櫻坂46の”UDAGAWA GENERATION"の歌詞がいいという話

ようやく出た櫻坂46の新曲”UDAGAWA GENERATION"。

ティザーで発表されたトンチキなタイトル通りのなかなかぶっ飛んだ歌詞ではあるが、よく読むと非常に素晴らしいと思ったので筆を手に取る。
ちなみに現時点でMV未公開なのもあり、MVや楽曲そのものに関する言及はしません。

前段として秋元康の歌詞は賛否両論…というか現代においては否が多いイメージ。
そもそも作詞家としてハイスキルというよりあくまでモチーフ選びが突飛でキャッチーなのとポップミュージックとして齟齬のない言葉選びができる職業作家という認識が多いのではないか。
また、年々ポップミュージックの中で韻(脚韻どうこうというより全体的な母音の配置)の重要性が増してきている中敢えてなのかできないのかはわからないがほとんどそこに配慮しないというのと、高齢だから…というより若い頃からだがオジサン丸出しの視座により、年を追うに連れ叩かれることが多くなり(”愛し合いなさい”を例に出すまでもなく)、康グループオタクでも秋元康の歌詞については気にしない人か「今更言うな」という諦観に満ちた人が大勢を占めていて、本当に秋元康の歌詞が好きな人はだいぶ少数かと思っている。
私としてもまあ玉石混交というか、光るものはたまにありつつ、最悪なものも少なくなく、平均としてみてもさほど好きではない。

そこで今回の”UDAGAWA GENERATION"である。

一聴して思い出したのが”危なっかしい計画”だ。

私の中で「最悪」の部類に入るものだ。(曲としては大好きだが)
言葉遊びや音の配置というよりそもそものモチーフがあまりにも厳しかった。
秋元康がたまにやる「女子高生が背伸びして遊ぶ」というモチーフで、櫻坂でも”制服の人魚”や”真夏に何が起きるのかしら”などがあるが、あまりに女性への解像度が低く、エロ漫画のような目線となっている絶妙なキモさが耐えられなかった。

が、今回はそのような「女子高生が」「背伸びして」というモチーフではないように見える。
特に”制服”というワードがないことは非常に大きい。”制服”は女子高生を表すキーワードであり、日本では特にシンボリックなものとして扱われて、秋元康もキモオジ歌詞を書く際に必ずといっていいほど出てくるが、今回はそれがない。
また前提としてこの主人公はかなり遊び慣れているようで(”疲れた朝日 何度見ただろう”)、Xでも同様の解釈のポストがあったが、"危なっかしい計画"を経た後の、成人してある程度たった遊び盛りの年頃に見える。(”ホントの年齢より大人に見えるようにMake me Up”はちょっと微妙だが…)

この成長はもう一つ意味がある。今回フロントである森田/山﨑/藤吉に代表される、櫻坂の平均年齢との関係である。
”危なっかしい計画”を歌っていたときの欅坂はセンターの平手友梨奈が16歳、平均で見ても20歳弱であり、女子高生とは言わないまでも卒業して間もない年頃だった。だからこそまだ精神的に未成熟な部分もあり、その彼女らに「危なっかしい」歌を歌わせる世界がある種の性的搾取を感じていた。
が、”UDAGAWA GENERATION"ではセンターの森田ひかるは23歳である。
藤吉夏鈴も同じであり、山﨑天はまだ19歳だが、ビジュアルやキャラクターからみても誰も「未成熟」という概念は感じられず、むしろかなり独立した女性としての強さを感じさせる。
メンバーの精神的成長に対し未だに「未成熟」を押し付けるのではなく、「遊び盛りの女性」の歌詞を書くというのは、櫻坂が(旧来の48グループなどのように)未成熟さ、未完成さを売りにするのではなく、独立した女性から見た都市風景を描く、という意味があると個人的に受け取った。

また、今回の”UDAGAWA GENERATION"が持つもう一つの特長が社会性である。
以下のような一節がある。

ここで騒ぐことすら 今じゃできなくなりました
ハロウィンなんかもうどうでもいい
浄化作戦 追い出されてしまう
あの娘はWelcom 私はNG?

これは明らかに以下のことを指しているだろう。

犯罪リスクを減らすための行政措置ではあるが、自治体権力の横暴とも言えて、個人的にもあまりいいことだは思えなかった。
そして、秋元康が櫻坂46の歌詞としてそこに対してまっすぐNOを書く視座にはかなり驚いた。(もちろんお前が言うなという話はありつつ…)

また”浄化作戦”というのはいわゆるジェントリフィケーションのことだろう。

このワードを見て思い出したのが!!!の"Me and Guiliani Down by the School Yard"だ。

ニューヨークにおけるキャバレー法(日本における風営法みたいなもの)を批判し、制定したジュリアーニ市長に対し"ジュリアーニには彼のルールがある、でも俺達は気にしない”と叫ぶ曲。
もちろん秋元康にとって権力批判もまたよくあるモチーフのひとつではあるが(”一番偉い人へ”)、一歩踏み込んて具体的な事例やワードを出すのは珍しく、驚いたとともに感心した。

またその後に続く”あの娘はWelcom あの娘はNG?”も個人的には面白いと感じた。
今までの秋元康が書いてきた女性は「背伸びする未成熟な女性」であり、つまり現時点ではまだ(家父長制的視点で)模範的、コントローラブルな存在であり、いわゆるbad girl(更にいえばいい意味でのbitch)ではなかった。

が、この曲では自分はbad girlであるという。
Welcomな女性もいるが、自分はNGとされる側なのだ。

そこで思い出したのは大森靖子の”マジックミラー”だ。

この曲はちょっと一言で語るのは難しいが、冒頭の”あたしアナウンサーになれない きみも色々してきたくせに”と今回の”あの娘はWelcom あの娘はNG?”に個人的には共鳴を見る。

もちろんいろいろな矛盾は生じている。
権力者の一員として生きる秋元康が、「模範的」な女性の代表とされる坂道グループの女性に、bad girlからの権力批判をすることに対し「リアルではない」「ジジイのお遊び」というのは簡単だ。
が、解像度高く櫻坂の活動を見ている自分として、この曲をそう切り捨てられない何かがある。
オタクに媚びず、そのパフォーマンスとアティチュードでファンを魅了してきた今の櫻坂のメンバーだからこそ、この曲にリアルを入れ込む事ができると思った。

そんな…こんな
自由とは愚かかい?
You Know!I Know!
何も期待していない

「私」は全てを諦めて遊ぶ。
日本という国に何も期待せず、歳を取ることをつまらないことと切り捨て、やりたいことは何もないのに渋谷という街にしがみつく。
”日本の未来を誰もが羨む”わけがないことを知っている。
”明るい未来に就職”なんてありえない。
そういえばこの曲には恋愛の描写が一つもない。遊びこそすれ、恋愛にもロマンが持てないのかもしれない。

”LOVEマシーン”から四半世紀。
もしかしたらこの曲は、シスコがなくなり、HMV渋谷がなくなり、宮下公園が金持ちパークと成り果て、権力の暴力と家父長制的模範へのプレッシャーが最大限増した現代における、絶望の”LOVEマシーン”なのかもしれない。

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