「ルミちゃん」と「ばあば」~ばあばside1
あたしは、すっかり年を取っちまった。
白内障とかで片目が見えなくなってね。ほんとは早く病院に行けばよかったんだろうけど、人の世話になるのが嫌でね、誰にも言わないでいたら、本当に見えなくなっちまった。
それに最近は、なんだかわけもなくイライラしてね。
若い頃から、怒りっぽかったんだ。そういう性分でね。年を取ると、ダメなところが余計にダメになるらしくてさ、ますます怒りっぽくなっちまったというわけさ。それに時々、頭がぼんやりして、わけがわからなくなっちまうんだ。
嫁さんは、よくしてくれてるんだよ。わかってるんだ。でもね、ご飯が口に合わなきゃ残したっていいじゃないか。風呂だってあたしは、嫌いなんだ。入らなくったって、いいじゃないか。それをとやかく言われるから、腹が立って八つ当たりをしちまうんだ。
そしたら、家族会議をしたらしくてね、あたしは施設に入れられることになったのさ。
もちろん、あたしには何の相談もなくね。
みんな、あたしが行かないと駄々をこねるとでも思ったんだろうけど、隠さなくたって、あたしは喜んで施設に行くよ。だってあたしは、人の迷惑になるようなことは、嫌なんだからさ。
あたしの性分がみんなに迷惑をかけてるってことも、十分承知してる。
それに、嫁さんに赤ちゃんが生まれてさ、私なんかいない方が、家族のためなのさ。
施設に行くのに、新しい服やら身の回りの物やら持たせてくれたけど、あたしは、そんなもん一つもいらないんだよ。
あたしは、もうなんにもいらないんだよ。
住めば都ってね、施設は、結構いいところだよ。
職員さんは、みんなやさしい。あたしが癇癪を起こしても、手慣れたもんで、構わず放っといてくれる。そうだよ、放っといてくれりゃいいんだ。そのうち、勝手に気分が収まるんだからさ。
三度のご飯は、あたしの口には合わないけど、残したって文句は言われない。おやつはおいしいよ。いいご身分じゃないか。
あたしは風呂が好きじゃないから、風呂の回数が少ないのはありがたいんだ。
粗相をしても、嫌な顔一つせずに始末してくれるしさ。
あたしは、喧嘩っ早いから、他の輩と揉め事を起こさないようにって、一人部屋なんだ。
慣れりゃあ、一人の方が気楽だよ。
それに、最近、以前のことがよく思い出せないんだ。
ここに、来る前誰とどんな暮らしをしてたのか。どんどんわからなくなってんだ。
でも、忘れちまった方がいいんだよ。その方が、気楽じゃないか。
そんな時だよ。ルミちゃんが現れたのは。
その日は、からりと晴れた、ぽかぽかと暖かい日でね、あたしは庭で日向ぼっこをしてた。あんまり気持ちがいいからうとうとしてたらさ、ルミちゃんにぎゅっとされて目が覚めたんだ。誰かがあたしをぎゅっとしてくれるなんて、夢を見てるのかと思ったよ。
ルミちゃんは、あたしのことを知っているみたいだった。あたしは、思い出せなかったけどね。
「ばあば」と言って、ぎゅっとしてくれた時、なんだか懐かしい感じがしたよ。
ルミちゃんは、大学をお休みしてるんだってさ。難しい勉強をしてたんだけど、勉強し過ぎて心が壊れちゃったらしい。ルミちゃんの病気には、誰かと一緒に住むのがいいらしくて、ルミちゃんはあたしと一緒に住みたいって言うんだ。
施設の人は、あたしと一緒に暮らすのは、それはそれは大変で、一人じゃ無理だろうって、ルミちゃんに言ったらしい。このことは、後からルミちゃんに聞いた。
あたしだって、無理だと思ったよ。
施設の職員さんは、ルミちゃんに1か月、試しに一緒に住んでみて決めるように言ってくれたらしい。
施設の職員さんは、こんなあたしに、無理だったら戻ってきていいと言ってくれた。本当にいい人たちだよ。
何日か後に、あたしはルミちゃんと一緒にタクシーに乗って、ルミちゃんのお家に行った。本当に行けることになるなんて、信じられなかったよ。
ルミちゃんのお家は、すごく居心地がよかった。ルミちゃんといると、あたしの癇癪もなぜか全然おこらないんだ。心が静かになっていくのがわかったよ。
1か月のお試しが過ぎて、あたしはずっとルミちゃんと一緒に暮らすことになった。
ルミちゃんは、お試しなんか必要なくて、最初から絶対にあたしと暮らすって決めてたらしい。本当にいい子だよ。
ルミちゃんの病気は少しずつ良くなっていて、大学にも行けるようになった。でも学校から帰ってくると、疲れてよく眠っていた。あたしも寝るのは好きだから、ルミちゃんが寝ている時は、一緒に隣で寝ていたよ。
寝過ごしちまってご飯が遅くなると、ルミちゃんは、ごめんねー急いで作るから、なんてすまなそうにするけど、あたしはご飯なんか遅くたって、全然気にしない。ルミちゃんの体調がいいのが一番なんだからさ。
ルミちゃんは、年寄りにいいご飯をいろいろ考えてくれた。それでもあたしは残しちまうんだけどね。それでも、ルミちゃんは怒らずに、私が少しでも多く食べるようにって工夫してくれるんだよ。
あたしのお風呂嫌いも分かっていて、よく体を拭いてくれた。申し訳ないねえ、ありがとうと言いたいんだけど、なかなか言葉に出して言えないんだよ。因果な性分だよ。でもね、あたしが言葉にできなくても、ルミちゃんはわかってくれているみたいなんだ。本当に、やさしい子だよ。
あたしは年のせいで、朝、やたら早く目が覚めちまう。ルミちゃんは、毎朝のように私を散歩に連れ出してくれた。あたしはもうゆっくりしか歩けないんだが、早起きしてゆっくりのペースで歩くのは、ルミちゃんの体にもいいらしい。ルミちゃんは、あたしのおかげで朝早く起きられるし、大学にも行けるって喜んでくれるのさ。
ルミちゃんの体調はどんどん良くなって、すっかり元気になった。
ルミちゃんは、人の二倍の時間をかけて、大学を卒業できたんだ。
そして、毎朝の散歩で会う、やさしい青年と結婚した。
あたしの役目は、終わったと思ったよ。もう施設に戻ったほうがいい。これ以上、ルミちゃんといたら、ルミちゃんに迷惑をかけちまう。あたしは、人に迷惑をかけるのは嫌なんだ。
でも、ルミちゃんは、あたしを施設にやらなかった。結婚するとき、あたしと一緒に暮らすことを青年と約束したんだそうだ。青年が手伝ってくれるようになったので、ルミちゃんは全然大変じゃないと言ってくれた。