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バナロ島(仮称)の一致しない姓・屋号・門中名#4|Field-note


Ⅲ型の事例

Ⅲ型は、本家に財力がなく、妻方の援助で分家した場合で、自身とその子らは生まれながらの(父系の)門中に属するが、姓・屋号は往々にして妻の生家にしたがう。

〈事例11〉仲真次門中メーマシンニー、安里門中マシアサトの場合

両家に〈事例10〉のピジャ家を加えた3者の関係については、伝承が途切れるほど遠い昔のことでもないのだが、すでに当事者の子孫の間でも諸説紛々としている。もちろんどれが正しくてどれが間違っているかなどわかるはずもなく、皆それぞれの価値基準のなかで正当性を保っている。したがって、ここではそれらの見解を紹介することにする。

伝承①
安里門中の男子rは、幼い頃にマシンニーへとあずけられ、そこで成人を迎える。そして、津堅の偉人徳田のカンプータンメーの娘sと結婚した。二人はしばらくはsの生家トゥクラで暮らし、その協力を得て分家し、トゥクダンヤーグヮを設立する。

それと前後して妻sは〈事例10〉のピジャ家qの子tを産んだ。この事実は久しく隠蔽されtはrの長男として扱われていたが、いつしかこの関係は衆目の知るところとなった。このためtはやむなく分家することとなり、分家にあたってrの養家マシンニーから屋敷地を譲り受けたため、新居をメーマシンニーと称するようになった。

トゥクダンヤーグヮの跡目はtの次弟uが継いだ。また、tは生物学的父であるqの息子のうち一番の早生まれであったため、正統に祀るべく人を求めてメーナカマシからピジャへと委譲された祖先の位牌およびqの位牌が、後日tの元に送られている。

伝承②
津堅の偉人徳田のカンプータンメーの娘sと結婚した安里門中のrは、シカネングヮとして育てられた養家マシンニーの経済援助でメーマシンニーを設立する。

妻sは二人の男児を出産したが、その長男tは実は〈事例10〉のピジャ家qの子であった。この事実はs個人の胸のうちにしまい込まれ、tは嫡子としてメーマシンニーを継承した。

一方、その次弟uは家計上の困難ゆえに母sの生家トゥクラにあずけられ、そこから屋敷地をもらいトゥクダンヤーグヮを構えた。

ところがついにこの関係は明るみにさらされ、rの位牌は血筋を頼ってuの元へと移され、またメーマシンニーにもtの相対的な出生順位にしたがって、q以前の位牌がピジャから送り届けられている。

* * *

これらの伝承では、rの門中帰属に関して彼の子孫たちは2つの立場に分かれている。ひとつは一貫して生れながらの安里門中に属し続けていたというもので、もうひとつは結婚後妻方の徳田門中に組み込まれ、近年再び安里門中に戻したとする意見である。

後者を説く話者はトゥクラには他に継承者としての正式な同系養子がいたことを知りながら、rをトゥクラのイリムク(婿養子)だと主張する。また、後者の傍証としてrらは以前は徳田門中の墓に埋葬されていたという事実も引き合いに出す。

しかし不思議なことに、rの姓は以前から「松根」――「徳田」ではないことに注意――であり、いまだ改姓されていない。tの門中帰属は徳田門中から、事件の発覚後は血筋に従い仲真次門中へと所属変えをしている。だが、姓はやはり「松根」のままである。

ただし、もうひとつ別の伝承がある(この意見は世代間の誤認があるようで、個人の同定が難しかったので割愛した)。これによると、tは松根門中から仲真次門中へと、rは徳田門中から安里門中へと変更したと言われる。

メーマーシンニーに暮らす老婆は現在でも盆・正月はトゥクラへの焼香を欠かさない。彼女は徳田のカンプータンメーとの縁故を強調し、それを誇りに感じている。

〈事例12〉南風原門中ウシーへーバラの場合

へーバラの3男vはナカマシの東隣にあるニーガミヤーの娘wと結婚するが、独り立ちするだけの財力を持たなかったため、妻方ニーガミヤーの援助を受け分家する。当時wが祭司職のニーガミだったことから、この分家もニーガミヤーと称するようになる。また、姓もそれをまね「根神屋」となったが、戦後「根神」に直している。

門中帰属は南風原門中であり続けたが、ニーガミヤーとの交渉も密であったようである。いつの頃からか屋号はウシーへーバラにとってかえられている。あるいは両屋号は併存していたのかもしれない。

聞き取りの1年前に新たに家族墓を造成し、南風原門中の墓から脱退した。

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