赤の章

もうこれ以上言い訳なんか聞きたくない!
今すぐこの家から出ていけ!

 妊娠後の検査で妻のお腹の中にいる子と自分に血の繋がりが無いと知った俺は、今まで感じたことが無いほどの怒りに駆られた

そんなこと言わないで!
ここを出てどこに行けって?
身重の妻なんだから大事にしないと今後の夫婦関係にも

今後の夫婦関係だ?
そんなのがあるって本気で思ってんのか?
冗談じゃない!
契約通り離婚するに決まってんだろうが!
行く宛がないだぁ?
腹の子の父親の所にでも行けばいいだろ!

そんなこと出来るわけないでしょ?
あなたを愛してるんだから

よくもまぁぬけぬけとそんな嘘がつけるな!
もういい、お前の両親呼びつけて引きずってでも連れて帰らせてやる

 そう言いながら携帯を取り出して電話帳を開く

ちょっと待ってよ!
分かった!分かったから
出ていくからそれだけは止めて

 そう言うと妻はキャリーケースに荷物をまとめ、後悔しても知らないから という捨て台詞を吐いて出ていった

 俺はわざと音が鳴るように鍵をかけ、廊下を歩き、ソファに座った

はぁ…

 背もたれに身体を預け、天井を仰ぎ見ると同時に自然と漏れ出たため息がリビングに溶けてゆく

 今はただ、何も考えずにボーッとしていたい

 そんな思いとは裏腹に、思考と感情が次から次へと洪水のように押し寄せる

 それに耐えかねた俺は、買い込んでいた酒を煽った

 思考が巡り、感情が大きく動こうとする度に缶を傾ける

 そんなことを繰り返していると、突然視界がぐにゃりと歪んだ

 何事かと目に触れて、はじめて自身が泣いていることに気がついた

 先ほどまで妻を攻撃することで何とか保っていたものが瓦解したのだろう

 その感情に抗うという選択肢は既になく、号泣しながら酒を煽り続けた


 いつの間にか眠っていたようで、身を震わせるほどの重低音で目を覚ました

 何事かと周囲を確認しようとするが、体を上手く動かせない

 寝起きだからとか、酔っているからとか、そんな理由ではない

 何故か手足が縛られており、口にもタオルが噛まされている

なんだこれ?どういう状況だ?

 どうやらバンの荷台にいるようだが、何故ここにいるのかが分からない

友人のイタズラか…?或いはデリヘルを呼んでこんなSM的なことでもしてるのか?
駄目だ、何も思い出せない

 泣きながら酒を煽ってからの記憶がないため、そんなことを考える

 しかし、こんなことをする友人に心当たりはないし、デリヘルにもSMプレイにも興味がない

 いくら傷心で酔っていたといっても、自分でこんなことを頼むとは考えにくい

そうなると他に考えられるは…誘拐?

 その考えに至ると同時に妻の捨て台詞が脳裏を過り、次いで鍵を回収していないことに気がついた

 心臓は早鐘を打ち、体が冷たくなっていく

大丈夫、落ち着け…落ち着くんだ…

 そう自身に言い聞かせながら深呼吸することで、少しだが冷静になることが出来た

 改めて状況を把握しようと、シートの隙間から前の座席を覗き見る

 角度的に顔は見えないが、運転席にいる人物は体格からして男性だと思われる

アイツの捨て台詞から考えて、コイツが不倫相手ってことか?

 次いで助手席を見るが、人がいるのか判然としない

 状況から考えて嫁がグルなのは確実だろうが、性格的にこの場に来ているとは思えない

相手が一人なら拘束さえ外せれば

 手足を動かしながらそんなことを考えていると、前触れもなく車内が静寂に包まれた

もう起きたんだ

 不自然なタイミングで途切れた音楽の代わりに、聞き覚えのない男の声が俺に語りかける

はじめましてだね
俺が誰か分かる?
あぁ、運転中はそっちを向けないからさ、リアミラー見てよ

 言われた通りリアウィンドウの上部を見ると、にやけ面の見知らぬ男と目があった

 どうやらルームミラーとリアミラーを介して俺の様子を伺っていたようだ

やぁやぁ、察しはついてると思うけど一応自己紹介するわ
俺はアンタの嫁の不倫相手だよ

こんなことして、何が目的だ!

 俺は不安な気持ちを隠すようにして吠え声を上げた、上げたのだが…

あぁ?なに言ってっか分かんねぇよ

 俺の言葉はタオルに飲み込まれてしまい、上手く伝わらなかったようだ

まぁいいや、お前がこれからどうなるか教えてやるよ
いや、俺がお前をどうするかってのが正しいか
俺はな、お前を殺すことにしたんだ

 背筋が凍りつき、全身に鳥肌が立つ

裁判だの、慰謝料だの、養育費だの、色々と面倒なんだわ
それに一度くらい人を殺してみたかったしさ、いいタイミングだと思ってよ
お前も遺伝子検査なんかせず、大人しく俺の子を育てれば良かったのになぁ
いや、不倫相手が俺じゃなきゃ死なずに済んだのか
まぁ運が悪かったと思って諦めてくれや

イカれてる

 それ以外の感想は出てこず、より必死になって手足を動かす

お前さ、手足が自由になれば俺に勝てると思ってんの?うっざ
まぁもう着いたし、今さらそんなことしたって無駄だけどな

 ちょうど目的地に着いたようで車が止まり、男は運転席から降りるとバックドアを開けた

さぁ、こっからは俺にとって初めてで楽しい時間
お前にとっては絶望の時間のはじまりだ

 笑顔の男はそんなことを言いながら、黒い手袋をはめる

 それが終わると俺に手を伸ばしてきたため、足を使って必死に抵抗する

ちっ、鬱陶しいなぁ

 そう言うと男は強引に俺を荷台から引きずり下ろし、受け身も取れずに悶絶している俺の腹に重い一撃を入れた

 その衝撃で嘔吐するがタオルを咥えているため、隙間から胃液が溢れ出るのみで殆どが口内に残ってしまう

 不幸中の幸いか、昨晩は何も食べずに飲んでいたため、固形物で喉を詰まらせることはなかった

うっわ、きったねぇなぁ~
ズボンに付いちまったじゃねぇかよ
はぁ、これはお仕置きだな

 そう言うと男は痛みに悶える俺の背中を踏みつけた

 その衝撃で今度は息が吸えなくなり、のたうち回る

 男は逃がさんとばかりに俺の髪の毛を掴み上げると強引に座らせ、そのまま顔面を殴りつけた

 勢いよく倒れた俺は受け身も取れず、地面に頭を打ち付ける

 その拍子にタオルが取れたため、チャンスだと思い最後の力を振り絞って大声を出す

たすけて

 しかし背中を蹴られてから碌に呼吸が出来ていなかったため、小さく掠れた声しか出てこなかった

あのさ、今さら無駄だって言ったよな?

 助けを求めたことに怒ったのか、男は仰向きに倒れている俺の胸を踏みつけた

 再び呼吸が止まる

 もう一度俺の髪の毛を掴み上げると、男は駄目押しとばかりに顔面を殴りつけた

 再び地面に打ち付けた頭がふわふわしはじめ、視界も霞む

 体には力が入らない

 拘束は未だ取れず、助けも期待できない

もう、どうしようもないな

 完全に抵抗する気力を失った俺は、全てを受け入れることにした

 殴られた時に切ったようで、口の中は血と吐瀉物の混ざった味で満たされている

あれ?もう死んじゃった?

 男はぐったりして動かない俺の胸に足を乗せると少しずつ体重をかける

 先ほどの踏みつけで骨が折れているのか、激痛が走り思わず声が漏れる

あぁ、よかった
まだ生きてた

 そう言うと男は俺の脇に手をいれ、引きずりながら移動する

おい、見てみろよ
綺麗な朝日だぜ

 顔を上げると視界が開けた場所に立たされていた

 確かに朝焼けが鱗雲を彩っておりとても美しい

 その絶景を望むことで、ようやく自身が今どこにいるのかを理解した

良かったなぁ
人生の最後にこんな綺麗な景色が見られてよ

 その言葉を理解するより早く体は浮遊感に包まれ、草木で傷を増やしながら俺は崖を転がった

 制御が効かずに回転し続けた体は、地面に打ち付けられたことでようやくその動きを止める

 そして俺の意識はそこで絶たれた


うん?
どこだここ?イッつぅ~

 気がつくと見知らぬ天井を眺めていた

 周囲の状況を確認しようと思い、体を動かすと途端に激痛が走る

 それでも我慢して何とか頭を右に傾けると、手拭いが目の前に落ちてきた

 湿っていたのか、手拭いの周りだけ布団の色が変わる

 それを見ていると体に違和感を覚えた

 また痛みに耐えながら左腕を目の前に出すと包帯のような物が巻かれていた

誰かが俺を見つけて手当てしてくれたのか…
でも、どう見ても病院じゃなくて古民家だよな?

 体を起こせないため見える範囲を確認すると、内装の雰囲気以外にも囲炉裏があったり、壁に簑と笠がかけられていたり、行灯の火がゆらゆら踊っているのが見えたためその様に考えた

 そんな場所であるにも関わらず、誰かがお見舞いに来てくれたかのように枕元に花が生けられている

 名前は忘れてしまったが、赤い風船のような植物が10本はありそうだ

何はともあれ、目覚めた報告と助けてもらった感謝を伝えないと

 そう思い至った俺は人を呼ぼうと声を出したのだが、発声するにも激痛が伴い、実際に出たのは呻き声だった

 それでもそれなりの大きさだったため、人が来ても良いはずだが一向にその気配はない

外出中か?

 怪我の影響で布団から出ることも出来ないため、大人しく住民が帰ってくるのを待つことにした


うわっ!
はぁ…はぁ…夢かぁ…

 天井を眺める以外にやることがなかったため、或いは怪我で体力がなくなっていたためか、いつの間にか眠っていたようだ

 悪夢をみて飛び起きたのだが、既にその内容は思い出せない

 どれほど眠っていたのかは分からないが、その間に住民が帰ってきていたようだ

 その証拠に先ほど落とした手拭いが今は額に乗せられいる

 また手拭いが落ちてしまうが、住民を探して頭を動かす

 しかし、見える範囲に人影はない

すみませーん、誰かいませんかー?

 痛みに鈍感になっているようで、先程と違ってまともな声を出すことが出来た

 と言っても普通に話す声よりもやや小さかった様に思う

 そのためか、誰からも反応は得られなかった

まだ帰ってきていないのか?
そもそも今日は何日で今は何時なんだ?
俺はどのくらい寝てたんだ?

 そんな疑問が湧いてきたが、時計もカレンダーも存在しないこの部屋から答えが得られるハズもない

 そしてまた天井のシミを数えている内に眠りに落ちてゆく

 そんなことを何度か繰り返していると、枕元に生けられている植物、その赤い風船のような部分が目を覚ます度にその数を減らしていることに気がついた

 だからなんだと言われればそれまでなのだが、なんとなく気になった

 そして何の偶然か、その風船の様な部分が全てなくなった日に包帯が全て外され、体も動かせるようになっていた

 しかし完治はしていないようで、痛みや瘡蓋等はまだ残っている

 起きた時には下着しか身に付けていなかったので服を探すと、畳んだ状態で枕元に置かれていた

 久しぶりに動いたためか体が重く、服を着るのもやっとな有り様だ

 服は崖から転がった影響で所々破けてはいるが、洗濯してくれたのか泥などの汚れは一切付いていない

 そういえばと思い土間を探したが靴が見つからない

そりゃそうか、車に乗せられてる時も履いてなかったしな
不便だけど仕方ないか
それにしてもいい匂いだなぁ~

 先程から家中に漂っている何とも言えない香りが、腹の虫を刺激する

そう言えばあの日の昼から何も食べてなかったな
というか、ここに来てから飲み食いしてないな

 そこでふと疑問が浮かんだ

 ここは病院ではないため点滴なんてものはない

 水だけなら5日、水も飲まないとなると3日で死ぬと聞いたことがある

 経過日数は分からないが、それが正しいのであれば既に死んでいてもおかしくない

助けてくれた人が寝てる俺に水や流動食を食べさせてくれてたとか?
う~ん…まぁいいや

 そんなことを考えても仕方がないので匂いのもとを探すことにした

 と言っても囲炉裏に火が灯っており、掛けられた鉄鍋がぐつぐつと音を立てているため、答えは明白だ

 囲炉裏の手前には茶碗とお椀と箸、それと蓋にしゃもじの置かれたおひつが用意されていた

 鍋の蓋を外すと蒸気と共に広がった味噌の香りに胃袋が悲鳴を上げる

 空腹が限界に達した俺は、自分に都合の良いように解釈して食事をはじめた

 白飯に味噌汁と質素なメニューではあるが、病み上がりで尚且つ久しぶりに食事をする身としては、この優しい味がとても有り難かった

 味噌汁に入っている山菜の苦味に生の実感を覚えつつ黙々と食べ進め、鍋とおひつが空になる頃には満腹になっていた

ふぅ~、御馳走様でした!
こんなに食べたの学生ぶりだ
病み上がりでも食えるもんだなぁ~
それにしても

 我慢できなかったとはいえ、断りもせずに食事をした挙げ句、少しも残していないのは如何なものだろうか

恩を仇で返されたって怒せたらどうしよう…
まぁその時はその時か

 よしっと言いながら立ち上がった俺は、家主を探すために家を探索することにした

 と言ってもこの家には外に繋がるもの以外に扉は一つしかない

 十中八九家主は外にいるだろうが、取り敢えず奥の部屋へと続く引戸を開けた

 中は思いの外広く、部屋を囲うように置かれた棚や箪笥の上、部屋の中央に置かれた長持の上に多様な物が整然と並べられている

 高そうな調度品や装飾品、この場所には似つかわしく無いような衣類やキャンプ道具等がある

 生活感の無さや置かれている品々の統一感の無さから考えるに、ここは恐らく倉庫なのだろう

 家主がいないのは一目で分かったのだが、面白そうなのでなんとなく見て回ることにした

 古びた弓矢や黒い彼岸花、ボロボロの手帳など、様々な物がある中で一際異彩を放つのは真っ白な和服の上に置かれた大きな目が一つだけ描かれた布地である

なんか見られてる感じがして気味が悪いなぁ

 そんなことを考えながら置かれている物を見ていると、見覚えのあるものが目に飛び込んできた

 それは嫁が使っていた物と同じキーケースである

いや、まさか…
流石にそんなはずないよな?

 既製品であるため嫁の物ではないだろう思いつつも、念のために中を確認して驚いた

 彼女のためにと特別に入れて貰った焼印がそこにあった

なんでコレがここにあるんだ?

 戸惑いつつももキーケースを戻さず、手に握ったまま奥の部屋を後にした

 そのまま外に出ると久しぶりの日の光に目が眩み、思わず笑みがこぼれる

 こんなことにも生を感じつつ家主を探すが、人に会うことはなかった

 古民家の周囲には小さな鳥居と社がある他に何もなく、後は木々が鬱蒼と繁っているのみだ

たぶんここは山の中なんだろうけど帰り道が分かんないしなぁ~
お礼も伝えたいし、とにかく家主に会わないとどうにもならないよなぁ…

 そんなことを考えていると遠くの方から何か聞こえた気がした

今のは車の音?
でも音が反響してて方向が分かんないな

 帰り道が分からないまま靴下で山の中を動き回るのは避けたい

 家主の帰りを待ちながら時折聞こえてくる車の音に意識を集中力させることで、なんとか音のする方向を絞ることができた

 それからしばらく待っても家主は帰って来ず、日が暮れる前に下山したいという思いがあったことから、ポケットに入れていた名刺にメモを記して茶碗の下に置き、古民家を後にした

 音の方向に進むとすぐに獣道を見つけたため、足を怪我しないように気をつけながら歩みを進める

 途中何度か車の音が聞こえてきたため、自信をもって前進することができ、しばらくすると道路に出ることができた

 覚えのある峠道だったため、帰る方向は分かったが歩道もないような道である

 交通量は少ないが気をつけながら進んでいると、公衆電話を見つけたため迷わず通報ボタンを押した

 驚くことにあの日から5ヶ月も経っており、俺は行方不明者として届け出がされていたことから、すぐに警察が迎えに来てくれた

 それからはトントン拍子に話が進み、間男は逮捕された

 しかし嫁の方は証拠不十分のため捕まることはなかった

 俺はすかさず調停の申し立てを行ったが、妊娠による体調不良や出産の影響などで日程調整が上手くいかず、離婚するのに約一年もの時間を要した


 俺は自分の身を守るため、嫌な思い出に縛られないために離婚が成立したら引っ越しすることに決めていた

 その引っ越し当日のことである

 嫁の物を残して荷物をまとめ終わり、業者を待っているとインターホンが鳴った

 てっきり業者だと思い確認せずに玄関扉を開けると、赤ん坊を抱えた嫁が立っていた

お前、何しにきたんだ?
接近禁止なんだからちゃんと守れよ

あなた、今儲かってるんでしょ?
この間まで夫婦だったんだから、私にも一部を貰う権利があるはずよ!

 行方不明の間に俺は会社を解雇されており、生活に困っていた

 そんな時になんとなく買った宝くじで一等が当たり、それを元手に投資をはじめるとこれがまた大成功

 今は仕事をせずに資産運用のみで生活しているが、その事は誰にも話していない

それをどこから嗅ぎ付けてきたのか知らないけどな、お前に渡す必要なんて微塵もないからな
さっきも言ったけど接近禁止なんだ、警察を呼ばれたくなかったらさっさと帰れ

 それだけ言って玄関を閉めようとすると、元嫁が扉に足を挟んで妨害する

待ちなさいよ!
それだけお金あるなら慰謝料はいらないでしょ?
それに、この子の養育費だって払って貰わないとだし?

はぁ?
慰謝料に関しては合意しただろ?
今更なに言ってんだ?

その時はあなたにお金があるって知らなかったんだから仕方ないでしょ?
あの人も捕まってるし、一人で働きながら子育てするのって大変なの!

知ったこっちゃないね
それに養育費だ?法的にも科学的にも俺の子じゃないんだから払うわけないだろ
分かったら帰れ

 携帯を開きながら言うと、元嫁は何か言い返そうと口を開くが、言葉にするより早く赤ん坊が泣きはじめた

 元嫁は声をかけながら我が子の背中をトントンと叩き、揺り篭のように体を揺らす

 もう秋だというのに赤ん坊は袖の短い服を着ており、手足は赤くなっている

子供のためにももう帰れ
慰謝料を減額する気はないけど、どうしても生活が苦しいなら後回しにしてもいいから、ちゃんと弁護士に相談しろ

分かった、そうする
ありがとう

ほら、もう行けよ
こんなに涼しいのにそんな薄着で、赤ん坊が可哀想だ

 俺の言葉に頷くと、元嫁は踵を返す

あっそうだ
ちょっと待った、まだそこに居ろ

 あることを思い出した俺は、それだけ伝えて一度家に戻る

 その間に赤ん坊は落ち着いたようで、玄関に戻ると泣き声は聞こえなくなっていた

はいこれ、まだ返してなかったから

よく見つけられたわね、ありがとう

見つけたのは俺じゃないけどな
これがないと来週荷物を取りに来られないだろ?
今渡せて良かったよ

誰かが警察に届けてくれたってこと?
あの人は山に捨てたって言ってたけど

 元嫁は、俺があの古民家から持って帰ってきたキーケースを受け取りながら不思議そうに聞いてきた

 あの日嫁は俺の言うとおり間男の家に泊まり、俺との出来事について伝えた

 話を聞いた間男は元嫁が寝ている間にキーケースを盗んで犯行に及んだらしい

 キーケースは俺を崖から落とした後、下山しながら適当なタイミングで車の窓から投げ捨てたのだとか

 実はな、と俺は元嫁に古民家での出来事を話した

へぇ、あの山に古民家があるなんて知らなかったわ
どの辺に建ってるの?

えっと…峠付近の山側の斜面に獣道があってな、そこを登っていくとあるんだよ
まぁ警察も知らなかったみたいだし、山の持ち主が道楽で建てた家なのかもな

ねぇ、私のキーケースがあったって言う倉庫みたいな場所には具体的に何があったの?

えっと…食器とか、指輪とか、真っ白い和服とか、キャンプ道具とか、木の弓矢とか、ボロボロの手帳とか、ホント色々だな

へぇ、まるで統一感がないわね

確かに、倉庫と言うより 山で拾った落とし物を集めてみました って言われる方がしっくりくるような感じだったな

そう、じゃあもう帰るね
接近禁止、破っちゃってごめんなさい
それと…慰謝料の件、ありがとう

 それだけ言うと、元嫁は足早に去っていった

 その様子に違和感を覚えたが、嫁と入れ替わるようにやって来た引っ越し業者への対応に追われ、その事はどうでもよくなっていた


 無事に新居への引っ越しを完了し、荷物の片付けや挨拶回り、あらゆる手続きを全て終えるのに一週間もかかってしまった

 ようやく暇になった俺がやることと言えば一つしかない

 俺は手土産を用意してあの山へと向かった

 タクシーを降り、獣道を登るとしばらくして開けた場所に出た

 しかしそこに古民家は存在せず、あるのは不自然に広がった何もない空間のみである

 場所を間違えたのかとも思ったが、山の中にこんな開けた場所はそうそうあるものではない

そうだ!
ここにアレがあれば…

 あることを思い出した俺は記憶を辿りながら探索し、程なくして小さな鳥居と社を見つけた

じゃあやっぱりここに古民家があったはず
この一年で解体されたのか…?
そう言えば警察も古民家について知らなかったな…

 行方不明の間の消息について警察に問われた際に正直に答えたのだが、この山には古民家どころか山小屋すらないと言われていた

 警察は俺が嘘をついてると判断したのか、はたまた刑事裁判において俺の消息の情報に価値がなかったのか分からないが、古民家について碌に調べてくれなかったことを思い出す

 俺は山の所有者に聞けば助けてくれた人に会えるだろうと考え、山を下りると探偵事務所に向かった

 しかし、山の所有者にたどり着くことは出来ず、解体を請け負った会社、建材を廃棄した業者等を見つけることも叶わなかった

 俺を助けてくれたのは誰だったのか、あの古民家は何だったのか、あれこれ手を尽くしたが何も知ることは出来なかった

 俺はせめてもの感謝の気持ちとして、定期的にあの場所にある小さな社にお参りしている

 いつの日か、恩人に会えると信じて


 元夫に会いに来たのは慰謝料の免除ないしは減額して貰い、あわよくば養育費を請求するためだった

 しかし、それらは連れていった子供が泣いてしまったために失敗に終わった

 子供好きな元夫のことだ、薄着で連れていけば減額くらいはしてくれるだろうと思っていたのに、まさか裏目に出るとは思いもしなかった

 彼が捕まり、両親にも友人にも見限られた私には、もうこの子しかいない

 だけど私が一人で働いたところで、慰謝料があることも考えると家計は火の車

 この子を育てるためには少しでも多くお金が必要

 だから私は元夫が話していた古民家へ行くことに決めた


 元夫の話の通り、峠の辺りを探すと獣道のようなものを見つけた

 リュックを背負っていたこともあり、私は息子を抱っこした状態で獣道へと分け入る

 紅葉した落ち葉に足を取られながらもなんとか進んでいると、しばらくして開けた場所に出た

 そこには話に聞いていた通りの茅葺き屋根の建物が鎮座していた

ごめんくださーい

 戸を叩きながら声をかけるが、返事どころか人の気配すら感じられない

 鍵などは特にかけていないようで引戸は抵抗なく横に滑る

誰かいませんか?

 奥の部屋まで聞こえるように再度声を投げ掛けるが、やはり返事も人影もない

 しかし竈門には火が灯っており、囲炉裏では鉄鍋がグツグツと音を立てている

 それらの状況から近くに人がいると考えた私は、中に入る前に一応古民家の周りを一周し、人がいないことを確認した

お邪魔しまーす

 目を離した隙に住民が帰って来ていないか確認しながら古民家の中に足を踏み入れる

 返事がないことを確認すると、土足のまま真っ直ぐに奥の部屋へと向かい、引戸を開いた

 元夫が話していた通り中は倉庫のようになっており、様々な物が棚や長持の上に整然と並べられている

 私はそれらを物色しながら、少しでも価値の有りそうな物を持ってきたリュックに入れていく

 その過程でザックが私のリュックより一回り以上大きいことに気がついたため、ザックの中にリュックをしまう

 しばらくして一杯になったザックは思いの外重く、背負った際に少しよろけたが何とか転ばずに持ち堪えることが出来た

 肩の痛みに耐えながら倉庫のような部屋を後にすると、囲炉裏の奥に見える建物の入り口の引戸が閉まっていることに気がついた

誰かいるの?

 すぐに出られるよう、入り口の戸を開け放っていた私は、緊張しながらあちこちに視線を巡らせる

 しかし返事はなく、人影も見当たらない

 急いで入り口に近づいて引戸に手を掛けるが、何故かびくともしない

 息子を畳の上に寝かせ、勢いをつけて両手で力一杯引いてみたが、音を立てるばかりで動く気配がまるでない

ねぇ、やっぱり誰かいるんでしょ?
勝手に入ったのは謝るから早く開けてよ

 しかし、相変わらず私の呼び掛けに反応は返ってこない

無視してないで早く開けなさいよ!
こっちには赤ちゃんだっているのよ!

 そう叫びながら扉をドンドンと叩いていると、案の定息子が泣き始めた

ほら!泣き声が聞こえるでしょ?
盗った物は全部返すから、早く開けて!

 そう言うと私は胸と腰のベルトを外し、右腕を肩紐に通してスウィングするようにザックを下ろす

 しかし重すぎて片手で持つことが出来ず、半ば投げるような形になってしまった

 その際に結び目が解けた様で、ザックの外側につけていたランタンが、カラカラと音を立てながら竈門の方へと転がっていく

 次の瞬間、突然爆発が起こり竈門の横に積まれていた薪と藁に引火した

 私は慌てて息子を抱き抱えると入口の戸をドンドンと叩きながら叫んだ

ちょっと早く開けて!
ランタンを落としたら爆発して火事になっちゃったの!
お願いだから早く開けてよ!

 依然として返事はないが焦っていたこともあり、無意識に戸に手を掛ける

 今度は何の抵抗もなく開いたが、その先の光景に言葉を失った

 外に繋がるはずの引戸の先には、何故か先ほどまで物色していた倉庫のような部屋が広がっていた

 しかも奇妙なことに棚や長持はあれど物は何一つ置かれていない

 咄嗟に振り返った私は既に炎がこの部屋の半分を埋め尽くしていることにも驚いた

いくらなんでも火の回りが早すぎる

 そんなことを考えても状況は変わらない

 私は不安に思いながらも倉庫のような部屋へ入ると、部屋の奥にある引戸を開いた

 やはりと言うべきか、引戸の先は囲炉裏のある部屋へと繋がっていた

 不思議なことに先ほどまで炎に埋め尽くされていたはずのこの部屋には、炎どころか何かが燃えた痕跡すら残っていない

 そう、囲炉裏にも、竈門にも、行灯にすら火が灯っていないのだ

 夢でも見ているのかと振り返ると、既に倉庫のような部屋のほとんどが炎に包まれていた

 迫り来る熱気に目が乾き、顔がヒリヒリする

 暑さのためか、息子の泣き声もより一層大きくなる

痛みがあるってことは夢じゃないの?
もう!何がどうなってるのよ?

 私は急いで外へと繋がるはずの引戸を開くが、目の前には倉庫のような部屋が広がっている

 さらにその奥の引戸の先には囲炉裏の部屋が…

 いくら引戸を開けても一向に外には出られず、火の回りも異常なまでに早いため、休むことすらままならない

 それでも私は走り続ける

 いつか外に出られると信じて

 体力の続く限り

 この子と過ごす未来のために


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