帰郷 (後編) 落合伴美
乃木坂コレドシアターには苦い思い出がある。コレドの主、桃井章さんを激怒させてしまったのだ。「パラソル」は二人芝居だった。彼女と浜田晃さんが出演。浜田さんの顔は、時代劇をよく観ている方なら知っているだろう。現代劇でも悪役で頻繁に出ていた。このとき82歳。これほど元気な82歳には会ったことがなかった。芝居は、小説に例えていうと、いくつかの短編をならべたようものだった。舞台上には二人しかいないのに、いったい何人を演じるんだ、呆気に取られた。彼女は少年の役が似合っていた。この芝居の稽古に入る前に、長い髪をばっさりカットしてショートヘアにしていたのだ。
芝居の内容云々よりも、彼女の演技に引き付けられた。これまで「クラクラ」で働いている姿しか知らなかったから、俺は目から鱗がぼろぼろ落ちるような感覚で舞台を観ていた。若さを思う存分ぶつけているような演技に痺れたのだ。せりふを噛みそうになり、言い直したこともあったが、ご愛敬だ。芝居はなまもの、熟練の役者でも噛むことがある。俺は興奮していた。興奮しすぎていたのだ。カーテンコールで「よかったよ」と叫んだ。その後、桃井さんは舞台に上がり、芝居にまつわる話をしてから、役者二人を讃えるために、役者紹介をした。
たきざわ! はまだ! ももい! 客席で叫ぶ男がいた。誰でもない、俺だ。桃井さんの表情、たちまち険しくなる。その後に起こる事など予想できるわけがなかった。「俺は客だ、叫ぶのは自由だ」との、傲慢さが腹の中にあったかもしれない。
終演後、出演者の友人知人は、客席で役者と歓談することができる。小ホールからぞろぞろと列を成して去っていくお客さんたちの横顔を眺めながら、真ん中の列の左端にいた俺は、立ったり座ったりしながら、さきほど花束を手渡した彼女が出てくるのを待っていた。
近づいてきたのは桃井さんだった。顔に怒りが表れていた。俺は反射的に立ち上がり、相手を待った。厭な予感がした。
「あんた、うるさいよ。うるさい。ひとの公演をなんだと思っているんだ。出ていきなさい! 向こうで頭を冷やしていろ!」
「はい」反論できなかった。小ホールから追い出された俺は、ホールとバー・コレドのあいだの通路に置かれている長椅子に腰掛けてうなだれた。
調子にのりすぎた。調子にのりすぎたのだ。天罰が下ったような心持ちだった。今夜は彼女と話せない、どうしよう。そんな気持ちで座っていると、芝居の音響を担当していた女性が声をかけてきた。
「あのう、彼女の知り合いの方ですか?」
「はい、そうです」
「ホールでみなさん歓談しています。行かれたらどうですか?」
俺は、ありがとうと言って、音響の女性に、少し頭を下げた。そして彼女と友人(文学座演劇研究所時代の同期生だっだ)が話している場に入れてもらった。芝居の感想を話したのだろう。あまり覚えていない。
次の日の午後もコレドシアターに行った。なんだかよくわからない芝居を二回観るひとは他にいるのだろうか? 彼女に夢中になっていたので、俺としては当たり前の行動であった。開場の30分前に到着した。バー・コレドのカウンターの内側に桃井さんがいた。目が合うと途端に不機嫌な顔になった。
「松井です。ゆうべは失礼なことをしました。すいませんでした」頭を下げた。
「わかればいい。バカなことはするな」
「あのう、きょうも芝居を観にきました。静かにしています」
「おう。そうか」
彼女の話によると、桃井さんは、女優である妹さんの喋り方を真似することがあるという。偏屈なひとが、ひょうきん者に変貌する瞬間があるとは信じられない。
開場。小ホールに入って最前列の真ん中に座った。二回目だから、連作短編的な芝居のおもしろさを少しは理解できるかもしれない。可能性は低いが。そして、きょうの日を「握手記念日」にしたいとの目論みが芽生えてきていた。
彼女の手を握りたいんだ。こんな気持ちはスケベ心からきているのか? 愛情からきているのか? 内面を分析することなどできなかった。
手を握ったらどうなるのか。
終演後。お客さんがみんな小ホールの外に出ていった。彼女は、お客さんたちが帰っていく様子を眺めている私に対して微笑みを投げかけた。たくらみに気づいてはいない。
「お疲れさまでした」
私は右手を出した。
「ありがとう」
彼女と握手をした。気持ちを込めた。ぎゅっと握った。
「あっ」
彼女は短く言った。性的な電流か愛の電流なのか? なんらかのメッセージが彼女に伝わった瞬間だった。
彼女は手のひらを見つめた。
「好きだからな」俺はつぶやいた。彼女には聞こえなかったようだ。
「松井さん、バーでゆっくりしていってください」彼女は言った。だが、午後6時発の新幹線に乗らなければならなかった。帰りの切符を買っておいたことは、選択ミスであった。
彼女の手に触れることはできたが、唇は遠かった。会えなくなる日まで、キスを交わしたことは一度もない。
急行電車は速度を落とし、津駅に停車した。県庁所在地である。安価なホットドッグ風のパンを食べてペットボトルのお茶をふた口飲む。うつらうつらと眠気をもよおす。
夢のなかで会津若松から来た彼女との出会いを振り返った。
地元伊勢で暮らしていた頃、進富座という映画館でイベントがあった。伊勢市近郊の度会町出身の女優A O さんが来場した。若手女優だ。AO さんのことを気に入った俺は、彼女(A O )が出演する舞台を東京の世田谷パブリックシアターまで観に行こうと思った。A O さん本人にも進富座のロビーで知らせた。彼女(A O)は完璧に俺をファンとして認めてくれたのであろう。絆を編むことがことができるぞ。俺の心は意気込みで満ちていた。
半年後の2013年4月、三軒茶屋の世田谷パブリックシアターで岩松了さん演出の芝居を観た。A O さんは脇役であったが、演技はなかなかよかった。東京駅で贈呈用のカステラを買っていた俺は、終演後、劇場のロビーでスタッフに声をかけた。
「伊勢から来た松井と申します。A O さんの知り合いです。面談出来ませんか?」
「お待ちください」 劇場スタッフは楽屋に内線電話をかけた。一分も経たないうちに、通話は終わった。
「A O さんは、あなたのことを知らないと言っています。面談はできません。お帰りください」
劇場スタッフの言葉に衝撃を受けた。こんなところに落とし穴があるなんてーーー。俺は持っていたカステラの包みをスタッフに押し付けて、劇場から出た。
呆然自失。酷い。酷すぎると思った。傷心を抱いて名古屋には帰りたくなかった。ほっこり亭(弁当店)にはまだ就職していない時期だった(この日から一ヶ月後に就職)。俺は新宿のビジネスホテルに宿を取っていた。傷心を少しでも癒す場所があるとすれば、あそこしかない。偉大なる演劇人で硬派な男、椿組の外波山文明(とばさん)が運営している「クラクラ」だ。クラクラは新宿ゴールデン街にあり、春風亭昇太さんなどの落語家や演劇に関わる人々が贔屓にしている酒場だ。人情酒場なのだ。
その夜、クラクラで会津若松出身の彼女に出会った。カウンターの内側でアルバイトしていたのだ。鮮烈な出会いだった。
階段を上がるときから「昭和」の匂いがする。階段を上がり、オンボロなドアを開けて、クラクラのカウンター席に座る。キープしてあった二階堂(麦焼酎)を出してもらって、飲み始めた。会津若松から来た彼女に会うのは二回目だが、前回同様、話しかけられない。可愛い女性だから、緊張する。何を話せばいいのか、わからない、言葉が出てこない。
仕方なく、となりに座っている片桐氏に話しかけた。片桐氏が飲んでいるゴードンジンのラベルには【暴力青春・キャロル片桐】と殴り書きしてあった。片桐は目つきが鋭い男だ。
「きょう東京に出てきました。世田谷パブリックシアターという劇場でショックなことがあったのです」
「ほう。どんなこと?」
新進女優A O から受けた仕打ちを話した。酷い仕打ちだ。話さずにはいられなかった。
「片桐さん、俺は傷つきました」
「ふーん。あんた、まちがっているよ。女優はプライドが高い。損得勘定をきちっとできる女優がのしあがっていく。あんたに付きまとわれても迷惑なだけだ。その女優の選択は正しい」
片桐の言葉を聞いて、ショックは増した。奈落の底まで落ちると思った。
「ちょっと待ってください。松井さんに会わなかった、その女優は傲慢だと思います。松井さんはまちがっていません」
会津若松から来た彼女は、きっぱりと言って、片桐に厳しい視線を浴びせた。片桐は「そう、そうかもしれないな」とタジタジになった。
救われた! 救われたと思った。俺の暗い心に光が差し込んだ。俺は、俺は、会津の彼女を応援しようと決意した。その日から7ヶ月後に乃木坂コレドシアターで彼女の芝居を観たのであった。
うつらうつらの浅い眠りから目覚めた。ここは伊勢に向かう近鉄急行の2号車。二人掛けのシート。となりには誰もいない。
乃木坂コレドシアターで観劇した「パラソル」は2013年の11月のことだ。その年の12月、彼女は、東京で人気があるM という小劇団で公演の演出助手を担当した。正式な劇団名は伏せる。翌年の1月初旬に彼女は広島に旅立った。合宿して芝居をつくる演劇引力廣島の公演メンバーに欠員ができて、急遽抜擢されたのだ。小劇団Mの座付き作家H の推薦だった。広島での演出担当はHだ。このあたりから俺はH の存在を意識するようになった。演劇台本を書いても、演出を担当しても、凄腕の男だ。そしてプレイボーイだ。硬派な演劇人、外波山文明(とばさん)は、クラクラでHのことを痛烈に批判した夜があった。脚本の力や演出の力は認めていたが。
俺は広島まで脚を運んだ。公演を二回観た。
演劇引力廣島での公演が2月の中旬に終わり、彼女は東京に帰ってきた。俺が会ったのは4月中旬、クラクラで会って話したと記憶している。このとき、新進気鋭の歌舞伎劇団「木ノ下歌舞伎」のオーディションに合格したことを知る。稽古場は横浜。秋に京都の「京都芸術劇場・春秋座」での公演が決まっていた。素晴らしい。
この年の7月、俺は職場である弁当店・ほっこり亭で、絵師であり、造形美術家であり、祈祷師であり、霊感占い師であり、姓名判断の本も出している北大路雄山と出会った。雄山先生は「まっちゃん。会津の彼女と恋仲になるのは奇跡が起こらないと難しい。きみの力だけでは無理だ。そして、奇跡が起こっても相思相愛をつづけたいならば、彼女の欠点を知ることだ。欠点を知り、その欠点をも愛せるなら、末長く夫婦でいられるだろう」と飛躍的なことを言った。
話を聞いて、反発したいと思ったが、自分はかっこいい男ではない。雄山先生の言っていることは半分も理解できなかったが、何かの折りには「雄山発言」を思い出したい。至言か。宝物みたいな言葉かもしれない。
2014年11月、京都で観た木ノ下歌舞伎「三人吉三」は、上演時間5時間という長い尺の芝居だった。見応えがあった。俺は当然の如く、土曜と日曜に観劇した。終演後にはロビーで彼女と話して健闘を讃えた。抱きしめたいと思ったが、行動には移せなかった。彼女は以前よりも色っぽくなっていると感じた。内面から艶っぽさが滲み出ていたのだ。
そしてもうひとつ、何かを隠しているように感じた。直感で感じたのだ。
「三人吉三」の二日目、東京の小劇団Mで制作を担当している女性Kさんに劇場でばったり会った。Mの座付き作家兼演出家のHに頼まれて、京都までやってきたのだと言った。会津の彼女にまた演出助手を頼みたいのだ、ということだった。座付き作家のHは業界では有名なプレイボーイだ。Hが二年続けて会津の彼女に演出助手を依頼する。俺の胸の中に疑惑の火が吹き出しだ。マッチ一本を擦ったような火であったが、やがて火は拡大していった。
彼女が劇団Mで演出助手をしていた12月中旬、深夜に悪い夢を見て、飛び起きた。寝ていたアパートの部屋には異変がなかった。俺が見た悪い夢とは、彼女が下着を脱がされて、何者かに恥部を吸われている夢だった。悪い夢を見てから一週間後、俺は新宿ゴールデン街、クラクラに行った。彼女は演出助手の仕事をしているので、当然、店には入っていない。カウンターの内側にいたのは、あさ美ママ(とばさんの奥さん)だった。
「松井くん」
「はい?」
「あの子、ヤバいことになってるわよ。情報が入った」
あさ美さんは顔を曇らせて言った。
「ヤバいこと?」
「あの子、今、某劇団の演出助手として稽古場に入っている。それはいいけど、稽古が終わってからエッチなことをされているみたい。あの男に」
「あの男?」
「これ以上は言えない。あなた、あきらめなさい。彼女に対する熱烈な気持ちをドブに捨てなさい」
「そんなこと、あさ美さんに言われたくありません。俺は、俺は、彼女を愛しているんだ!」
大きな声で抗議した。
「あなたは、彼女を理想化しすぎているのよ。女はね、汚れている一面を持っている。わるいことは言わない。あきらめなさい」
涙がこぼれた。クラクラで泣くのは二度目だ。一度目は2013年の9月、彼女にメールアドレスを訊いて、断られた夜、彼女のまえでボロボロ泣いたのだった。
年が明けた。2015年の1月末、土曜日の午後。池袋の東京芸術劇場に劇団Mの公演を観に行った。終演後、演出助手として劇場入りしていた彼女をロビーに呼び出した。久しぶりに会った彼女は、少しやつれていた。
彼女の手を包み込むように握った。彼女はまるで、それを求めていたようだった。俺の手の感触を受けとめていた。味わっているようだった。
「お疲れさま。今からどうするの? 時間あったら、どこかでお茶でも飲もうよ」自然に話せた。
「今夜はクラクラに入る。あさ美さんにはおととい、連絡した。ひさびさに入ります」
「そうなのか」
驚いた。昼間の公演だけの日とはいえ、劇団Mの公演中、クラクラに入るとは。
それから2時間後、クラクラで彼女と再会する。アルバイトとお客という関係性は変わらなかったが、晩御飯を食べていないと彼女が言ったので、玉子焼きを作ってもらって、それを分けあったことは、忘れられない思い出だ。
2015年3月、彼女はクラクラから消えた。アルバイトを辞めたのだ。俺はバカだった。玉子焼きを分けあって食べてから、二週間後、劇団Mの座付き作家Hを批判するメッセージをFacebookのメッセンジャー、つまり彼女宛てに送ってしまった。
「Hさんとは付き合っていません。何を勘繰っているのですか? 松井さんのことは嫌いです」
それが彼女との最後の交信だった。彼女に会うこともなかった。会津若松から来た彼女に演劇の神様は、そっぽを向いてしまったのか、2016年以降、彼女は芝居に出ていない。芸能事務所に入り直して、C M に出たり、自主映画に参加したりと地道に活動しているらしい。年に二回か三回、X(Twitter)に何かしらの活動報告をしている。
俺は伊勢に向かう急行電車のなかで、誰に過去を語っているのだ? 誰に語っているわけではない。すべては伊勢に着いてから実家の部屋でnoteというアプリを使用して綴っている夢物語なのだ。
近鉄の急行は伊勢中川駅に停車した。ペットボトルのお茶をひと口飲む。ケータイが鳴る。セカンドバッグの側面に入れているケータイが鳴ったのだ。あわてて取り出して、車両の連結部に移動する。連結部は揺れが酷い。電話は妹の優奈からであった。
「お兄ちゃん、今、どこ?」
「伊勢中川を過ぎたところや。もうすぐ着くで」
「お兄ちゃん、喪服、実家にあったよね?」
「喪服? 喪服って何や?」
「あのね、うさぎやさんが亡くなったの」
うさぎやとは、実家から徒歩十五分のところにある、比較的安価な寿司屋さんだ。主人の宇津木和守さんは70代の男性だ。
「うさぎやさんがなぜ?」
「二日前に倒れて、昨日病院で亡くなった。きょうがお通夜」
「そうか。喪服は箪笥の中にある」
俺が幼少の頃から、月に二回か三回は食べに行っていた。宇津木さんの柔和な丸顔が虚空に浮かんだ。
今夜、宇津木和守さんの親族は、葬儀会館に泊まり込み、お香やお線香の火を絶やさないように、交代で見守らなければいけない。和守さんが淋しくならないように。
午後3時過ぎ、急行電車は伊勢市駅に到着した。改札を抜けると正面に外宮参道が見えた。飲食店や土産物屋が軒を連ねているので、年末でも人通りはあった。天気は快晴。肌寒い日だ。バス乗り場に向かう。大湊行きのバス乗り場まで来ると、木製の長椅子に腰掛けている年配の男性の姿に度肝を抜かれた。黒い礼服を着ている、その人は宇津木さんであった。ずんぐりむっくりした体型。短髪。柔和な顔立ち。宇津木さんとしか思えない。大きなキャリーバッグが長椅子の脇に置かれていた。
「あのう、もしかして、宇津木さんですか?」
「はい、そうですが、あなたは?」
「松井です。松井太一です!」
「松井さん? 知りません?」
大湊行きのバスがやってきた。バスの方に気を取られてしまい、会話は途切れた。宇津木和守に瓜ふたつの男性が現れて、俺は気が動転していた。この先、何を言えばいいのだ。
宇津木さんにそっくりな男はバスに乗り込んだ。俺もつづいた。男は最前列の一人掛けに腰を下ろした。俺は男を監視するために、少し離れた席に座る。
発車。吹上町→伊勢市駅北口、バスは通過。男の指が降車ボタンに触れたように見えた。ピコーンと鳴った。大きなキャリーバッグを引っ張ってきた男は河崎町で下車していった。宇津木さんのドッペルゲンガーなのか?
旭通り→船江。俺は下車した。バス停から徒歩二分。一年ぶりに実家に帰って来た。元気な顔を定期的に見せることは大事なのだ。
母の淑江が居間の椅子に座って、何やら書いていた。テーブルの上に何枚入りかの香典袋セットが出されていた。母はセットから、ひとつ抜いて【御霊前】の下に、松井淑江と書いていたのだ。そうか。香典は個別に出した方が参列者の気持ちが伝わるものだ。母の向かい側に座って、俺も香典袋に名前を書き入れた。
「うさぎやさんの、それなりに美味しいお寿司が食べられなくなるのは、淋しいよね」母はぽつりと言った。
バローショッピングセンターに買い物に行っていた、妹の佳奈も午後4時半に帰宅して、香典袋に名前を書き入れた。
宇津木和守の本通夜は、伊勢シティホール・葬祭会館にて、午後7時から執り行われた。参列者は百人を超えていた。
僧侶の読経(どきょう)がはじまり、故人の親族から焼香に入った。焼香する親族のなかに、バス停で出会った男がいた。宇津木和守のそっくりさん。いや、和守さんには双子の兄がいたのだ。思い出した。写真を見せてもらったことがあった。ニューヨークの日本料理店で鮨を握っている兄さん。名前は宇津木新平だったと記憶している。
参列者が焼香する時間になった。順番を待っているときから、俺は、瞳がうるうるしていた。和守さんのご冥福を祈らずにはいられなかった。
遺影に向かって頭(こうべ)を垂れて、そして気持ちを込めて焼香した。さようなら、宇津木和守さん。安らかに。
午後8時半。母や妹と一緒に家に帰ってきた。母の拵えた肉じゃが、きんぴらごぼうを食べて、ゆったりと居間でテレビを観ていた。【サタデーステーション】という報道番組が始まる直前、学習塾のC M が画面に映った。小学生の男の子と母親が、緩やかな道を歩いている。驚愕した。母親役を演じていたのは、会津若松から来た彼女だったのだ。俺は画面を食い入るように見つめた。
感動だった。泣きそうになった。彼女とは会えなくなったが、彼女も俺も生きている。今、生きているんだ。
めぐみ、ずっと元気に暮らしていけよ。届かなかったラブソング、俺はいつまでも忘れない。忘れはしない。
(了)