和具の包丁研ぎ師、ぼういっちゃん。

 二○二四年十二月一日。落合という男は伊勢市から志摩市志摩町和具に向かった。志摩市って? 三重県民以外は志摩市を知らない。知らなくて当たり前なのだ。志摩スペイン村を知っているかい? パルケ・エスパーニャって呼ばれているぜ。
 なぜに落合が志摩市に向かったのか? ヤスムロコウイチなる人物の歌を聴くために向かったのだ。
 まずは近鉄電車の急行に揺られて鵜方駅に着いた。午前十時過ぎだ。
「広の浜ですか? 地図では布施田になっていますね。布施田」
 鵜方駅の観光案内所の女性は胸を張って言う。
「あのね。広の浜は布施田から和具にまで広がっているの。だから広の浜」反論した。
「そうなのですか」
 志摩市は消滅が危惧されている市なんですよ。観光案内所の人も広の浜を見に行った方がいい。
 余計なお世話ですよ、おじさん。

 落合は志摩町和具の和具学校前バス停に着いた。バス停の近く、マックスバリュ午前七時開店の文字が光る。マックスバリュスーパーのすぐ近くの小屋で包丁を研いでいる男がいた。落合は広の浜に行く道を尋ねる。
「広の浜に向かっては緩やかな上り。広の浜からは緩やかな下り。上がってもよし。下ってもよし」
 包丁研ぎ師ぼういっちゃんは、広の浜に向かって行く落合の背中を見つめる。

 包丁を研げばきらっきらっ、いのちを育む、いずみ湧く。
 ぼういっちゃんは、吉武棒一という名前だ。
 ぼういっちゃんは三重県桑名市で、イタリアン居酒屋『オルカの海』を経営していた。オルカの海では高級食材を惜しみ無くつかった料理を出していた。カウンター四席、四人が座れるテーブル席が二つという、こじんまりとした店だ。
【赤牛しんしんステーキ】、【甘鯛のパリパリ焼き・レモンクリームソース】、【カラスミのスパゲッティ】などの料理を提供していた。料理の味はおおむね好評であったが、一品一品の価格が高すぎた。開店当初は満席になることが多かったが、しだいに客足が遠のいていった。
「桑名の人らは、頑固なはまぐりみたいに口を閉じるのかよ! あー南無さん」
 ぼういっちゃんは厨房で、換気をしている煤まみれのダクトを見上げて愚痴をこぼすことが多くなっていったのだ。
 二○二三年十二月三日(日曜)、イタリアン居酒屋『オルカの海』は、三年半という営業期間を終え、終了となった。ぼういっちゃんは、最後のお客さんを送り出してから、赤牛しんしんステーキを二人分拵え、アルバイトスタッフ東みちるちゃんとボルドーワインが入ったグラスをこつんと合わせたのであった。
 みちるちゃん、皇學館大學を卒業したものの、定職に就かず。アルバイトをしながら小説を書いて、公募型の文学賞に作品を出している。今年、北日本文学賞で一次選考を通過した。これからも応援したい。そうだ! 小説なら何処に住んでいても書けるのだ。我が郷里志摩市志摩町和具に、みちるちゃんを連れて帰りたい。が、みちるちゃんは二十三歳。年齢差は十八か。う~ん。愛があれば年の差なんて! 
 ぼういっちゃんと東みちるは向かい合わせに座り、ボルドー地方の特上産地、マルゴーの赤をゆっくりと味わいながら、カットした赤牛しんしんステーキをアクセントのようにつまんでいた。みちるちゃんは後ろで縛っていた髪をほどいていた。ミディアムヘアの毛先が柔らかく揺れているようにみえた。
「みちるさん」「はい?」
「もしも、もしもの話。うーーんと年上の男性からプロポーズされたらどうする? ことわるよね?」
 頬を火照らせている、みちるちゃんは真摯な表情になった。思案している。
「そうですね。愛があれば、二十歳うえでも三十歳うえでも嬉しいです」
「そうか! ありがとう。きょうはいい日だ」
「シェフ、それがですね。私のまわりには素敵な年上の男性がいないんですよ。困ったことに」
「そうなの……。それは、よくないね。環境が変わればいいかもしれない」
 ぼういっちゃんの声は何故か震えていた。

 恋の夢が虚しく消え去ったぼういっちゃんは、故郷の志摩市志摩町和具に戻り、包丁研ぎ師になった。
 包丁を研げば、きらっきらっ、いのち育む、いずみ湧く。志摩町一帯にある包丁を、きらっきらっにしてやる。それがオレ流の「愛」だ。愛は、愛を呼ぶ。海が見える『火場・広の浜』という名の食堂で結婚式を挙げようぞ。
 ぼういっちゃんの熱意が起こした波紋は、トビウオの群れが跳ねるが如く広がり、志摩町のあちらこちらから、包丁研ぎの依頼が持ち込まれるようになった。
 ライライライ ララララ―。

 和具中学の同級生ふたりと下級生。小原、大久保、佐古田の男連中は、包丁研ぎ師になったぼういっちゃんを小馬鹿にしていたが、包丁研ぎ屋『棒壱屋』が評判を呼んでいることを知り、おもしろくなかった。
「たかが包丁研ぎ師と鼻で笑っていたが、あいつが研ぐ包丁、大好評や。いまや志摩市商工会のお偉方も棒壱屋に注目している。おもしろくねえ」小原保はジャックダニエル・ブラックの水割りを呷ると吐き捨てるように言った。
「たもっちゃん、あんたは志摩じゅうの女を惹き付ける魅力、いや、魔力がある。棒一の奴とは大違いや。あんな三枚目気にするなや。」大久保新一は含み笑いを浮かべ、炙ってから裂いたイカの一切れにマヨネーズを付けてぱくりと口に入れた。
「そうそう。棒一さんは、不細工な女にしか相手にされねえ。広の浜の食堂にいるナントカさんに惚れられて、困っていると風の噂で聞きました」佐古田兵馬は悲しい目をして、しみじみと言った。
「さこた、なんで哀愁醸し出してるんだよ。おまえ棒一の味方か? おう!」小原はジャックダニエルの瓶を掴んで立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待ってください。おれは棒一の味方じゃ、ありません」佐古田は立ち上がり、泣きそうな顔になって、腕でストップ、ストップとポーズをつくり、真意を分かってもらおうと、ひとり語りをはじめた。
 スナック都夢(トム)に他の客はいなかった。店の前に小原たちの自転車が停めてあると、地元民は険しい表情になり、別の店に向かうのだった。

 二○二四年六月二十五日(火曜)。午後三時。ぼういっちゃんは、『火場・広の浜』のオーナー、竹本のじっちゃんに呼ばれて、海が見える火場にやって来た。『火場・広の浜』ではバジルの栽培を始めたそうだ。りか子が言ってた。バジルの苗を植えたのが五月下旬だから、七月下旬には花穂が成るだろう。花穂が成ったら葉を切り取るのだ。バジルを使った料理を考案するのかもしれない。
 じっちゃんは甚一だから、じっちゃんなんだよな。それにしても、話があるってなんなんだ? 火場で調理を担当している女性は三人いる。谷原りか子はその中のひとりだ。りか子は美人ではないがコケティッシュな魅力を秘めている。りか子と恋愛関係になってからひと月が経過した。竹本のじっちゃんはそれが気に入らなくて、苦言を呈するために自分を呼んだのであろうか。
 ぼういっちゃんは、【事務室】という木の札がドアノブに掛けてある部屋に入った。木製の古ぼけた机の前に竹本のじっちゃんが座っていた。机と椅子と縦に長い本棚と扇風機があるだけの簡素な部屋だ。
「待っとったよ」じっちゃんは柔らかな笑みを湛えて、ぼういっちゃんを迎えた。
「あのぅ、竹本さん、おれに話ってなんですか?」
「うむ。棒一くん、包丁研ぎの仕事、繁盛しているみたいだな、よかった」
「はい。おかげ様で」
「話というのは小原保のことだ」
「オバラ?」
「きみと小原は中学時代の同級生で、仲が良かったそうじゃないか」
「はい。中学のときはよく遊んでましたが、高校は、あいつは志摩高、おれは伊勢工業。ちがう高校だったので。それに……」
「それに?」
「あいつは大久保たちと志摩ツッパリ連合を結成して、悪いことばかりしていたようで……。噂によると大麻の栽培にも手を染めていたとか。ちかづくのが怖くなって、避けるようになりました」
 そうか、実はな。じっちゃんは本題を話しはじめた。今年にはいって、志摩市でふたりの若い女性が自らいのちを絶った。川田亜子と渡会美樹だ。ふたりは、小原保と親しかった。紛れもない事実だ。証言もいくつかある。小原は女性に貢がしておいて、その女性が邪魔になったら、簡単に棄てる男だ。奴を野放しにしておいたら、これからも被害者が出る。棒一くん、小原保の悪行にピリオドを打つために、奴にキツイことを言ってやってほしい。頼む。竹本のじっちゃんは、ぼういっちゃんに向けて、ペコリと頭(こうべ)を垂れた。
 そうか。小原保は女性を騙していたのか。ひどい奴だ。赦せない。それにしても竹本のじっちゃんは何者なんだ? まてよ。志摩市の鵜方駅前、雑居ビルの一画に『エクラン探偵事務所』がある。探偵事務所所長の名前は『江戸川バジル』。竹本甚一と江戸川バジルは同一人物なのか。それはさておき、小原保を反省させる? そんな大役が自分に務まるはずがない。竹本のじっちゃんの無茶振り、無茶苦茶だ。無茶振りを受けるわけにはいかない。
「竹本さん、じっちゃん。おれは臆病者だ。小原は狂犬。狂犬にキツイことを言って、反省させるなんて、できっこない。無理です」ぼういっちゃんは泣きそうな声を出して断りをいれた。
「そうか。だれしも自分が可愛い。それが現実だ、うん。だけど何らかの協力はしてほしい。女性の遺体のことだが、川田亜子の遺体は国府の浜の沖30メートルの地点で浮いていた。しかし、渡会美樹の遺体はまだ発見されていない。遺書が彼女の部屋にあったが、ひょっとすると、どこかで生きている可能性もある」竹本のじっちゃんは、ぼういっちゃんに渡会美樹の写真を手渡した。探索の依頼だ。
 事務室を後にしたぼういっちゃんは、食堂から出てトボトボと十六歩、海が見える広場にポツンと設置されている、剥げたベンチに腰かけた。
 青い海原、群れ飛ぶトンビ。広場と現地性の砂浜のあいだには舗装道路があり、ランドセルを背負った子どもたちが歓声を挙げながら歩いている。平和な光景だ。人間は、だれかを傷つけるために生まれてきたんじゃない。愛だ。愛なんだ。愛なんだよ。
「ぼういっちゃーん」
 振り向いた。レモンとレモンの葉がいっぱい描かれたエプロンをTシャツのうえに着けた、りか子が笑顔で駆け寄ってきた。ドラマ『俺たちの旅』みたいなシチュエーションだ。
「よっ、元気そうだな」ぼういっちゃんは腕をスッと上げ、手のひらをやわらかく振った。
「わたしはいつも元気。元気の素の20%くらいは、ぼういっちゃんが生成している」
 りか子はぼういっちゃんのとなりにひょこんと腰かけた。
「たった20%? さびしいなあ」
 ショートボブの髪からはシャンプーと汗が混じった匂いがした。わるくない。
「ほんとは50%と言いたいけれど、いまはまだ少なめに言っとく。これからが大切だから」
りか子。りか子。好きだ。ぼういっちゃんは彼女の手を包み込むようにして握った。

 竹本のじっちゃんは食堂の入り口、立て付けのわるいガラス戸越しにふたりの様子を眺めていた。
 棒一、りか子、仲がいいなあ。チクショウ。悔しい。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ、か。仕方ないなあ。
[じっちゃん、悔しかったら、呪えよ、呪え]
 美樹の悪意は甚一をけしかけた。が、じっちゃんには聞こえない。霊感がまるでなかったからだ。渡会美樹は人の眼には見えない存在になってしまっていたのだ。

 ぼういっちゃんは美樹の写真を預かったが、無駄骨になることを知っていた。渡会美樹は生きてはいない。人間として生きていないことを感じとっていた。亜子も美樹も小原保を怨んで死んでいった。小原の心には悪魔が棲んでいる。小原に巣くっている悪魔を追い出す術(すべ)は、ないものか。どうすればいい?
 美樹の写真を大学ノートに挟んでから三日目の夜、寝ているときに悪い夢をみた。
(オバラ、女性を騙すな。騙すなよ。おまえ、自らで首を絞めることになるぞ。生きることは「愛」なんだ。オバラ、懺悔の念をいだきたまえ。)
「棒一、笑わせる。善人ぶるなよ。なに、かっこつけてんだ。生きるってことは欲望を満たすことなんだ。女たちは俺に惚れられてしあわせだったのさ。いっときでもな。本音を吐くと、ほんとうに惚れていたか、演技だったのか、俺にもわからないがな。ハッハッハッ」
(オバラ! おまえって奴は。 オバラ!)
 目が覚めた。朝方の五時だ。びっしょり汗を掻いていた。

 それからぼういっちゃんはときどき悪夢をみるようになってしまった。小原保は悪魔に魅いられている。奴を改心させなければいけない。いい手立てはないものか。否、手立てなんて考えているときではない。当たって砕けろ。玉砕覚悟で小原にぶつかってみるか。しかし、しかし、怖い。奴は悪魔なのだ。怖い。

 七月十四日(日曜)。衝撃的なできごとが起こった。国府の浜でサーフィンをしていた小原保は、ボードから落ち、まるで何者かに引き摺り込まれるかの如く、海中にからだが飲み込まれたのだった。一時間後、小原は海面にぷかぷかと浮いてきたが、心肺停止状態であった。
 事故じゃない。泳ぎが達者な小原がこんなところで溺れ死ねなんてあり得ない。殺人だ。犯人がいない殺人なのだ。一緒にサーフィンをしていた大久保と佐古田は真っ青になりながら、陸に上げられた小原の遺体を見つめていた。

 棒一は予期していた。ぼういっちゃんは小原の死を予期していたのだった。七月十ニ日の朝方、またもや悪い夢をみた。
「オバラだ。おれは悪くない。おれは亜子も美樹も愛していた。だけど女たちには欠点があった。おれは欠点が赦せなかった。完璧な女性を求めて、なにがわるい? おれは逆怨みされている。感じるんだ。 もうすぐ、おれを地獄に引き摺り込む悪霊がやってくるだろう。 棒一、たすけてくれ。アーーー」
 ぼういっちゃんは跳び起きた。ぐっしょりと汗を掻いていた。

 川田亜子も渡会美樹も成仏していない。浮遊霊となって、とり憑く相手を探しているのだ。小原保の死を知った、翌日の夜、ぼういっちゃんは、ふたつの浮遊霊がちかくにいるのを感じとっていた。
[包丁研ぎ師、棒一よ。大切な包丁を仏壇のまえにおいて言霊を唱えるのだ] 守護霊から伝達がやって来た。
 唐木仏壇のとびらをあけ、香炉でお線香を焚く。香炉がおかれている経机(きょうづくえ)に、研いだばかり、光り輝く包丁を鎮座させた。
 ぼういっちゃんは数珠を手にかけて、般若心経を唱えはじめた。………………………………………………………
そくせつしゅわつ ぎゃーてぃ ぎゃーてぃ はらぎゃーてぃ はらそうぎゃーてぃ ほじそわか はんにゃしんぎょう

 いたいけな魂よ 無垢となって 光あふるる天上へ。
 ぼういっちゃんの包丁は、まばゆい光を放ちはじめた。

                  (了)


 

 


 
 

 

 




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