錦秋十月大歌舞伎、所感

お久しぶりです。近々ではおじいちゃんが全ての記憶を無くし、数日後全ての記憶を取り戻しました。

今回は2023年10月2日〜25日に歌舞伎座で行われた錦秋十月大歌舞伎について書きたいと思う。主に『水戸黄門 讃岐漫遊編』についてになる。
結論から言わせてもらえればこの『水戸黄門』は全く歌舞伎ではなかった。ただの新劇に相違ない。もっというなら歌舞伎らしさを感じなかった。俺はここに歌舞伎に翻案された『水戸黄門』を見たかっただけに非常にショックであった。


以下ネタバレを含みます


歌舞伎で感じた水戸黄門のフォーマット


俺は水戸黄門自体が実はこの歌舞伎が初見であり、もちろん「この紋所が目に入らぬか!!!!」くらいは知っているが、「格さん」「助さん」で始まるBLの魅力などは初めて知ったので茨城県民はこんな面白いものを隠し持っていたのかと驚愕する。なのでまずは水戸黄門の簡単な見どころを押さえていこうと思う。

・「格さん」「助さん」という掛け合いのBL

・黄門様は基本、身分を隠しており、ばかなふりもしくはバカと思われるようなシチュエーションに置かれているが、実際は偉大なお方であるので身分が割れると、皆が「ハハア!!!」とへりくだる。ここの笑い。

・黄門様の目が細くニコッリしているおじいちゃんとは裏腹に言葉には目を見開いてしまうような核心を帯びている

まだまだ色々あると思うが、主にこれらが基本的構造になっており、この要素にいかに起承転結を組み込み、どう物語を展開していくか、それをとっかえひっかえしている印象だ。そしてこれはもはやお決まりであり、これがあれば大体鑑賞者が笑うようになっている。

歌舞伎「水戸黄門」の問題点

では本題に入ろう。歌舞伎「水戸黄門」は歌舞伎ではない。これはどういうことなのか。
この歌舞伎「水戸黄門」には絶対的に抜けている要素がある。それは「省略美」だ。歌舞伎において、省略美とは俺は必然的なものであったように思う。

動く錦絵となぜ呼ばれるか。それは一挙手一投足を意識して、常に完成された画面を私たちに提供するためではなかったか。

ステージ上のいくつも変えられなかった場面ダッシュ当時は電気の明かりなどはなく、巨大な回り舞台が置けるようなステージの大きさもなかったダッシュをどのようにカット割して繋げていくのか。

こういった制限から生まれた省略美が江戸時代、明治時代の歌舞伎にはあった。ここであまり時代について言及すると、勉強不足が露呈するので昔の歌舞伎という程度にしておこう。いずれにしても旧歌舞伎から新歌舞伎への変遷ではまだ歌舞伎らしさがあったのだ。その歌舞伎らしさとはなんなのかといったところが今日でも問われているところであろうが、今回の水戸黄門を観て、その歌舞伎らしさとやらが一つに省略美ではないのか?ということが言えてきそうなのだ。
その省略美を担っていたもの。それは入場であり退場だったのだ。

入場と退場に命をかける

本歌舞伎では、序盤、つまり入場の場面は素晴らしい出来だったように思える。舞台は金毘羅劇場で、立ち旗には「坂東彌十郎」の固有名詞で大賑わい。『鎌倉殿の十三人』での活躍もあり、会場でも大爆笑をかっさらった。この演出はまさに贔屓の文化、歌舞伎という感じで俺自身もちょっと時政が好きだったから嬉しくなっちまった。物語進行、「格さん」「助さん」と掛け合いを見せ、娘お蝶の『白浪五人男』を連想させる刺青シーン。俺のお気に入りはそのお蝶のなぞの自殺未遂シーンで、いきなり木の裏から首吊るようの縄を取り出して、もう面白いのだが、さらに首を吊ろうとし、やけに縄がデカくて面白い。また時代とも相まってもしかすると本当に死んでしまうかもしれないというなぞのサスペンスもあり好きだ。そしてついに黄門様登場である。俺はあの瞬間ほど拍手がなりやんで欲しくないと思ったことはない。序盤の完成度は非常に高く、これから何が始まってしまうのだろうとワクワクしていた。

しかしその期待は裏切られた。物語が進行していくにつれ、登場人物たちは退場しなくてはならない。この退場の演出が非常に残念だった。つまりはカット割とでも言おうか、場面と場面を繋ぐその糊のような部分が本当にしょうがないものだった。方法は主に二つで
・舞台を回して、背景を変える
・暗転させて、舞台装置を変える
この二つだ。暗転は特に最悪で、準備に手こずりなかなか明るくならない時があり、その場合は太鼓のどん、どん、どん、の音を1分も2分も聴き続けなければならない。今まで歌舞伎を見てきてこんなことは一度もなかった。まずこんなにも場面が飛びまくることがまずなく、いかに黒子が躍動するかにかかっていたのだ。俺はこの作品をみてどんなに黒子が素晴らしい仕事をしてくれたのかということを実感した。現在放映中、『王様戦隊キングオージャー』のトウフの国では黒子のみなさんが頑張って働いているが、俺は今後、この黒子たちの仕事ぶりに感動を覚えずにはいられないだろう。
歌舞伎の新作において、最大の欠点はここにあると感じた。つまりは歌舞伎らしい退場を描けないのだ。花道でどのように退場するのか、登場人物はどのようにクドキ、思いを綴るのか。夜の部では『双蝶々曲輪日記』も行われたのが正直比較してしまった。長吉の退場、茶屋の亭主と与五郎の退場、これにあまりにも見劣りしている。そもそも戦おうともしていないのだ。
特に花道という舞台装置は歌舞伎においては切っても切り離せないものであることには間違いない。花道で人物が止まる時、俺たちには圧倒的な感動がある。一番前に座っていた腰の曲がったおっちゃんも、体をひん曲げ後ろを向いて演技を見たくなるものだ。舞台の上で全てが描けないから入場と退場に命をかける。だからこそ、花道が生まれ、さまざまな様式が生まれたのではないのだろうか?
話の構造も酷い。この作品は坂東彌十郎祭りといっても過言ではない。黄門様がとにかくなんでも解決してしまうのだ。しかしここには飽きを感じるを得なかった。黄門様はバカなふりをし、敬われ、気の利いた言葉をぽんと俺たちに送る。歌舞伎はそうではなかろう。それでは蛇足なのだ。特に俺たちを馬鹿にしてると感じたのは謎かけのシーンだ。なんだあのバカな会話は。格と助が説明される係をする。ようはこの作品は「水戸黄門」シリーズが作り上げてきたフォーマットを全て踏襲し、あぐらをかいているのだ。今はそれでもいいかもしれない。水戸黄門を知っている客がいて、その客も多くは贔屓がいてくれて、笑ってくれるから。しかし、もうそういう時代は終わりに近づいている。歌舞伎は本格的に終わろうとしている。国立劇場はどうなってしまうのだろう。この危機感をこの作品には全く感じない。

終わりに


客層はいずれ変化をせざるを得ない。寿命は尽きるからだ。そうなった時次の客層は俺たち若者だ。若者には好きな役者は概ね映画やドラマに出演していて、戯曲を理解することはおろか読むことすらしようとする人間は減少するし、そもそも見にきてくれるかもわからない。そして今回露呈してしまったのは、戯曲をそもそも書けないということだ。クドキはかけない、六方の一つや二つも作れない。俺はこれは非常に情けない話だと思っている。この作品をもし歌舞伎だと豪語するのなら、俺は全力で否定してやる。俺の信じてきた、心を動かされてきた歌舞伎はあの程度に収まるものではない。ただ目の前にいる客を笑かせる程度のものではなかった。その証拠俺がいる。もし新作の歌舞伎を作るのなら目の前にいる客ではなく、未来の客に笑ってもらえる、そんな歌舞伎をつけるべきだ。もし作れないというのなら俺が作ってやる。

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