鏡の中の音楽室 (2)
第一部 さくら と まゆ
第一章 二人の出会い
日本に未曽有の大災害が起こった次の年、日本国中が一心に復興しようと努力し、我慢し、必死に立ち直ろうとしているそんな年に、さくらとまゆはこの世に生を受けた。
安達さくらは、音楽が日常に存在している家庭に生まれた。祖父、安達勇は地元の中学の音楽教師だった。勇は、さくらが生まれた年にはすでに定年を迎えており、自宅で音楽教室を開き、情熱のある生徒にピアノを教えていた。さくらの父、安達進も祖父の影響を受けて中学校の先生になった。さくらの母、里香とは職場結婚なのだが、今はお互い別の中学に赴任している。やはり、祖父の影響もあり教育熱心であるため、課外活動や部活動の指導もしている。そのため、なかなか早く帰宅できない。だから、さくらは二世帯住宅の祖父母側の家で毎日を過ごしていた。
さくらは物心がついた頃から勇の影響を受けて、ピアノを弾くようになった。しかし、難しい曲や流行りの曲を弾くことは禁止されていた。さくらが聞いて覚えた曲を演奏するときでさえ、褒めるどころか「まだ早い」と言って、基礎練習や簡単な曲しか許してくれなかった。両親も「基礎をおろそかにしない」という勇の考えに賛同していたため、さくらに厳しく指導した。
さくらは幼稚園の年長さんの年、日曜日の深夜に流れていたテレビの番組で一度だけ聞いたバイオリンの曲を、耳で覚えている部分だけでもいいからピアノで弾きたくなった。その曲は情熱にあふれ、大きな陸地、いわゆる広大な草原、砂漠、山々さらに地平線が見える風景を連想させるものだった。でも、家では弾けないから、こっそり幼稚園にあるピアノで弾くことにした。幼稚園のピアノは、祖父が使っている「グランドピアノ」よりも小さい縦型、いわゆる「アップライトピアノ」と呼ばれるものだった。それでも、さくらは「自由に弾ける」という気持ちに満足していた。ただ、立って弾けば、鍵盤がちょうど目線の高さにきて見えにくくなり、いつも幼稚園の先生たちが使っている高さの椅子に座れば、ペダルに足が届かない。どちらにしても、思うような音が出せなかったが、ペダル操作を除けば、しっかり弾けるという選択をさくらは選んだ。椅子に座り、自由に弾ける喜びからたたき出された感情のこもった音は、まるで空間で踊っているかのようだった。
次の日もその次の日も、さくらはお迎えが来るまでピアノのある部屋に行っては、ピアノを自由に弾いていた。幼稚園の先生たちからも許可をもらっていたし、祖母、すみれが迎えに来る時間までには弾くのをやめていたので、何の問題もなく一週間が過ぎようとしていた。
そんなさくらを見ていたのが藤田まゆだった。まゆは典型的な会社員の父、藤田敦樹、それから銀行員の母、好美、妹のひかりの四人家族だった。ピアニストにあこがれていて、両親にピアノを買ってもらおうと一度おねだりをしたことがあった。しかし「お年玉100年分」だと言われ泣く泣く諦めた。だから、幼稚園のピアノを見るたびに弾きたくてたまらなかったが、弾くことができない。しかも遊び半分で触ると先生たちに叱られてしまうのではないかという思いもあり、まゆは今までピアノに近づくことさえ躊躇してしまっていた。そんなピアノに触れたことのないまゆの目の前で、さくらがピアノで上手に曲を弾いているのである。まゆはその姿を憧れのまなざしでずっと見ていた。
しかしある日、まゆはさくらがいつものようにピアノを弾いているところを見ているとき、突然まゆの中の欲求が大爆発を起こした。「これまで一度もまともに話したことがない相手に近づいていく」という行動に躊躇は何もなかった。まるで勢いよく打ち出されたキューボールのように、まゆはさくらのほうに飛び出したのである。まゆ自信にもこの行動は止められなかった。さくらはまゆに気づかずに夢中でピアノを弾いていた。さくらが弾いている曲はすごく情熱的でエネルギッシュで元気の出る素敵な曲だった。まゆは演奏を途中で止めてしまうと嫌われるかもしれないと思いながらも、一生懸命弾いているさくらに高ぶる感情を抑えることができずに思い切って声をかけていた。
「すごいね、こんな曲弾けるんだね」
まゆが声をかけると、さくらは驚いて振り返った。
「あ、ごめんね、邪魔しちゃった?」
「ううん、大丈夫」
さくらは照れくさそうに笑った。
「この曲、何ていうの?」
「名前がわかんないんだ。日曜のね夜に、トイレに行きたくなって目を覚ました時に、パパが見ていたテレビで流れていたんだ」
「さくらちゃんは、その時に聞いただけなの?」
「うん、それ聞いたら目が覚めちゃって、頭に残ったの。でも、これって家では弾けないんだ」
「え?どうして?」
「おじいちゃんやパパがまだ早いって言うの。でね、まだひいちゃいけないのがいっぱいあるの」
「そうなんだ」
まゆは不思議そうに言った。
「でも、すごく上手だよ。まゆもこんな風に弾けるようになりたい」
「ありがとう。でも、さくらもまだまだだよ。ペダルに足が届かなくて、聞いた時の音とはぜんぜん違うんだ」
さくらは困った顔をした。
「ペダル?」
「うん、これ」
さくらはピアノの下を指さした。
「これを踏むと、音が変わるんだよ。でもね、さくらは届かないから、どうしようもないんだ」
「そうなの。じゃあ、まゆが踏んであげようか?」
まゆは思い切って言った。
「え?本当に?」
さくらは今まで、まゆの前では見せたことない笑顔を見せて答えた。
「うん、いいよ。まゆもピアノが好き。けど、まだ触ったことがないんだ。だからやってみたい」
まゆもピアノに初めて触れるとあって、表情は自然と笑顔になる。
「じゃあ、まゆちゃんはここに立ってね。真ん中のペダルは使わなくていいから、さくらがこっちの足をまゆちゃんのここに当てると、まゆちゃんはこっちのペダルを踏んで。で、こっちの足をまゆちゃんのここに当てたら、今度はこっちを踏むの。できる?」
さくらは嬉しそうに言った。
「わかんない。けど、やってみる」
まゆは、直接鍵盤を弾くのではないが、おもちゃのピアノにはなく、本物のピアノにしかない部分を操作できるとあって、興奮と期待から声がいつもより上ずっていることを感じていた。
「きらきら星っていう曲でやってみよう」
この時、さくらは今まで感じたことない高揚感に見舞われていた。そして、体中のエネルギーがすべて指先へ、さらに、まゆの体に流れていくのを感じた。
やはり最初からうまくいくはずもなかったが、徐々にさくらから流れてくるエネルギーと、その時々に必要な音を、まゆも無意識の中感じ始めていた。そして、体が自然と動くようになってから曲が全く違うものに変化し始めたのであった。
そして、ピアノの前の二人の動きがそろったとき、何かがはじけ飛んだ。さくらは自分がたたく鍵盤に集中し、まゆはさくらから合図をもらう前にどちらを踏むかが分かった。すると、今までの音が変わって、二人は聞いたことのない「きらきら星」を聞くことになった。
「なに・・・これ・・・すごい!まゆちゃ・・・ん?」
今までに味わったことのない感覚が、さくらの体中に残っているのを感じた。
「うん、こんなに変わるんだね。さくらちゃんってすごいね!」
まゆはさくらに流れた感動の電流が、自分が呼び起こしたものだとはこれっぽっちも感じてない。ただピアノを演奏できた喜びと、純粋にさくらの演奏に感動していた。二人のいた空間は、少しのあいだ時が止まったような静寂が流れた。
「もう一回!今度違うのでやってみよう!」
我に返ったさくらが大きな声出す。
「うん、もう一回!」
さくらと同じ声の大きさでまゆも返す。
二人はしばらく一緒にピアノを楽しんだ。これが本当の二人の出会いといってもいい出来事だった。
第一章 二人の出会い 完
次回 第二章 秘密の時間の終焉
(第一部 さくら と まゆ)