〈もったいない〉が産んだエッセイ
きっかけは「もったいない」だった。
生粋の貧乏性のわたしは、何かと「もったいない」という感情に取り憑かれる。ダイエットをしていても、賞味期限が迫っているからもったいないとお腹が苦しくても無理に食べたりするし、どこかにお出かけしても、1個のことをするためだけに行くのはもったいないから、別の用事をいくつもくっつけたり。
こういうことが重なると、”もったいない疲れ”をしてしまうことも。
そんなわたしは最近、スーパーからの帰り道や夜床につくとき、子供の頃や学生時代など、若かった頃の出来事をよく思い出し、これもまた”もったいない”に襲われることになる。
当時は「この考えは死ぬまで変わらない!」と根拠のない、確固たる自信を持っていたことが、たった数年で、いっそ潔いくらいガラッと気持ちが変わってしまう。
これは考え方や感じ方、信じていること、趣味嗜好などさまざまなことに当てはまる。
身体的にも精神的にも成長していく過程で、これはいたって普通のことなのかもしれない。しかし、わたしはどうしても引っかかってしまうのだ。
ここでぽっと浮かび上がる感情が”もったいない”
このままだと、子供の頃に感じたことはなかったことになってしまうのではないだろうか。今まで考え、感じてきたことを全て誰かに全て共有してきたわけではないから、自分しか知らない”もの”のほうが多い。
当時は自分だけの宝物のように大切にしていた感覚が、歳を重ねるとこの世に存在しなくなってしまうのはとてももったいないし、寂しい。
まるで、3歳のときに連れて行ってもらった楽しかったはずのディズニーランドの思い出を全く思い出せないかのように。
わたしが50歳になったとき、90歳になったとき、今大事にしている感覚がなかったことになってしまうのが、なんとももったいないと感じてしまった。
たとえ、いつか変わってしまう考えだとしても、その時代に真剣に思っていた意思や感覚を、記録として生かしておきたい。すでに忘れてしまっていることもたくさんあるだろうから、遅いかもしれないけど、これ以上、わたしの思考が寂しい思いをしないように。
お金も時間も精神力も体力もかけて培った感覚かもしれない。それがなかったことになってしまうのはやはりもったいない。
あのとき考えたことは、今も生きている。考え方が変わっていたとしても。別の世界線でも。生きている。あの日の感覚は、消したくない。
生きてね、私の心緒。