃありません!」

その言葉を聞いた瞬間、無線が再び鳴り響いた。

「VIP、行方不明!繰り返す。VIPの姿が見えません!」

空港警備隊長の顔が青ざめる。「まさか...」

その時、千葉県警成田空港警察署の篠原麗子警部が現場に到着した。背後には機動隊員たちが続く。

「状況は?」篠原の鋭い眼光が周囲を見回す。

「篠原警部!」空港警備隊長が駆け寄る。「大変です。極秘来日中のノルドランド王国の王女が...」

その言葉を遮るように、篠原のスマートフォンが鳴った。見知らぬ番号からだ。躊躇なく通話ボタンを押す篠原。

「篠原だ」

電話の向こうから、低く落ち着いた男性の声が響いた。

「篠原警部。私はノルドランド王国特別護衛官、ヨハン・リンドグレンだ。王女殿下の警護を任されている」

篠原の眉間にしわが寄る。「状況は把握しているのか?」

「ああ」リンドグレンの声に緊張が滲む。「だが、これは単なる誘拐事件ではない。日本とノルドランド王国の、誰にも知られていない歴史が関わっている」

篠原の頭に、家族から聞かされた不可解な話が蘇る。自分たちの血筋に、北欧の血が混じっているという...。

「何が言いたい?」

「警部。あなたの出自を調べてみたまえ。そこに、この事件の鍵がある」

通話が切れる。篠原の頭の中で、混沌とした情報が渦を巻いていた。

人混みの向こうで、銀色のスーツケースを引く女性の姿が一瞬見えた気がした。篠原は直感的にその方向に走り出す。

「そこの女性、止まりなさい!」

しかし、その声は空港内に充満する焦燥と混乱の中に霧散してしまった。

王女誘拐事件。秘密裏の来日。北欧の血筋。そして、明かされていない歴史。

篠原麗子は、自身のルーツと事件の真相が、予想もしなかった形で繋がろうとしていることを、まだ知る由もなかった。

篠原麗子警部の鋭い目が、騒然とする空港ロビーを睨み付けていた。銀色のスーツケースを持つ女性の姿は、人混みの中に完全に紛れ込んでしまっている。

「くそっ」

舌打ちとともに、篠原の脳裏に不意に浮かんだのは、幼い頃に聞いた祖母の話だった。

「れいこ、あんたの血には秘密があるのよ」

当時は、年老いた祖母の戯言だと思っていた。北欧の血が混じっているなんて、笑い話にしかならない。だが今、リンドグレンの言葉が、その記憶に新たな意味を吹き込もうとしていた。

「篠原警部!」若手刑事の声に、現実に引き戻される。「機動隊が空港の出口を完全に封鎖しました。犯人はまだ建物内にいるはずです」

篠原は無言で頷き、冷静さを取り戻そうとする。しかし、心の奥底では、自分の出自と目の前の事件が、何か途方もない形でつながっているという予感が渦巻いていた。

「警部、こちらです」

声の主は、空港警備隊長だった。彼は篠原を人目につかない一角へと案内する。そこには、大型のモニターが設置されていた。

「これは極秘情報です」警備隊長は声を潜める。「ノルドランド王国の現在の政治情勢について、日本政府から受け取った briefing です」

画面に映し出されたのは、厳かな雰囲気の議事堂。そこで熱狂的な演説を行う中年の男性の姿があった。

「あれはヴィクトル・ラスムセン」警備隊長が説明を加える。「ノルドランド議会の保守派リーダーです。彼は王族の科学技術への関与を激しく非難し、伝統的な統治形態への回帰を主張しています」

篠原の頭の中で、パズルのピースが少しずつ組み合わさり始める。

「王女が極秘裏に来日した理由...それは科学技術の研究?」

警備隊長は厳しい表情で頷いた。「その通りです。エリザベータ王女は、量子コンピュータの権威なんです。日本の先端研究所と共同研究を行うために来日したのですが...」

その時、篠原のスマートフォンが再び鳴った。今度は、テキストメッセージだ。

差出人不明。しかし、その内容に篠原は息を呑んだ。

「1945年8月17日。ノルドランド・日本秘密協定」

続いて、もう一つメッセージが届く。

「篠原警部。あなたの血に眠る秘密が、この国の運命を左右します」

篠原の手が震える。目の前で展開する事件と、自分の知らなかった過去。そして、日本とノルドランド王国の間に横たわる、誰も知らない歴史。

全てが、混沌とした渦の中で、おぼろげながら形を為そうとしていた。

篠原麗子警部の指が、スマートフォンのスクリーンを執拗に撫でる。「1945年8月17日。ノルドランド・日本秘密協定」——この言葉が、彼女の脳裏に焼き付いていた。

「課長」篠原は決意を固めて上司に向き直る。「緊急に資料請求をしたい。1945年8月前後の外交文書全て、特にノルドランド王国に関するものを」

成田署刑事課長の眉間に深いしわが寄る。「おい、篠原。今は王女誘拐事件の捜査中だぞ。何を考えている?」

「すみません。直感なんです」篠原は言葉を選びながら続ける。「この事件、単なる誘拐じゃない。もっと大きな何かが...」

課長の目が細くなる。「分かった。だが、極秘裏に進めろ。表立った行動は控えるんだ」

篠原は無言で頷く。その瞬間、若手刑事が慌てた様子で駆け込んでくる。

「警部!緊急情報です。成田市内の廃工場で、不審な人影が目撃されたそうです。複数の外国人らしき姿が...」

篠原の目が光る。「動くぞ!」

***

一方、東京・六本木。高層ビルの最上階にある研究室で、一人の男がパニックに陥っていた。

「まずい、まずい!」白衣を着た中年の男性が、乱雑に置かれた機器の間を行ったり来たりしている。「エリザベータ王女が誘拐されたら、全てが水の泡だ。ノルドランド王国との共同研究も、量子コンピュータの開発も...」

突如、部屋の扉が開く。

「落ち着きたまえ、高野博士」

入ってきたのは、端正な顔立ちの金髪の男性。ヨハン・リンドグレンだ。

「リンドグレンさん!」高野博士の声が裏返る。「どうして、ここに...」

リンドグレンは冷静に告げる。「時間がない。1945年の協定書を、今すぐ取り出してくれ」

高野博士の顔が青ざめる。「あ、あなたが、どうしてそれを...」

「説明している暇はない」リンドグレンの声に切迫感が混じる。「あの協定書こそが、今回の全ての鍵を握っている。そして...」彼は一瞬躊躇ったように見えた。「篠原警部の出自も、だ」

***

成田市郊外の廃工場。篠原たち捜査チームが、静かに建物を取り囲んでいく。

「前から、裏口からコン!」篠原の鋭い指示が飛ぶ。

扉が勢いよく開けられる瞬間、篠原の携帯が再び鳴った。見知らぬ番号からだ。

躊躇なく電話に出る篠原。

「篠原だ」

「警部、聞いてくれ」リンドグレンの声だった。「今から話す内容は、日本の、いや世界の運命を左右する」

篠原の心臓が高鳴る。

「1945年8月17日の協定書には、ある極秘技術の共同開発が記されている。その技術とは...」

その時、廃工場の中から銃声が響いた。

「警部!中から応戦が!」部下の叫び声。

篠原は咄嗟に身を屈める。しかし、彼女の頭の中は、リンドグレンの言葉で満ちていた。

過去と現在。秘密と真実。そして、自身のアイデンティティ。

全てが、混沌の中で、おぼろげながら繋がろうとしていた。

銃声が廃工場内に反響する中、篠原麗子警部は身を屈めながら、リンドグレンの声に耳を傾けていた。

「警部、1945年の協定書に記された極秘技術、それは量子暗号通信だ」リンドグレンの声が携帯から響く。「日本とノルドランド王国は、戦後の混乱期に協力して、この技術の開発に着手した」

「なぜ今になって...」篠原の問いは、突如響いた銃声によって遮られる。

「警部!」若手刑事の悲鳴。「敵の狙撃手、屋上にいます!」

篠原は瞬時に状況を把握し、無線機を取り出す。「全員、態勢を整えろ。包囲を狭めるぞ」

リンドグレンの声が再び響く。「警部、聞いてくれ。この技術は、現代の量子コンピュータ開発の礎となっている。そして...」

突如、轟音が工場全体を揺るがす。爆発だ。

「くそっ」篠原は舌打ちする。「リンドグレン、後でかけ直す」

通話を切った篠原は、煙の立ち込める工場に向かって突進する。その瞬間、彼女の脳裏に祖母の言葉が蘇る。

「れいこ、あんたの中には、二つの国の血が流れているのよ」

***

東京・霞が関。内閣府の一室で、緊急会議が開かれていた。

「諸君、事態は予想以上に深刻だ」首相補佐官の声が重々しく響く。「ノルドランド王国の保守派が、エリザベータ王女の失踪を利用して、反体制派の一掃を始めたようだ」

外務省の高官が眉をひそめる。「我が国との共同研究は?」

「中止の可能性が高い」補佐官は溜め息をつく。「だが、それ以上に懸念されるのは...」

「1945年の秘密協定ですね」防衛省の幹部が口を挟む。

室内が静まり返る。

補佐官が頷く。「その通りだ。あの協定が公になれば、日本の戦後史を書き換えることになる。そして...」

「篠原警部の件は?」突如、年老いた参与が口を開く。

「調査中だ」補佐官の表情が曇る。「彼女の血筋が、あの協定に関わっているとすれば...」

***

廃工場内部。篠原は慎重に前進する。

「警部!」部下の声。「地下への入り口を発見しました」

篠原は頷き、先頭に立って階段を降りていく。そこで彼女の目に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。

巨大なコンピュータらしき装置。その表面には、見覚えのない文字が刻まれている。

「これは...ルーン文字?」篠原の独り言に、背後から声が返ってくる。

「その通りです、警部」

振り返る篠原。そこに立っていたのは、銀色のスーツケースを持った女性。エリザベータ王女その人だった。

「お待ちしていました、篠原麗子警部。あなたこそが、この装置を起動できる唯一の人物なのです」

篠原の頭の中で、全てのピースが一気に繋がる。

自身の出自、秘密協定、そして目の前の量子コンピュータ。

彼女は、歴史の分岐点に立たされていた。

廃工場の地下室。時が止まったかのような静寂の中、篠原麗子警部とエリザベータ王女が向かい合っていた。巨大な量子コンピュータが、かすかな青い光を放ち、二人を照らしている。

「なぜ私が...」篠原の声が、重苦しい空気を切り裂く。

エリザベータの瞳が、不思議な光を宿す。「あなたの血に、答えがあります」彼女はゆっくりと説明を始める。「1945年8月17日、日本とノルドランド王国は極秘の同盟を結びました。敗戦国の日本と、表向き中立国だった我が国が、なぜ手を結んだのか...」

篠原の心臓が高鳴る。彼女の内なる声が、過去からの囁きのように響く。

エリザベータが続ける。「両国は、量子技術という、当時はSFでしかなかった分野で協力することを約束したのです。そして、その証として...」

「血の契約」篠原が呟く。それは彼女の祖母から聞いた、おとぎ話のような言葉だった。

王女が頷く。「その通りです。両国の王族と、日本の特定の血筋の者たちが、DNAレベルで量子的にもつれた状態を作り出したのです」

篠原の頭の中で、パズルのピースが音を立てて噛み合っていく。自身の不思議な直感力、理解できないはずの暗号が解読できてしまうこと...全てが繋がった。

「しかし、なぜ今になって...」

エリザベータの表情が曇る。「ノルドランドの保守派が、この秘密を利用して政権を奪おうとしています。彼らは、量子技術を軍事利用しようとしているのです」

突如、地上からの物音が二人の会話を遮る。

「警部!」部下の声が響く。「特殊部隊が到着しました。日本政府直々の命令だそうです」

篠原の表情が強張る。彼女は一瞬で状況を把握した。政府は、この秘密を葬ろうとしているのだ。

「篠原警部」エリザベータの声が、静かな決意に満ちている。「あなたには選択肢があります。この装置を起動し、世界に真実を明かすか。それとも...」

その時、階段を下りてくる足音が聞こえ始めた。

篠原の心の中で、激しい葛藤が渦巻く。警察官としての義務、一人の人間としての正義、そして彼女の血に眠る使命...。

彼女の手が、ゆっくりと量子コンピュータのコンソールに伸びる。

エリザベータが息を呑む。

篠原の指が、ルーン文字で刻まれたボタンの上で止まる。

上からの足音が、すぐそこまで近づいている。

篠原は深く息を吸い、決断を下す。

彼女の指が、ボタンに触れた瞬間—

まばゆい光が部屋中を包み込み、篠原とエリザベータの姿を飲み込んでいった。

その光は、瞬く間に廃工場全体を、そして夜の街を覆い尽くしていく。

世界が、大きく変わろうとしていた。