白の章
陣痛に喘ぐ妻を連れ、山に向けて車を走らせる
掛かり付けの病院は目の前の山を越えればすぐだ
朝から妻の体調が悪く、少し熱があった
その事を主治医に連絡していると、突然陣痛が始まった
予定日よりも7日早い
電話越しで主治医に現状を伝えると、今すぐ病院に来るように指示を受けた
幸い明日が入院予定日だったため準備が済んでおり、すぐに家を出ることができた
家を出た頃に降りだした雪は徐々にその激しさを増し、既にうっすらと積もり始めている
この状況での山越えにリスクがあるのは理解している
だが迂回すると倍以上の時間がかかるため選択の余地はない
麓にある道の駅で急ぎチェーンを取り付け、山道を登り始めた
峠を越えた辺りでスタックしてしまい、車が動かせなくなってしまった
見立てが甘かった
激しい降雪とはいえ、予報になかったので油断していた
助けを呼ぼうにも電波がない
普段は問題なく繋がるので恐らく雪による影響だろう
このままでは取り返しのつかないことになってしまう
後部座席から聞こえてくる妻の唸り声が俺を一層焦らせる
一体どうすれば…
取るべき行動が何も思い付かず、ただ時間だけが過ぎて行く
コンコン
突然運転席側の窓が叩かれ、反射的に外を見る
そこには白い布で顔を隠した白い和服姿の人物が立っていた
顔の布には大きな目がひとつだけ描かれている
俺はその異様な姿に驚き、固まってしまった
しばらく無言で見つめあっていると、ソレは窓を開けろとジェスチャーをする
警戒しつつ少しだけ窓を開ける
ここで何をしているんだ、動けないのか
嗄れた声からお婆さんであることが分かり、人間だと分かり、緊張の糸が少し緩む
えっと…妻が後にいて、で妊娠中なんですけど、陣痛が来て…で病院に行きたいのに車が動かなくなって…
僕はどうしたらいいんでしょうか?
焦りからしどろもどろになりつつも、なんとか現状を伝える
お婆さんは後部座席の妻を見るとこちらに向き直り、しばらくして口を開いた
少し登るが近くにワシの家があるけぇ、うちに来い
産婆の経験もあるからワシに任せぇ
有難い申し出ではあるのだが、明らかに怪しい風貌をしているため、どうしようかと思案していると後ろから妻の呻き声が聞こえてきた
迷ってる場合じゃないか
妻にお婆さんからの提案を伝えると助けてもらおうと言うので、車をその場に残し彼女の家に向かった
雪の中を進み、獣道を登り、10分ほどでたどり着いたのは、これぞ古民家というような藁葺き屋根の建物だった
この山道は何度も通ったが、この山に人が住んでいたなんて、こんな立派な古民家があるなんて今まで気がつかなかった
屋内は思いの外暖かい
囲炉裏で火が焚かれており、見る限りエアコンやストーブはない
内装からも古民家らしい昔ながらの生活をしているのが見てとれる
囲炉裏のそばには赤ん坊を抱いた若い女性が座っている
何してるんだい、そこの布団を敷いて早く奥さん横にしてやりな
女性に挨拶しようとしたところ、お婆さんに遮られた
話は後で出来るので挨拶は会釈に留め、布団を囲炉裏のそばに敷いて妻を寝かせる
お婆さんは体を冷やさないようにと火鉢や湯タンポまで用意してくれた
お湯の入った大きな桶と入院用に準備していた新品のタオルを布団の近くに用意する
俺が手伝えるのはそこまでで、後は妻の手を握り声をかけることしか出来なかった
しばらくして古民家に産声が鳴り響いた
妻に似た可愛い女の子だ
妻に労いと感謝を伝え、娘を沐浴させているお婆さんにも感謝を伝える
貴女のおかげで娘に会うことが出来ました
何とお礼を言ったらいいか…
本当にありがとうございます
礼には及ばん
人を助けるのは当然のことよ
それより奥さんが心配だねぇ
妻は体力を使ったためか、はたまた熱のせいかは分からないが意識が朦朧としている
朝になったら病院に連れてかないとねぇ
娘の体を拭き、隣に寝かせると妻は安心したのか眠りについた
ワシが夜通しで奥さんと赤ちゃんの面倒をみるからあんたは休みんさい
流石にそこまでしてもらうのは申し訳ないと断るも、それで事故を起こしたらどうするとお婆さんに説得され、俺も妻から少し離れたところで床についた
普段と異なる環境だからか、或いは出産に立ち会い興奮したためかは分からないが夜中に目が覚めてしまった
妻を見ると額にタオルが置かれている状態でぐっすり眠っている
なぜか妻の側で寝ていたはずの娘と彼女らを見ていてくれていたお婆さんの姿がない
疑問に思い部屋を見回すと囲炉裏のそばで女性が赤ちゃんを抱っこしていた
俺の視線に気がついたのか、女性が顔をこちらに向ける
先程まで慈愛に満ちた表情で赤ちゃんに接していたが、俺と目が合った途端に悪意に満ちた笑みに変わった
その無気味な笑みの理由は分からない
気味が悪いので抱っこしている赤ちゃんに視線を落とす
彼女が抱いているのは俺の娘だった
彼女は突然着物の襟元を広げ、乳房を露にした
まさか娘に授乳する気か?
その考えに至った俺はカッとなり怒鳴り声を上げる
何してんだてめぇ!!
そこで目が覚めた
体は暑く、心臓が早鐘を打っている
変な夢を見たな…
そんなことを考えながら体を起こす
お婆さんは俺が起きたことに気がつくと、雪が止んでいることを教えてくれた
外に出てみると周囲はまだ薄暗い
山の中だし、冬の朝なのだから当然か
たしかに雪は止んでおり、積雪は想像よりかなり少ない
不思議に思いつつ車の様子を見に行くと、道路には雪がほとんど残っていなかった
エンジンも問題なくかかり、走行にも支障はない
ただ、昨日の積雪量から考えると異常な早さで雪が無くなっている
誰かが融雪剤を散布してくれたのだろうか
車の暖房と、買って以来積んだままになっていたチャイルドシートを取り付けて古民家に戻る
戻ってきて初めて気がついたが、女性と赤ん坊がどこにもいない
夢のこともあり少し気になっていたが、お婆さんは彼女の行方を知らないようだ
妻は熱が上がったのか、まだ意識が朦朧としている
娘にも検査が必要なので急いで病院に向かうことをお婆さんに伝えると、車まで見送りに来てくれた
改めてお婆さんに感謝を伝え、妻が元気になったら三人揃ってお礼に伺うことを約束し、車を発進させた
扉が閉まる直前"ごめんね"と聞こえた気がした
麓につく頃には雪は完全になくなっており、軽快に走ることができた
無事病院に到着し、妻と娘の検査をしてもらう
結果が出るまでの間、主治医と診察室で話をすることになった
連絡が取れなかったので心配しましたよ
まぁ無事産まれたようで本当に良かったです
遅くなりましたが、ご出産おめでとうございます
ありがとうございます
いやぁ~本当に昨日は大変だったんですよ
雪でスタックして峠の辺りから動けなくなって
ちょっと待ってください
雪ってなんのことですか?
昨日は雪なんて降ってませんよ?
いやいや、かなり降ってましたって
麓に着いた時にはうっすら積もってたんで道の駅でチェーン巻きましたし
いや、そんなはずありませんよ
えーっと、これ見てください
そう言って主治医はスマホの画面をこちらに見せる
気象庁のホームページが開かれており、昨日の天気が表示されている
ここに書かれているように昨日は一日中曇りで、雪どころか雨粒ひとつ降ってませんでしたよ
でも確かに降ってたんですよ…今朝だって雪が残る山道を下ってきたんですから間違いないです
またまた~、本当のことを教えてくださいよ
嘘なんかついてません…
そうだ!昨日のお婆さんに聞けば分かるはずです
お婆さん?
昨日山で立ち往生した時に助けてくれた方で、お婆さんの家にお世話になったんです
産婆の経験があり、出産も彼女が助けてくれたんですよ
あんなところに人が住んでいるんですか?
聞いたことないな~
僕も驚きましたけど藁葺き屋根の立派な古民家があるんですよ
子供の頃からこの町に住んでますけど初めて知りました
ちなみにお婆さんの名前って何ですか?
あぁ~分かりません
そういえばお互いに名乗ってませんでした…
表札もなかった気が…
先生
看護師が入室してきたため、話はそこまでとなった
主治医は看護師から紙を受けとり、一通り目を通すと口を開いた
えぇ~検査結果が出ました
まず赤ちゃんですが、特に異常はみられませんでした
本当に何事もなくて良かったですね
娘の検査結果を聞き、ほっと胸を撫で下ろす
ただ、問題は奥さんですね
インフルエンザではなくただの風邪のようですが、産後で体力が低下しているのもあってなかなか熱が下がってくれません
既に解熱剤を投薬しているので、しばらく様子を見ましょう
奥さんの熱が下がるまで赤ちゃんは新生児室でお預かりしますね
検査結果を聞き終えると、妻の病室へ向かった
既に妻は眠っており、点滴のお陰か多少顔色が良くなっている
着替えなど、荷物の片付けを終えると病室を後にした
その日は諸々の手続きを終えると、娘の顔を一目見てから帰路に着いた
意識して探したが雪の痕跡を見つけることは出来なかった
主治医は降っていなかったと言うし、何より気象庁のホームページでも曇りとなっている
だが出発前に確認するとタイヤにチェーンが巻かれていたのでもう何が何だか分からない
雪にばかり気を取られていたため、古民家を確認するのをすっかり忘れていた
どのみち奥まった所に家があるので、山道からは見えないだろう
実際に家があるか否かは、お礼に伺う時に分かるので考えないことにした
連絡するのをすっかり忘れていたので、帰宅後すぐに娘が産まれたことを両親と義両親に報告した
四人ともとても喜んでおり、明日病院に来てくれることになった
明日は外せない会議があるので、仕事が終わり次第合流することを伝えた
翌日の会議中、ポケットに入れたスマホが振動した
長く震えているので電話だと思われるが、会議中なので無視をする
一分ほどで止まったかと思えば間髪入れずに振動する
そんなことを三度繰り返すと、それ以降は静かになった
後で確認しなければと思いつつ会議に集中していると、部屋の扉が勢いよく開け放たれた
事務の女性が息を切らせながら立っており、何かを探すように視線を巡らせる
俺と目が合うと彼女は口を開いた
松尾さん!娘さんが!!
会議室を出て話を聞くと母から俺宛に電話が掛かってきたらしい
娘に何かあったとのことで、俺は急いで病院へ向かった
病院に到着すると今しがた娘の処置が終わったところだった
主治医曰く新生児一過性多呼吸を発病したらしい
チアノーゼになっていたが、今は落ち着いているようでホッとした
鼻に通したチューブが痛々しい
代われるものなら代わってやりたいと思うのは親心なのだろうか
妻は未だに熱が引かず、意識が朦朧としているため、娘の容態は知らせていないとのこと
二人とも心配だ
娘の事は両親、義両親に任せて妻の病室へ向かった
ベッドで眠る妻の手を握り、顔を眺める
しばらくそうしていると妻の目が開き、顔をこちらに向けた
あなた、お見舞いに来てくれたの?
ありがとう
娘にはもう会った?
あぁ、さっき会ってきた
今日は俺らの両親も来てくれてるよ
今は娘のとこにいるけどね
そうなの?
お義父さんとお義母さんにも後で挨拶しないと
挨拶なんかしなくていいよ
病人なんだからゆっくり休んで
意識が朦朧としていると聞いていたが、今は問題なく会話が出来ている
一時的なものだったようで少し安心した
だが娘の事はまだ伝えるべきではないだろう
病人に不安を植え付けることは避けた方がいい
そうそう、今朝ね、看護婦さんが赤ちゃんを連れてきてくれてね、抱っこさせてくれたの
ちっちゃくて可愛かった
おっぱいもちゃんと飲めて偉かったの
熱の影響か、少し幼い口調になっている気がする
いいなぁ、俺はまだ抱っこ出来てないや
ふふっ、退院したら好きなだけ抱っこ出来るよ
その日が待ち遠しいなぁ
じゃあ今日は俺達帰るから、ちゃんと休めよ
早く良くなって皆で帰ろう
妻との会話を終え、病室を後にする
会社に娘の無事を連絡してから両親らと合流した
落ち着くまで休んでいいぞ
その代わり戻ってきたらこき使うからな?
何かあったら連絡しろ
と上司から有難い言葉を頂いた
両親と義両親には我が家に泊まってもらい、翌日は朝から病院へ向かった
妻の顔色は多少良くなっていたが相変わらず熱が高い
今朝も看護婦さんが赤ちゃんを連れてきてくれておっぱいあげたの
妻はそう言っていたが熱で見た夢か幻だろう
娘はまだ治療中で、チューブが繋がっているのだから
一応看護師に確認をしたが、そんなことしていないと言う
毎日二人の様子を見に行くが、そのたびに妻は娘とのエピソードを話す
その間も娘の治療は続き、チューブが取れたのは産まれてからちょうど一週間後のことだった
日を同じくして妻は亡くなった
肺炎を併発し、半日ももたなかった
それから俺は抜け殻のようにボーッと日々を過ごしていた
そんな俺の代わりに諸々の手続きを両親と義両親がやってくれたようだ
気づけば葬式、火葬、納骨を終えており、手元には仏壇だけが残った
その仏壇をただ眺めるだけの日々
そんな俺を心配し母が身の回りの世話をしてくれていたが、食事が喉を通らず、俺はみるみる痩せていった
妻が亡くなり二週間が経った頃、義両親が家を訪ねてきた
今日が退院日だったようで、義母の腕には娘が抱かれている
まだ抱っこ出来てないでしょ?
そう言うと義母は俺に娘を抱かせた
赤ちゃん特有の高い体温が腕に伝わる
娘の顔はどことなく妻に似ており、俺と目が合うとにこりと笑った
その瞬間視界がぐにゃりと歪み、涙が頬を伝う
俺は…バカだ…
妻が亡くなったことへの悲しみに、その寂しさに囚われ周りが見えていなかった
いつまでも悲しんではいられない
娘のためにも、妻のためにも前を向いて生きていくことを心に誓った
両親、義両親にはこれまでのことを謝罪し、また支えてくれたことへの感謝を伝えた
精気の戻った俺の顔を見て、皆安心したようだった
不意にぐぅ~とお腹が鳴る
この二週間、録に食事をしなかったのだから無理もない
お腹の音を聞き、皆堪えきれずに笑っていた
ファミレスに移動すると、食事をしながらこれからの事を話し合った
当然娘は俺が育てるが、一人では色々と大変だろう
そのため専業主婦である母と義母に足りないところを助けて貰えないかとお願いする
母は当然だと答えたが義母は驚いていた
私も良いのかい?
こう言っちゃなんだけどもう娘はいないのに
お願いしてるのは僕の方ですし、助けていただけると有難いです
それに娘にとってはお婆ちゃんですし、僕にとっても義理の母なんですから気にしないでください
俺の言葉を聞き、義母も了承してくれた
お義父さんもいつでもいらしてくださいね
娘も喜びますし
あぁ、ありがとう
私も君のような息子ができて幸せだ
義父の言葉に父が頷く
食事を終えると上司に連絡し、育児休暇を申請した
既に妻の訃報が会社に伝わっていたこともあり、申請は難なく受理された
両親、義両親の協力があるとはいえ子育てはかなり大変で、あっという間に一年が過ぎた
娘の一歳の誕生日、俺は夢をみた
大きな一ツ目が描かれた白い布
その布で顔を隠す白い和服姿の人物が嗄れた声で"ごめんね"と謝りながら白い光に包まれ消えていく
そんな内容だった
間違いなくあのお婆さんの夢だ
この一年色々なことがあり、お礼の事をすっかり忘れていた
今日から仕事に復帰するため、すぐにとはいかないが娘をつれてお礼に行かなければ
お婆さんの夢を見てから一週間後、妻の一周忌に当たるその日にも夢を見た
悪意に満ちた笑みを浮かべる若い女性と彼女の服掴む2~3歳くらいの男の子が闇の中に佇んでいる
女性の表情が笑顔から一転、無表情に変わった
あんた、感が鋭いね
娘はあと少しだったのに…あぁ口惜しい
恨みの念がこもっているのは伝わるが、言ってる意味が分からない
どういうことかと考えていると、男の子が満面な笑みを浮かべ口を開いた
妹が出来なかったのは残念だけど、新しいお母さんをありがとう
夢はここで終わっており、目が覚めた時には夢を見たこと自体忘れていた
数日後の休日、午前中に墓参りと買い物を済ませると、娘を連れて山に向かった
もちろん目的はお婆さんにお礼を伝えるためだ
あの日のように山道に車を停めておくわけにはいかないのでタクシーを使った
峠を越えた辺りでタクシーを止めると、運転手は怪訝な表情を浮かべた
この人もお婆さんが住んでいるのを知らないのだろう
獣道を登るため、動きやすいように娘をおんぶする
記憶を頼りに少し歩くと覚えのある獣道を見つけたのでそれを登って行く
しばらく進むと開けた場所に出たが、古民家どころか建物一つ見つからない
道を間違えたのかと考え、一度引き返したがそれらしい道は他になかった
広場に戻ってきたはいいが、やはり何もない
この一年で古民家は解体されたのかもしれない
不自然に開けたこの空間がそれを物語っているように感じる
防寒対策をしているとはいえ、一歳の娘を連れてこのまま探し続けるのは避けたい
お婆さんにお礼を言えないのは残念だけど仕方ないか…
そんなことを考えながら周囲を見渡していると、木々の隙間に何かが見えた
近づいてみると膝ほどの高さの小さな鳥居と社があった
折角なのでお菓子を供えて手を合わせる
そうだ、下山したら役所に行ってお婆さんのことを聞いてみよう
次の行動を決め、社に背を向けると目に光が飛び込んできた
手で光を遮りながら光源の方を見た俺は、そのまま固まってしまった
社に近づく時には気がつかなかったが、木々の間に骨が転がっており、木漏れ日を反射していた
驚きのあまり目が離せずにいたため、それが人間のモノであり、形状と大きさから大人と子供計二体の白骨体であることを理解した
そこまで理解すると同時に忘れていた夢の内容を思い出した
そうか、お前らだったのか…ふざけるなよ…
俺の頬を涙の粒が転がり、手が激しく震える
うわぁー!!!
バキッという音が木々の中に木霊する
俺は感情を抑えきれず、怒りのままに二体の白骨を踏み砕いた
キャハハハ
背中では娘が楽しそうに笑っていた
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