古い歌:ペドロ&カプリシャスと・・・
ペドロ&カプリシャス
1971年メジャーデビュー、洋楽のティストをアレンジした、アダルトコンテンポラリーの馴染みやすいサウンドで、多くのファンを獲得して一世を風靡しました。
リーダーは「ペドロ梅村」と言います。
&のあとの「カプリシャス」は、「気まぐれ」という意味です。
何度も、ボーカルやメンバーの変遷がありましたが、中でも高橋真梨子さんの知名度は、群を抜いています。
その、心に沁みいる歌声の源は、どんな経験から・・・
当年、何と75才。
バイタリティーの源は・・・
彼女の生い立ちですが、悲壮の気に沈溺している中での幼少期を送りました。
1949年に広島で生を受けたものの、出会う前の両親はそれぞれ1945年の広島原爆で被爆していました。
第二の故郷として疎開した博多では、父親はスナックで「サックス」奏者として活動して生計を立てていましたが、悪化する病気(足の指先から壊死する病気)の影響で、仕事は思うようにできず、ホステスのアルバイトで一助を担う母親が一家を支えていました。
そんな、苦労から不満をぶつけあう夫婦には喧嘩が絶えず、やがて両親は別居して真理子は母方に引き取られます。
真梨子は、音楽に携わっていた父を慕い続けていて、音楽に触れる機会を与えてくれた父親、その愛情は紐帯の強さでした。
離婚後広島に戻っていた父親に頻繁に合いに行っては「私が大人になったら、歌手になって楽させてあげるよ。」と言い聞かせて父とひと時を過ごすのが唯一の楽しみでした。
一方、博多では、アルバイトで中州のスナックで働きつつ家庭を支えていた母親ですが、真梨子との折り合いは悪く、父親が病のため不遇なのを奇貨として、不倫をしていたことを看過できない真梨子との確執は苛辣の極みに達していて、37才で他界した父親の葬儀に臨席した際、真梨子に泣き崩れる母を一切拒絶し続けたほどでした。
高校卒業後に、中州の「バー」で歌手として活動していたところ、ナベプロ(渡辺プロダクション)の目に留まり、東京で本格的に歌手としてデビューするため修業することになりました。
ナベプロのマンションが寄宿先となり、同居人は「中尾ミエ・木の実ナナ」と、今やレジェントとなっている方たちと、衣食を共にして実力をつけていきます。
20歳になり、一人の自立した歌手というアインデンティティーを目指すために、故郷福岡に戻り母のもとへ。
久しぶりに再会してやつれ果てた母親を見ると、今までの感情は消え去りました。
これまで母に向けていた怨嗟の感情を顧みて、自分のわがまま故に母に八つ当たりしていたと、未熟な自分に気づいたのです。
そこには、母の恋人も、家族の一員として認めた、大人になった真理子がいました。
ソロ活動をしていた真梨子は、ペドロ梅村の目に留まり、本格的にペドロ&カプリシャスのメインボーカルとして羽ばたくことになりました。
しかし、離婚と再婚、グループからの離脱と、波乱の波を乗り越えた真理子、「五番街のマリー」「ジョニーへの伝言」などをリリースするも「無国籍ミュージック」と揶揄されましたが、その歌声は人生の辛酸を身に染みている真理子だからこその深み、今もその歌声は時代を超えて多くの人々の心に沁みいります。
2021年に結成50周年を迎えましたが、高橋真梨子さんは、ソロでも精力的に活動しています。
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