"私"の見ている世界
"私を動かしている私は、本当に存在しているのか?"
小学4年生くらいのある時期、私はこの考えに囚われていた。
自分という人間を動かしている意志は、自分のものなんだろうか。今こうやって考えている私の、本当に本当に一人ぽっちの決断なのか。
そんな孤独があり得るんだろうか。心細すぎやしないか?
それじゃあ私が次の瞬間からその決断を放棄し続けたとしたら、私の体は一体どうなってしまうのか。
結局そんな気持ちなんていつの間にか忘れて、今日も生きている。
しかしその折々で、自分がこの考えに囚われていたことを微笑ましく思い出す。
私たちは遺伝子の乗り物にすぎないのか?
ナチに追従した人々の心理が、自分にないと言えるだろうか?
「欲望とは他者の欲望である」のだろうか?
そもそも自由意志は本当に存在するのか?
私が動かしている私は、他の人みんなが見ているようにはどうしたって見ることができない。動かしているのは他ならぬ私なのに。
それってすごく理不尽ではないか?と考えたりもする。
でもきっと、世界は認識する人の数だけある。
私たちは所詮生物だから、その世界は似たり寄ったりのものなんだろう。
その意味で、私たちの選択はいつも、選んでいるようで選んでいない。
それでもきっと一つの同じ世界を見ているのだと信じたいから、
私たちはいちいち孤独に陥る。
でもだからこそ、孤独であるからこそ、
相手の世界に自分の世界が少しでも重なったと勘違いできたとき、
大きな喜びを噛み締める。
私たちはそうやって明日も明後日も生きていくんだろう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?